肉の檻、遠き日々の軽やかさ
朝、目が覚めた瞬間に覚えるのは、胸骨の上にズシリと乗っかる正体不明の重圧だった。
呼吸が浅い。
肺が広がるスペースを、皮下脂肪と発達した乳腺の塊が上から容赦なく押し潰している。
悠人は寝返りを打とうとしたが、腰から下にかけての関節の感覚が、昨日までのそれとはまるで違っていた。
骨盤が外側へだらしなく開き、太もも同士の内側の肉が、ねっとりと湿り気を帯びて擦れ合う。
「……っ」
声を漏らそうとして、喉の奥を鳴らした。
しかし、鼓膜を揺らしたのは、聞き覚えのある低く太い自分の声ではなく、湿り気を帯びた、擦れた高い音だった。
(なにかが、おかしい)
悠人は跳ね起きようとしたが、身体が重い。
起き上がる動作ひとつにとっても、重心の位置がすっかり下がってしまっていて、腹筋に妙な負荷がかかる。
ベッドから這い出し、視界に入ったのは見覚えのない部屋だった。
重厚な木製の家具、ほのかに漂う香木の匂い、そして壁に掛けられた落ち着いた色合いの着物。
ここは自分の部屋ではない。村の小高い丘の上に建つ、あの屋敷の一室だ。
フラつく足取りで姿見の前に立つ。
そこに映っていたのは、24歳の悠人ではなかった。
鏡の向こうにいたのは、35歳の成熟した女性――この屋敷の主であり、村人たちから一目置かれている「美咲」その人だった。
豊満な胸の膨らみ、きゅっとくびれたウエストから一転して丸みを帯びるヒップ、そして目元にうっすらと刻まれた陰影。
悠人は震える指先で自分の――いや、美咲の頬に触れた。
肌は柔らかく、吸い付くような生々しい質感がある。首筋へ指を滑らせると、そこにあったはずの喉仏は跡形もなく消え去っていた。
「嘘だろ……なんで……」
言葉は擦れた女の声となって空気に溶ける。
その時、廊下から軽やかな足音が近づいてきた。
トントンと、かつて悠人自身が鳴らしていたはずの、あの聞き慣れたステップだ。
扉が静かに開いた。
そこに立っていたのは、悠人だった。
いや、正確には「悠人の身体をした何か」だった。
羽織を適当に引っ掛け、袴を雑には穿いているが、その立ち姿には悠人特有の猫背や不器用さが一切なかった。
すっと伸びた背筋、涼やかな目元、そして何よりも、24歳の若い男の身体が持つ「軽やかさ」を完璧に使いこなしている佇まい。
「目覚めたのね、悠人さん」
悠人の口から出たのは、優雅で落ち着きのある、美咲の声のトーンだった。
彼女――悠人の身体に入った美咲は、己の手のひらを握ったり開いたりしながら、さも感心したように息を吐いた。
「驚いたわ。男の身体というのは、こんなにも関節が軽くて、息を吸うのが楽なのね。胸の前に余計な肉がないだけで、こんなにも視界が開けるなんて」
「美咲……さん……? どうして……俺の、俺の身体……!」
悠人は自分の喉を押し潰すようにしながら美咲に詰め寄ろうとした。
しかし、数歩踏み出しただけで、自分の膝の揺れと胸の重みに翻弄され、不格好に躓きそうになった。
「危険よ。その身体は重心が低くて、急に動くと腰を痛めるわ」
美咲(悠人の身体)は、すばやい動作で悠人(美咲の身体)の腕を支えた。
その力強さに悠人は息をのんだ。かつて自分が所有していたはずの筋肉と骨組み。
それが今、自分を軽々と支えている。力関係が完全に逆転していた。
若い男の腕力は、30代半ばの女の身体を簡単に制御してしまう。
「戻してくれ……こんなの、おかしいだろ! なんで俺がアンタの身体に――」
「戻す? どうやって?」
美咲は悠人の身体で、どこか冷ややかな笑みを浮かべた。
その表情は、悠人自身が鏡の前で一度も作ったことのない、大人の余裕と残酷さを孕んだものだった。
「私にも理由は分からないわ。朝起きたら、この軽やかで便利な身体があった。ただそれだけ。……それにね、悠人さん。あなたは昔から、私の着物や振袖を羨ましそうに見ていたでしょう? 女の装飾に憧れて、物陰で顔に紅を注していたのを知らないとでも思っていたの?」
悠人の顔から血の気が引いた。
悠人には人に見せられない趣味があった。
美しい着物を纏い、化粧をして、自分ではない「美しい何か」に変身すること。
それは男である現実から一時的に逃避するための、無害な遊びのつもりだった。
「望みが叶って良かったじゃない。これからは装うのではない。本物の女として、それも熟した美しい身体で生きられるのだから」
「違う! 俺がやりたかったのは……そういうことじゃ……!」
「黙りなさい」
美咲の声に、静かな圧が籠もった。
悠人の若い身体から放たれる声は、ハリがあり、よく通る。
「今日は村の祭りよ。あなたがずっと楽しみにしていた、あの黒地の振袖を着て行く日でしょう? まさか、その身体で『自分は男だ』と叫んで回るつもり? 村人たちがどう思うか……想像してみなさい」
悠人は言葉を失った。
35歳の美咲が、突然男の服を着て「私は悠人だ」と叫ぶ姿。
それは異常者として蔑まれ、憐れみの視線に晒される以外の未来を生み出さない。
「さあ、着替えましょう。私が手伝ってあげる。……女の着物がどれほど重く、苦しいものか、存分に味わうといいわ」
仕付け糸が解かれたばかりの、黒地に華やかな花柄が躍る振袖が畳の上に広げられていた。
かつて悠人が「いつか着てみたい」と喉から手が出るほど欲していた、最高級の絹布。
しかし、美咲の手によってそれを身に纏わされていく過程は、拷問に等しかった。
「息を吐ききって」
美咲の指示通りに息を吐くと、容赦なく補正用のサラシが胴体に巻き付けられた。
肋骨が押し潰される。
胸の膨らみを平らに均そうとする圧迫感が、肺の容積を半分以下に減らしてしまう。
続いて重い帯が腰の上に据えられ、力任せに締め上げられた。
「くっ……痛い、息が……」
「我慢しなさい。大人の女の着付けは、若い娘のそれとは違うの。崩れないように、骨盤の上でしっかりと固定しなければならないのよ」
美咲の手つきは無慈悲だった。
かつて自分が受けてきた着付けの苦痛を、そのまま悠人の身体にトレースしているかのようだった。
帯締めが固く結ばれた瞬間、悠人は倒れそうになった。
腰回りにずっしりと乗っかる自分の肉の重みと、それを固く縛り上げる帯の締め付け。
首筋には重い髪飾りが刺さり、頭を動かすたびに頭皮が引きつれる。
「完成よ。綺麗だわ、美咲様」
鏡の前に押し出された。
そこにいたのは、艶やかな黒地に朱や金の輪郭を描いた花々を纏った、熟れた美婦人だった。
確かに美しい。
だが、それは悠人が夢見ていた「軽やかな少女の変身」などでは断じてなかった。
そこにあるのは、肉体の重厚さと、社会的な役割を強制された「成熟した女」の重苦しい影だった。
一方、美咲は悠人の若い男の身体に、地味な男物の着物をさらりと羽織り、帯を一本腰の低い位置で適当に結んだだけだった。
「なんて楽なのかしら。帯が胃を圧迫しないから、いくらでも息が吸えるのね」
美咲は悠人の身体で満足そうに胸を張り、軽く跳ねてみせた。関節が一切きしむことなく、滑らかに連動する。
その若々しい動作を見るたびに、悠人の胸の奥でカリカリと不快な音が鳴った。
自分の所有物だったはずの「軽やかさ」が、目の前で他人によって消費されている。

なんか筆が乗ったのでゲリラ的に投稿してみた。
完全版はこちらからどうぞ。

これを含めた全6話がイラスト付きで収録しています。
規約上、Kindleでは出せないのでご承知おきください。


コメント