異性になる夢が、現実になってしまう

女装と男女の入れ替わりは自己責任で♪

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着物の重み、畳の冷え

朝、目覚めて最初に感じたのは、胸元にかかる不自然な自重と、寝返りを打つたびに腰にまとわりつく細い肉の不自由さだった。

視界の位置がいつもより十五センチほど低く、見慣れた天井の木目が妙に遠く、かつ歪んで見える。

布団から突き出た自分の手のひらは、記憶にあるものより一回り小さく、指先だけが白く、妙に尖っていた。

悠人は息を止め、自分の輪郭を確認するようにその小さな両手でシーツを掴んだ。

指先の皮膚が滑らかすぎて、自分の指ではない。

力を込めようとしても、かつてあった筈の無骨な骨組みの手応えが返ってこなかった。

起き上がろうと上半身を起こした瞬間、胸のあたりがずしりと下へ垂れ下がる。

肉の塊が皮膚を引っ張る鈍い緊張感が鎖骨の下あたりに走り、悠人は思わず息を詰まらせてその部分を手で押さえた。

衣服越しに触れるそれは、柔らかいというよりは単に重く、寝返りを打つたびに寝具との間で潰れて痛む、厄介な異物でしかなかった。

(これは、美咲の身体だ)

なぜその名前が浮かんだのかは分からなかった。

ただ、脳の奥底にこびりついた、毎夜見ていた夢の残滓が、この肉体の持ち主の情報を不気味なほど正確に補完していた。

悠人はこれまですっと、奇妙な夢を見続けていた。

自分が江戸の世を生きる侍の妻であり、名を「ユキ」という夢だ。

夢の中の自分は、板の間に正座し、冷える指先を調えながら、主君のために命を賭して戦う夫の帰りをひたすらに待っていた。

着物の帯は肋骨を容赦なく締め付け、畳の湿気と薪の煙の匂いが常に鼻腔に張り付いた。

自由などどこにもない、家を護るという役割の重圧だけに押し潰される生活。

目覚めるたびに、現代の退屈な事務職のサラリーマンである現実とのギャップに苦しみ、あの夢の持つ、息が詰まるほどの「生活の匂い」に、どうしようもなく惹かれていたのだ。

しかし、今ここに在るのは、雅な歴史劇の登場人物などではない。

這うようにして辿り着いた洗面所の鏡に映っていたのは、三十代を過ぎ、それ相応の生活感を均等にまとった、一人の成熟した女性の姿だった。

頬の皮膚には、昨晩の寝具の痕がうっすらと赤く残っている。

顎のラインは丸みを帯び、首筋から肩にかけての肉付きは、女性特有のなだらかさというよりは、重力に従って弛み始めている過渡期の重さを感じさせた。

髪は肩の下まで伸びて毛先が傷んでおり、額に張り付いた数本の毛髪がひどく煩わしい。

悠人は、鏡の中の女性――美咲の口を動かしてみた。

「あ」

喉の奥から出たのは、自分の知る低い声ではなく、少し掠れた、しかし確実に高い位置で響く女の音だった。

声帯の震え方が違う。

胸腔ではなく、喉の浅いところで空気が震える感覚に、強烈な吐き気が込み上げた。

悠人は洗面台の縁を両手で掴み、胃の中からせり上がってくる酸っぱい液を堪えるために深く息を吸い込んだ。

だが、息を吸うたびに、胸元の肉が膨んで部屋着のシャツを内側から圧迫する。

その伸縮のすべてが、自分という存在の連続性が断ち切られたことを冷酷に告げていた。

スマートフォンが床の上で低く震えた。

美咲の端末ではない。

悠人が自分の部屋に置いてきた筈の、自分自身の端末からの着信だった。

画面に表示されているのは、悠人自身の電話番号。

受話器に耳を当てると、スピーカーの向こうから、聞き慣れた「自分の声」が聞こえてきた。低く、少し鼻にかかった、三十代の男の濁った声。

『……悠人、さん、ですか』

その声は震えていた。

しかし、怯えの中に、どこか奇妙な確信と、張り詰めた熱が混ざっているのが分かった。

「美咲、さん」

悠人は、美咲の喉を使って応じた。

自分の口から出る他人の声が、スピーカーから流れる自分の元々の声と交差する。

その歪な音の響き合いだけで、事態の異常性を完全に理解するのに十分だった。

『私の身体に、あなたが入っているのね』

男の声が、女のイントネーションで滑らかに揺れる。

その響きには、肉体の変化に対する戸惑いと同時に、ある種の昏い歓喜のようなものが混じっているように思えた。

『私は今、あなたの部屋にいる。……この身体は、すごいわ。肩幅が広くて、視界がずっと高い。少し動かすだけで、背中の大きな筋肉が連動するのが分かる』

美咲もまた、夢を見ていたのだ。

彼女は毎夜、戦場を駆ける「侍」の夢を見ていたという。

他者を斬り伏せる圧倒的な暴力の衝動、刀の重みを支える強靱な四肢、泥と血の匂い。

停滞した現代のオフィスワークの中で、彼女はその猛々しい男の肉体と、そこに伴う全能感を激しく渇望していた。

「……そっちは、どうですか」

悠人は這い出すような声で訊ねた。

『最高よ。あなたが退屈だと言っていたこの肉体は、私にとっては奇跡みたい。ただ……』

スピーカーの向こうで、男の身体(中身は美咲)が小さく咳払いをするような音がした。

『少し動くだけで、喉の奥から脂っぽい匂いが上がってくるのね。それに、頭皮が妙に油っぽい。男の身体って、こんなに常に汗臭いものなの?』

美咲の言葉には、憧れの肉体を手に入れた喜びの裏側に、物質としての「男の肉体」が持つ、生々しい老化や生理現象への嫌悪が早くも混じり始めていた。

それは彼女が夢見ていた、美化された「侍」の強さとは全く異なる、現代のくたびれた中年男性の、ただの排泄と分泌の現実だった。

「こっちも、同じです」

悠人は、美咲の部屋着の裾を握りしめながら言った。

「胸が、重い。歩こうとすると、お尻の肉が揺れて重心がどこにあるのか分からない。ブラジャー、あれを付けないと、皮膚が引っ張られて痛い」

二人はそれ以上の会話を続けることができず、数時間後に、互いの家の中間地点にある郊外のファミレスで合流することを取り決めた。

外に出るための準備は、悠人にとって地獄のような作業だった。

クローゼットを開けると、畳まれた下着の数々が目に飛び込んでくる。

それらは性的記号としての華美なものではなく、ベージュやグレーといった、洗濯のしやすさと実用性を最優先した、大人の女性の日常着だった。

伸縮性の低いワイヤー入りの下着を身に付ける際、悠人の指先は何度も滑った。

アンダーバストを締め付けるゴムの圧迫感は、夢の中で見たあの着物の帯の痛みに酷く似ていた。

息を深く吸うと肋骨が物理的にせき止められる。

さらに、ストッキングを穿く際には、太ももの内側の柔らかい肉が互いに擦れ合い、歩くたびに妙な摩擦熱を生むことに気がついた。

鏡の前で、美咲の化粧品を使って最低限の身だしなみを整えようとしたが、ファンデーションの粉が肌の毛穴を埋めていく感覚は、顔全体に薄い泥を塗られているかのような不快感を伴った。

綺麗になるためではなく、社会的な「大人の女性」としての体裁を取り繕うための義務。

その型に、自分の精神が無理やり押し込められていく。

家を出て駅まで歩く数十分の間、悠人は世界の変貌に怯え続けた。

アスファルトを叩くローヒールの靴音が、硬く脳髄に響く。

すれ違う男性サラリーマンたちの視線が、かつて自分が他者に向けていたそれとは全く異なる性質のものであることに気づき、背筋が寒くなった。

値踏みするような、あるいは単に「そこに存在する背景」として処理するような、無遠慮な視線の数々。

美咲の身体は、その視線を受け止めることに慣れているかのように自然に下を向いたが、中の悠人の精神は、その役割の自然さに激しい拒絶反応を示していた。

ファミレスの片隅のボックス席に、その男は座っていた。

悠人自身のスーツを着た、悠人自身の身体。

しかし、その座り方は妙に小さく、膝が綺麗に揃えられ、両手は太ももの上で上品に重ねられている。

そのアンバランスな光景に、悠人は眩暈を覚えた。

悠人が席に近づくと、男(中身は美咲)が顔を上げた。

見慣れた自分の顔が、自分に向けて、ひどく繊細で、どこか怯えたような微笑を浮かべる。

「悠人、さん」

「美咲、さん」

二人は対面に座った。

注文を取りに来た若い店員に対し、美咲(中身は悠人)が低く無骨な声で「アイスコーヒー」と短く告げると、店員は一瞬、そのぶっきらぼうな態度に眉をひそめた。

男性の肉体が持つ威圧感が、意図せず周囲に放射されている。

逆に、悠人(中身は美咲)が「私は、オムライスを……」と、美咲の少し掠れた声で丁寧に頼むと、店員は安堵したように微笑んだ。

社会がそれぞれの肉体に求めている「型」が、そこにはっきりと存在していた。

「戻る方法は、分からないわね」

美咲(中身は悠人)が、悠人の太い指でグラスの結露を拭いながら言った。

その声の低さに、美咲自身もまだ馴染めていないようで、時折喉を詰まらせる。

「色々と試したの。お互いの部屋のベッドで、もう一度あの夢を見るように意識を集中させて眠ってみたり、心臓の音を合わせようとしてみたり。でも、何も起きない。この筋肉も、この骨の重さも、完全に私のものとして定着してしまっている」

「僕もです」

悠人は、オムライスにスプーンを突き立てながら答えた。

スプーンを持つ手の甲に、うっすらと浮き出た青い血管が見える。

男の手よりもずっと細く、頼りない。

「これは、単なる夢の延長じゃない。僕たちは、お互いが求めていた『別の性』の現実という名の檻に、閉じ込められたんだ」

美咲は、悠人の身体で深く息を吐き出した。

その拍子に、スーツの胸ポケットが小さく膨らむ。

「あなたが夢見た『侍の妻』は、こんな風に、毎日重い肉体を補正下着で縛り付け、他人の視線に怯えながら暮らすことだった?」

「……違います。もっと、静かで、強固なものだと思っていました。美咲さんの夢見た『侍』は?」

「もっと自由で、世界をねじ伏せるような全能感よ」

美咲は自嘲気味に笑った。悠人の顔が歪む。

「でも、この身体が感じるのは、ただの慢性的な腰痛と、加齢による関節の硬さだけ。歩くたびに、靴の中で親指の付け根が痛むんだ」

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