不実の器、復讐の肌
朝、目が覚めると胸元にまとわりつく、寝汗で湿った皮膚の重みに息が詰まった。
自分のものだったはずの、よく通る低い声で「おい」と呼んだ男に、私――かつて悠人と呼ばれた男――は、弛んだ下腹部を震わせながら見上げるしかなかった。
喉の奥で鳴ったのは、酷くかすれた、聞き覚えのある妻の贅肉の擦れる音だった。
視界がいつもより低い。
畳に敷いた布団の上で、私は自分の胸を持ち上げるようにして上体を起こした。
寝間着代わりにしていた、色褪せた臙脂色のスウェットが、酷く湿って肌に吸い付いている。
胸部には、これまでに経験したことのない質量が存在していた。
自重で外側に垂れ下がり、寝返りを打つたびに脇腹を圧迫する肉の塊。
それが自分の肋骨の上に乗っているという事実に、脳の処理が追いつかない。
「まだ分かんない? 鈍いね、あんた」
頭上から降ってきたのは、聞き慣れた、しかし今はもう自分のものではなくなった、低く張りのある男の声だった。
見上げると、そこに「私」が立っていた。
身長は百八十センチ近くあり、肩幅が広く、スーツをスマートに着こなせる自慢の骨格。
毎朝鏡で見慣れていた、均整の取れた自分の顔が、冷徹な細い目をして私を見下ろしている。
その手には、私が昨日まで使っていたスマートフォンと、革の財布が握られていた。
「悠人……? いや、お前、里奈なのか」
出そうとした声は、かすれた、しかし紛れもない三十代後半の女性の、少し鼻に抜けるような粘り気のある声だった。
喉の震え方が違う。
声帯が短く、息が胸のあたりでつかえるような感覚。
私は慌てて自分の口元に手をやった。
指先が、男のそれよりも一回り小さく、節々が少し丸みを帯びている。
爪には、一週間前に妻が塗っていた、剥げかけのベージュのジェルネイルが残っていた。
「そうだよ」
私の身体をした里奈は、他人の服を値踏みするように自分の胸元や袖口を見下ろし、それから器用にネクタイを締め直した。
私がいつも鏡の前で苦労していた、ウィンザー・ノットの結び目が、彼女の手によって瞬時に、完璧に形作られていく。
その滑らかな動作は、長年他人の身体を観察し、模倣する準備を整えていたかのようだった。
「あんたの不倫、知ってたよ。美咲ちゃんだっけ。同じ会社の、営業の。別居中とか、離婚予定とか、都合のいい嘘吐いて若い子捕まえてさ。
本当に底浅い男」
里奈(私の身体)は、私の声を使って淡々と喋った。
その声の響きは、かつて私が美咲に「愛している」と囁いたときのものと同じ筈なのに、今はぞっとするほど平坦で、感情の起伏が削ぎ落とされている。
「お前、何を言っているんだ。何をした。どうして俺が、お前の身体に……」
起き上がろうとした瞬間、下腹部にずしりと重い、鈍い痛みが走った。
足に力が入らない。
太ももの内側の肉が擦れ合い、重心がどこにあるのかが分からない。
骨盤の幅が広がり、地面を捉える感覚が完全に狂っている。
はいつくばるようにして畳に手を突いたが、手のひらに伝わる自分の体重が、男の時よりもずっと「重く、扱いにくいもの」として感じられた。
筋肉が削げ落ち、脂肪のクッションを挟んで骨が床に当たるような、不快な柔らかさ。
「何をしたかって、別に。あんたが私をないがしろにして、あの娘とへらへら笑ってる間に、神様にお願いでも通じたんじゃない? 科学的な説明なんて求めても無駄だよ。現に、私はあんたのその便利な身体を手に入れたんだから」
里奈は私の財布を開き、中の一万円札を数えた。
「営業マンの身体って、動きやすくていいよね。声も通るし、夜道も怖くない。これからは私が『悠人』として生きてあげる。あんたがやり散らかした仕事も、その容姿も、全部私が有効活用してあげるから」
「待て、そんなことが許されるわけが……!」
叫ぼうとしたが、喉がヒリヒリと痛むだけで、声のボリュームが上がらない。
女性の肺活量と喉の構造は、男の怒声を響かせるにはあまりにも不向きだった。
ただ頭に血が上り、顔がカッと熱くなる。
これが里奈がよく言っていた「更年期のはしり」というやつなのか、それとも単なる屈辱によるものなのか、判別がつかない。
里奈は私のスマートフォンをポケットにしまい、玄関へと歩き出した。
私の、履き慣れた本革のビジネスシューズに足を滑り込ませる音がする。
サイズは二十六・五センチ。
里奈の元の足のサイズより三センチは大きいはずだが、彼女は何の不自由もないように、踵をトントンと地面に打ち付けて馴染ませていた。
「この体、使い勝手がいいから貰うね。 美咲ちゃんには私から連絡しておくから。じゃあね、里奈さん。あ、クローゼットに古い下着とか入ってるから、適当に使いなよ。ブラジャーはちゃんとつけないと、胸が垂れてもっと惨めになるからさ」
ドアが閉まり、鍵がガチャリと閉まる音が静まり返った部屋に響いた。
静寂が戻った室内で、私はしばらく床に伏したまま動けなかった。
窓から差し込む朝の光が、埃を白く照らしている。
私は、自分のものになってしまった腕を見た。
皮膚は心なしか白く、きめが細かいが、手首のあたりにはうっすらとシミのようなものがあり、皮下脂肪のせいで脈拍が視認しづらい。
はうようにして洗面所へ向かった。
洗面台の鏡に映ったのは、私が見捨てようとしていた妻、里奈の顔だった。
目尻には細かいシワが刻まれ、頬の肉は心持ち下がり始めている。
髪は肩のあたりまで伸びていて、寝癖でひどく跳ねていた。
口を開けてみると、奥歯に銀色の詰め物が見える。
これらはすべて、私ではない別の人間が、三十数年の時間をかけて積み重ねてきた「生活の痕跡」だった。
それが今、私の意識の器として、べったりと張り付いている。
「あ……、あ……」
声を出すたびに、鏡の中の女の喉元が不格好に震える。
私は、自分の男としての記憶やプライドが、この肉体の圧倒的な「女としての現実」によって、急速にすり潰されていく恐怖を感じた。
美少女でもなければ、若くもない。
ただの、代謝が落ち、あちこちにガタがき始めている熟年の女性の身体。
胸の重みが、とにかく邪魔だった。
ただ立っているだけで、大胸筋ではなく、皮膚とクワガタの角のような脂肪の塊が重力に引かれ、肩こりを誘発する。
ブラジャーというものを探さなければならない。
私は寝室のクローゼットを開けた。
そこには、里奈が使っていた衣類が整然と並んでいた。
手に取ったのは、ベージュ色の機能性重視のブラジャーだった。
レースなどの装飾はなく、ただ肉を固定するためだけの道具。
つけ方が分からない。
背中に手を回してホックを留めようとするが、肩甲骨の可動域が男の時と違い、肉の厚みのせいで手が届きにくい。
何度も空振りをし、息が切れた。
ようやく留まったときには、胸部が強固な帯で締め付けられ、肋骨が圧迫されて深く息を吸うことができなくなった。
「なんだ、これ……」
衣服が皮膚を圧迫する不快感。
ズボンを穿こうとしても、太ももとヒップのボリュームが邪魔をして、里奈の持っていたMサイズのジーンズが骨盤の途中で引っかかる。
無理に引き上げると、下腹部が苦しいほどに圧迫され、胃のあたりがキリキリと痛み出した。
これが、里奈が毎日耐えていた「日常」の、ほんの一部に過ぎないということに気づき、目眩がした。
しかし、感傷に浸っている余裕はなかった。
里奈は「美咲に連絡する」と言った。
あの実直で、私の「離婚する」という嘘を盲信している若い美咲に、私の身体を使って何をしようというのか。
私は固定電話から、自分のスマートフォンの番号を呼び出した。
何度かのコールの後、繋がった。
聞こえてきたのは、私の、低く落ち着いた声。
「もしもし」
「里奈! 美咲に何をする気だ! やめろ、彼女は何も知らないんだ!」
「うるさいな。
声が響いて耳が痛いよ」
里奈(私の身体)は、呆れたように息を吐いた。
「何も知らないから、教えてあげるの。あんたがどんなに不実で、身勝手な男だったかってことをね。あ、それから、もうこの家に電話してこないで。番号、変えるから。それと、今週中にその家、引き払う手配にしたからさ。荷物、適当にまとめて出て行ってね」
「待て、引き払うって、俺はどこに行けば……」
「さあ? 里奈のパートの給料、月十万くらいあったでしょ。
それで暮らせるアパートでも探せばいいじゃない。
あんたの貯金口座のカードは、私が預かってるから。
じゃあね」
ツーツーという無機質な音が受話器から流れる。
私は受話器を叩きつけるように置いた。
激しい動悸が胸を打つ。
しかし、その動悸すらも、肉厚な胸の脂肪に阻まれて、どこか遠くで鳴っているかのように鈍い。
私は、美咲の会社へ向かおうと考えた。
直接会って、自分が悠人であることを説明するしかない。
こんな荒唐無稽な話を信じるかどうかは分からないが、里奈の身体のまま美咲の前に現れれば、何か異常事態が起きていることだけは伝わるはずだ。
しかし、駅へ向かう足取りは絶望的に遅かった。
男の時の感覚で大股で歩こうとすると、骨盤がグらつき、太も目の内側が擦れて痛む。
靴は里奈のパンプスを無理やり履いたが、爪先が細くすぼまっているため、親指の付け根が悲鳴を上げていた。
歩くたびに、胸の肉が上下に揺れる。
それが衣服と擦れ、不快な熱を持つ。
駅の階段を上るだけで、太ももの裏側の筋肉が張り、息が上がった。
男の時は、この程度の階段など一段飛ばしで駆け上がっていたのに。
身体のスペックそのものが、決定的に低下している。
会社のある駅に着いたときには、全身がじっとりとした嫌な汗で濡れていた。
オフィスの入るビルの前で、私は息を潜めて待った。
昼時になり、社員たちが小綺麗に衣服を整えて出てくる。
その中に、見覚えのある長い黒髪と、白いブラウス姿の美咲が見えた。
彼女は、私の、あの馴染みのあるスーツを着た男――里奈――と並んで歩いていた。
「悠人さん、今日のお昼、どこに行きます?」
美咲の弾んだ声が聞こえる。
彼女は、隣にいる男の中身が、全くの別人であることに気づいていない。
里奈(私の身体)は、美咲に向けて、私がかつて何度も見せた、完璧な営業用の笑顔を返した。
「美咲の行きたいところでいいよ。あ、そうそう、今日ちょっと、大事な話があるんだ」
その声のトーンに、私は背筋が凍るような冷たさを感じた。
駆け寄ろうとした。
しかし、パンプスの中で水膨れが潰れたような激痛が走り、私はその場にへたり込んでしまった。
周囲の会社員たちが、「大丈夫ですか?」と、不審と少しの同情が混ざった目で、私――見知らぬ、身なりの崩れた中年女性――を見下ろしていく。
美咲は、私の方を一度も見ることなく、私の身体をした妻の隣を、幸せそうに歩いて去っていった。
カチカチと音を立てるパンプスの足音が、私の耳の奥に、消えない不快感として残り続けた。
元に戻る方法など、どこにもない。
時間の不可逆性と、この重く歪な肉体の現実だけが、アスファルトの照り返しとともに、私をじりじりと焼き続けていた。



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