地域福祉アプリの実証試験に参加した悠人と美咲は、古い姿見によって身体を交換される。
立会人の里奈が二人の名前を記録するなか、会社員と介護者、それぞれの生活が相手の身体とともに引き渡されていく。

胸の重みが遅れて揺れ、悠人は鏡から手を離した。
喉から出たのは、三日前に会った美咲の声だった。
鏡の向こうでは、自分の身体が女の目でこちらを見ていた。
「交換が成立した以上、途中解除は危険です。互いの生活情報が定着するまで、鏡が戻しません」
「そんな条件は聞いていない」
悠人が声を荒らげても、美咲の声は細く伸び、広い部屋に吸われた。
短い髪の里奈が、施錠された多目的室へ駆け込んできた。
彼女は美咲と同じ受付で働き、実証試験の立会人でもあった。
「名前を確認する。今、美咲さんの身体にいるのは誰」
「藤倉悠人」
「悠人さんの身体にいるのは」
「河合美咲」
里奈は紙の手帳へ時刻と答えを書いた。
端末ではなく紙を選んだのは、桑原のシステムを信用しなかったからだった。
二人は互いの鞄と鍵を交換した。
自分の身体は、交換できる荷物には含まれていなかった。
美咲の鞄は、悠人が見た目から想像したより重かった。
財布と化粧道具のほかに、澄江の保険証の写し、予備の尿取りパッド、折り畳み傘、薬の説明書が入っていた。
悠人の鞄には、薄いノートパソコンと充電器、社員証しかなかった。
美咲は持ち上げたとき、軽いと呟いた。
駅の階段で、悠人は足を高く上げすぎた。
スカートの裾が膝へ絡み、靴の細い踵が段差の縁を外れた。
美咲が悠人の腕で肘をつかんだ。
強い力だった。
「力を抜いて。痕が残る」
美咲はすぐに手を離した。
悠人の身体には、相手を傷つけるほどの握力があった。
美咲の身体には、掴まれた赤みがすぐ浮いた。
どちらも、二人が選んだ性質ではなかった。
美咲の部屋は、母親の部屋と引き戸一枚でつながっていた。
玄関には介護用の手すりがあり、靴箱の上には曜日別の薬箱が置かれていた。
悠人は水玉模様のワンピースを脱ぎ、部屋着へ着替えようとした。
背中の留め具へ手が届かず、肩をひねるたびに胸の下が汗ばんだ。
布から身体を抜くだけで、呼吸が浅くなった。
引き戸の向こうから、母親の澄江が呼んだ。
「美咲、お水」
悠人は返事をしてから、自分が美咲の声を使ったことに気づいた。
薬の袋には食前、食後、就寝前が混在していた。
里奈から届いた写真と照合し、順番を間違えないよう机へ並べた。

翌朝、悠人は下腹部の張りで目を覚ました。
経血はなかったが、腰の内側に湿った砂袋を吊られたような鈍さがあった。
身体を起こすと、足首がむくみ、スリッパの縁が皮膚へ食い込んだ。
電車では、吊り革を握る腕を胸の前へ置くしかなかった。
混雑が身体の輪郭を他人へ押しつけ、他人の鞄が乳房の脇へ当たった。
故意か偶然かを判断できないまま、悠人は一駅早く降りた。
受付主任の小森は、悠人の顔を見るなり、来館者対応を増やした。
「美咲さんは話し方が柔らかいから、苦情の人も落ち着くのよ」
評価の形をした追加作業だった。
藤倉悠人
地域福祉アプリの実証試験を担当する、三十八歳のシステム会社員。
独身で、物事を手順や数字に整理して考える現実的な常識人。
入れ替わりによって美咲の身体となり、成熟した女性特有の身体的負担だけでなく、受付業務、母親の介護、周囲から当然のように求められる気遣いまで引き受ける。
問題を仕組みとして解決しようとするが、生活や人間関係は手順書だけでは処理できない。
河合美咲
区民センターの受付と、母・澄江の介護を一人で担う四十三歳の契約職員。
肩を越す茶色い髪を持つ、責任感の強い女性。
悠人の身体へ入ったことで、男性として扱われる発言力や行動の自由を経験する一方、「男なら決断しろ」「決めた以上は責任を負え」という別種の圧力を受ける。
母親の生活を守るためなら、自分や悠人の境界線を越える決断もしてしまう。
里奈
美咲と同じ区民センターで働く、短いボブヘアの女性。
実証試験の立会人であり、入れ替わりに巻き込まれない第三者。
混乱する二人の名前と状況を紙の手帳へ記録し、装置や桑原の説明を安易に信用しない。
二人を一方的に慰めるのではなく、契約や証拠を確認しながら現実へつなぎ止める狂言回し。
悠人と美咲が自分と相手の境界を見失ったとき、その違いを記録として残す役目を持つ。
続きを読みたい方はこちら↓

7話:鏡の中の魔法使い――借りた身体の返却期限 になります
面白そうだと思ってくれたら、他の人にも勧めてみてください♪
レビューを頂けたら作者の励みになります!


コメント