BOOTHで販売し始めた、KindleにはないTS、男女入れ替わりの短編集。
こちらは全編出しちゃダメという規約は無いので
1話だけサンプルとして全部出しちゃいます。
この話が気に入って、他も気になりましたら、BOOTHも覗いてみてください♪
張り子の日常と血のシステム

第一章:火照りと冷え、そして対峙
顔のあたりだけが妙に火照り、首筋にじんわりと不快な汗が滲み出ているというのに、指先と足先はまるで氷に漬けたように冷たかった。
起き上がろうと床に手をついた瞬間、胸元で垂れ下がっただらしのない肉の重みが左右へ逃げ、胸郭を絞めつけるブラジャーのワイヤーが肋骨に食い込んで肘が滑る。
下腹部の生ぬるい空白感と、見覚えのない和室の匂いが、単なる体調不良ではなく「不可逆的な他人の肉体への定着」を冷酷に突きつけていた。
畳の目を指先で擦りながら、呼吸を整えようとした。
しかし、吸い込んだ空気が胸の浅いところで引っかかり、喉の奥に湿った熱が留まる。
普段なら鼻から深く吸って肺を広げる感覚があったはずだ。
それが、肋骨の周りを固い布地で押しつぶされているせいで、浅く、細く吐き出すことしかできない。
体を起こすと、頭の奥で鈍い痛みが拍動した。
上半身の内側だけが熱湯を注がれたように熱く、皮膚の表面には薄い汗の膜が張っている。
それなのに、畳に触れている足の甲や指先は刺すように冷たい。
自律神経が完全に失調しているような不調が、全身を重く支配していた。
目を閉じ、自分が昨夜どこで何をしていたかを思い出そうとした。
都心の小さなIT企業で、締め切りに追われながら書類を整理していた。
終電で高円寺のアパートに帰り、缶ビールを飲み干してそのままベッドに倒れ込んだはずだ。
名前は、悠人。三十四歳。独身。
肩幅が広く、爪を短く切り揃えた男の手を持っていたはずだった。
ゆっくりと目を開ける。
視界に入ったのは、細く繊細な指先だった。
爪には薄いピンクのポリッシュが塗られ、爪周りの皮ふは少し乾燥して毛羽立っている。
手首は驚くほど細く、力を入れても骨の出っ張りが浮き出るだけで、武骨な筋肉の隆起がない。
「……なにか」
声を出しようとした瞬間、喉の低い位置ではなく、鼻に抜けるような高い位置から擦れた音が漏れた。
自分の声ではない。
息の混じった、抑揚の乏しい女性の声だ。

悠人は洗面所へ向かい、古い和室の隅にある姿見に向かった。
鏡の中に立っていたのは、見知らぬ女だった。
黒髪を後ろで雑に束ね、頬の皮ふには薄いシミと、30代後半特有のたるみが影を落としている。
首筋から鎖骨にかけては華奢だが、その下にある乳房は重力に従って垂れ下がり、安物のブラジャーのカップからはみ出しかけていた。
Tシャツの裾からは、適度に肉のついたお腹と、太ももの柔らかい質感が覗いている。
美少女でもなければ、若々しくもない。
日々の生活と加齢の疲労をそのまま引き受けた、ごくありふれた成人女性の肉体だった。
悠人は自分の顔に触れた。
指先が冷たいため、火照った頬に触れるとひやりとして気持ちが悪い。
皮脂の匂いと、微かに甘い基礎化粧品の匂いが混ざり合った独特の体臭が鼻をつく。
股間に手を伸ばすと、そこには何もなかった。
かつてあったはずの肉の突起はなく、代わりに平坦で生ぬるい、関節の擦れる不快な感触だけが存在していた。
「冗談じゃない……」
声が震える。胸が上下するたびに、ブラジャーのホックが背中に食い込み、アンダーバストのゴムが皮膚を圧迫する。
脱ぎ捨てようとTシャツの裾を引っ張り上げたが、見知らぬ女の裸体を直視する恐怖に襲われ、すぐに手を止めた。
その時、玄関の引き戸が激しく叩かれた。
「ねぇ! 開けて! 中にいるんでしょ!!」
ドンドンと、薄い木戸が壊れんばかりの勢いで揺れる。
聞こえてきたのは、聞き覚えのある声だった。
低く、少し濁った、自分自身の声だ。
悠人は喉を詰まらせながら玄関へ向かった。
畳を踏みしめる足裏の感覚が異様に柔らかく、かかとに体重がかかりすぎてバランスを崩しそうになる。
女性の骨盤の広さのせいか、歩くたびに太ももの内側が擦れた。
土間に降り、鍵を外して戸を引く。
外の眩しい光の中に立っていたのは、自分だった。
スーツの上着を脱ぎ捨て、ワイシャツの胸元を大きくはだけさせた「悠人」が、肩を大きく上下させながら立っていた。
「あなた……あなた、誰! 私の体に何したの!」
悠人の姿をした男――いや、中にいる人間が、凄まじい様相で詰め寄ってきた。
その口調、動作の細かな癖、視線の揺れ方。
それらはすべて、悠人自身のものではなかった。
「……美咲、さんか?」
悠人(美咲の体)が低い声を出そうと努めながら尋ねると、悠人の姿をした人物は、頭を抱えて土間に崩れ落ちた。
「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ! なんなのこの体、重くてゴツゴツしてて気持ち悪い! 肩幅が広くてドアにぶつかるし、声が低くて吐き気がする! 私の体を返してよ!」
男の体をした「美咲」は、悠人の声で甲高い悲鳴を上げようとしたが、声帯が追いつかず、ガラガラとした不快な濁音となって響いた。
大きな男の手で自分の頭をかきむしる動作は、傍から見ればただの怪しい狂人にしか見えない。
「落ち着け……大声を出すな。近所に聞こえる」
「落ち着けるわけないでしょ! 朝起きたら、股になんか変なものがぶら下がってて、胸が平らで、力が入らなくて……! 私、今日竹林の管理組合の集まりがあったのに、こんな姿で外に出られるわけないじゃない!」
美咲(悠人の体)は、男のゴツゴツした指先で自分の顔を覆い、しゃくりあげた。
涙は出ず、代わりに荒い吐息だけが土間に漏れる。
悠人は、自分の元の体が目の前で取り乱している光景を、冷めた目で見つめていた。
自分の身体が他人に占有され、しかもその中身が混乱し切っている。
だが、それ以上に自分自身の身体――美咲の肉体から発せられる熱と冷えの不快感が、思考を鈍らせていた。
「とにかく、中に入れ。立ち話をする状況じゃない」
悠人は美咲(悠人の体)の腕を掴もうとした。
しかし、触れた瞬間、互いに息をのんだ。
美咲(悠人の体)の肌は、固く、体温が高く、ざらついていた。
悠人(美咲の体)の肌は、柔らかく、湿り気を帯び、指先が凍えるように冷たかった。
かつて男であった悠人の手が、現在の自分(女)の手首を握る。
その骨組みの太さの違い、皮下脂肪の厚みの違いが、生々しい触覚となって脳に伝わってきた。
性的な興奮などは皆無だった。
ただ、異物同士が噛み合わないギアのように擦れ合う、生理的な気持ち悪さだけがあった。
上がり框に腰掛けたふたりは、しばらく無言で互いを見つめ合った。
「……病院に行くか?」と悠人が呟いた。
「なんて言うのよ。『中身が入れ替わりました』って? 精神科にぶち込まれて終わりよ。警察だって対応してくれるわけないでしょ」
美咲(悠人の体)は、男の太い足をがに股に開いて座り込んでいた。
自分の元々の体の癖が出ているのだろうが、男のスーツを着た男がその姿勢をとると、どこか投げやりで粗野に見える。
「あんた、名前は?」
「悠人。都内のIT会社で営業事務をやってる」
「私は美咲。……ここで、一人で暮らしてる。この家は祖父の代からの持ち家で、周りの竹林の管理も私がやってるの」
美咲は、自分の男になった手をつなぎ合わせ、固く握りしめた。
関節の節々が浮き出た無骨な手が、ミシリと音を立てる。
「元に戻る方法、何か心当たりはないのか? 事故にあったとか、変な宗教の物に触ったとか」
「ないわよ! 昨日は普通に竹林の手入れをして、近所の里奈ちゃんと話して、晩ご飯を食べて寝ただけ! あんたこそ何かしたんじゃないの!?」
「俺だって普通に仕事して寝ただけだ」
沈黙が落ちた。
部屋の隅に置かれた古い柱時計が、カチ、カチと規則正しい音を刻んでいる。
悠人は、美咲の体の下腹部に意識を向けた。
どこか奥の方が引きつるような、どんよりとした重みがある。
冷えのせいか、生理周期のせいかはわからない。
だが、この肉体は確実に生きており、細胞が活動し、老廃物を溜め込み、疲労を訴えている。
「手……重ねてみるか?」
美咲が言った。フィクションによくある「触れ合えば戻る」という気休めを試そうというのだ。
ふたりは向かい合い、手を伸ばした。
悠人(美咲の体)の小さな手が、美咲(悠人の体)の大きな手のひらに重なる。
じわりと、相手の体温が伝わってくる。
男の手のひらは分厚く、掌にたこがあり、熱を持っていた。
女の手のひらは小さく、皮膚が薄く、爪先が冷え切っていた。
一分。三分。五分。
何も起きなかった。
光が弾けることも、意識が遠のくこともない。
ただ、冷たい手と熱い手が重なり合い、汗でべたついていく不快感だけが増していった。
「……ダメね」
美咲(悠人の体)が手を引いた。
その顔には、深い絶望と、それ以上に「男の体」に対する強烈な拒絶反応が浮かんでいた。
「もう嫌……こんな重い体、耐えられない。肩が凝るし、股間が擦れて痛いし、立ち上がるだけで腰に響く……」
「それは俺の体だ。文句を言うな」
「あんただって、私の体を乱暴に扱わないでよ! 服の着方だってなってないし、胸の下に汗が溜まってるじゃない!」
美咲は立ち上がると、男の大きな足音を響かせて玄関へ向かった。
「どこへ行くんだ」
「アパートに帰るわよ……あんたの運転免許証、財布に入ってたでしょ。高円寺のアパートの鍵もある。……一旦、お互いの生活をなぞるしかないじゃない。どうせ戻れないなら」
「会社はどうする」
「……病欠って電話するわよ。あんたも、竹林の組合に電話して。里奈ちゃんが来たら、適当にごまかして」
美咲(悠人の体)は、靴を履くのにも苦労していた。
男の大きな革靴に足を押し込む動作がうまく噛み合わず、靴べらを落とした。
「……じゃあね」
吐き捨てるように言って、美咲は出て行った。
パタンと低い音を立てて引き戸が閉まり、和室には再び静寂が戻った。
悠人は一人、畳の上に座り込んだ。
窓の外からは、サラサラと乾燥した葉が擦れ合う音が聞こえる。竹林の風だ。
立ち上がろうとすると、膝の関節がミシリと鳴った。
男だった頃には感じたことのない、骨盤の揺らぎと、太ももの付け根の重さ。
上半身は汗で蒸し届き、下半身は冷気で冷え切っている。

悠人は洗面所へ向かい、蛇口をひねった。
冷たい水が手に注がれる。氷のような指先に冷水が当たると、感覚が麻痺していくようだった。
鏡の中の美咲は、不快そうに眉をひそめ、冷えた手で自分の熱い首筋を触っていた。
不可逆の狂気が、静かに、確実に始まっていた。
第二章:竹林の鬱鬱とした緑と「役割」の侵入
朝の光が古い障子を透かして射し込んでいたが、部屋の中は少しも暖かくならなかった。
布団から這い出すと、足の指先が氷のように冷えて痺れていた。
それに対して、首筋と胸元にはじんわりと不快な汗が滲んでいる。
上半身の内側だけが嫌な熱を孕み、末端が冷却されていく自律神経の不均衡は、睡眠をとっても何ひとつ改善していなかった。
悠人(美咲の体)は、着替えのためにタンスを開けた。
並んでいるのは、落ち着いた色のブラウスやリネンのパンツ、そして胴回りを締めつけるビスチェ風のビスコース地の着衣や、コルセット状の帯だった。
かつて美咲が好んで着ていたのだろう、身体のラインを隠しつつも、どこか「自然と調和する丁寧な暮らし」を演出するような服ばかりだ。
下着をつけるだけで、指先が凍えてうまくホックが留まらない。
何度も滑らせながらようやく留めると、アンダーバストのゴムが肋骨の皮ふにズシッと食い込んできた。
その上にビスチェを重ねて紐を絞め上げると、胸郭が外側から圧迫され、浅い息しか吐けなくなる。
「重い……」
肩を下げるたびに、垂れ下がった乳房の重みが鎖骨のあたりに鈍い痛みを引き起こす。
男だった頃には決して意識することのなかった「胸の肉」という物体が、呼吸をするたびに揺れ、邪魔な重石となって体幹のバランスを狂わせていた。
台所で冷えた水を一杯飲み、外へ出た。
平屋の裏手には、見渡す限りの竹林が広がっていた。
朝日を浴びた竹の葉がサラサラと音を立てている。
かつて観光地などで見かけた竹林は涼やかで風情のあるものに見えたが、いま目の前にあるのは、手入れを怠ればすぐに家を呑み込みかねない鬱鬱とした緑の群生だった。
竹の葉の照り返しが顔面に当たり、皮膚の表面がジリジリと火照る。
しかし、竹林から吹き抜けてくる風は湿気を帯びて冷たく、足首から下を冷酷に冷やしていく。
「美咲さーん!」
敷地の入口から、明るく甲高い声が響いた。
振り返ると、麦わら帽子をかぶった若い女性が手を振りながら歩いてくる。
近所に住むボランティアの里奈だった。
「おはようございます! 今日も朝早くから竹林のお手入れですか? 本当に美咲さんは頭が下がります。こんなに自然を愛して、毎日竹林と対話されているなんて、私、本当に憧れちゃいます!」
里奈は無邪気な笑顔を向けながら、手に持った回覧板と小さな籠を差し出してきた。
悠人は喉の奥を締めつけられるような感覚を覚えた。
声の出し方がわからない。低く出せば不審がられ、高く出そうとすれば裏返る。
「……あ、おはよう、里奈ちゃん」
なるべく息を混ぜて、抑揚を抑えた擦れ声を出すと、里奈は全く違和感を抱いた様子もなく、納得したように頷いた。

「相変わらずおしとやかで素敵です。あ、これ、うちで採れたトマトです。美咲さん、お肉とか食べないで丁寧なお食事されてるから、お口に合うかと思って!」
(肉を食べない……?)
悠人は美咲の生活様式を何ひとつ知らなかった。
だが、里奈の言葉の端々には、「美咲は自然を愛し、肉を拒み、竹林を守り、穏やかに暮らす美しい女性である」という強固な決めつけが満ちていた。
「ありがとう……いただくよ」
「あ、それとですね! 来週の竹林保全イベントの件なんですけど、美咲さんにはやっぱり、開会式で『竹林の守り手』として一言ご挨拶をお願いしたくて。美咲さんがお話しされると、参加者の皆さんも『自然との調和』の大切さがスッと胸に入ってくるって言うんです」
里奈の目は純粋な善意で輝いていた。だからこそ、逃げ場がなかった。
断るための言葉を組み立てようにも、この肉体の口唇は素早く動かず、脳の思考も火照りと冷えの不快感でうまく回転しない。
面倒くささと徒労感が先立ち、悠人はただ小さく頷くことしかできなかった。
「……分かった。適当にやるよ」
「まあ!『適当』だなんて、美咲さんらしい照れ隠しですね! 楽しみにしています!」
里奈は満足そうに微笑むと、「じゃあ私、次は自治会長さんのところに行ってきますね!」と言い残し、軽やかな足取りで去っていった。
残された悠人は、手に持たされた生温かいトマトを見つめた。
自分という人間が中にいることなど、誰ひとり気づかない。
周囲が見ているのは「美咲」という記号であり、「竹林と調和して生きる優しい女性」という都合の良い役割に過ぎなかった。
断る理由を説明する労力すら惜しくなるほど、その役割は自然に、そして強制的に上から被せられていた。
足元で、ササッと葉が擦れる音がした。
見下ろすと、一匹の野良猫が立ち止まり、こちらを見上げていた。
毛並みは乱れ、耳の先端が少し欠けた薄汚れたオスのトラ猫だ。
美咲の記憶(あるいは残された日記)によれば、名前は「タケオ」というらしい。
「ミャァ」
タケオは低く濁った声で鳴き、悠人の足元に擦り寄ってきた。
脚の皮膚に猫の固い骨組みと毛の感触が当たり、冷え切っていた足首にぬるい体温が伝わる。
一般的な物語であれば、この孤独な状況において、猫との触れ合いは唯一の癒やしとなるのかもしれなかった。
だが、悠人が感じたのは純粋な「コスト」と「不快感」だけだった。
猫の体毛からはノミ駆除薬の薬臭さと、生ゴミを漁ったような生臭さが漂っていた。
さらに、縁側の方へ目をやると、タケオが吐き戻した毛玉と未消化のキャットフードが、黒ずんだ木板の上で乾きかけていた。
「……ハァ」
悠人は小さく息を吐き、家の中から新聞紙と掃除用具を持ってきた。
かがむ動作をするたびに、太ももの付け根の関節が圧迫され、下腹部に重い鈍痛が走る。
ブラジャーのワイヤーが胸の下の皮膚に擦れ、汗でかゆみが広がっていた。
キャットフードの嘔吐物を新聞紙で拭き取り、アルコールスプレーを吹きかける。
タケオはその横で、早く餌をくれと言わんばかりに悠人のサンダルを爪で引っかいていた。
「待て。いまやるから」
台所の棚を探すと、安物のキャットフードの缶詰が出てきた。
缶切りでフタを開けると、魚の血合いと油の混ざった強烈な匂いが鼻を突く。
それを皿にあけて庭に置くと、タケオは猛烈な勢いで食べ始めた。
癒やしなどではない。
餌を買う金がかかり、排泄物と嘔吐物の処理をさせられ、ノミやダニのリスクを持ち込む生体。
それが、悠人にとってのタケオの実態だった。
昼過ぎ、悠人は作業用の竹竿を一本持って、竹林の散歩――いや、見回りに出た。
サンダルの底は薄く、砂利を踏むたびに足の裏へゴツゴツとした痛みがダイレクトに伝わる。
竹林の中へ一歩足を踏み入れると、太陽の光が途切れ、急激に気温が下がった。
冷気が足元から這い上がり、ロングスカートの裾を通り抜けて太ももを冷やす。
その一方で、少し坂道を登るだけで胸元や背中には嫌な汗が吹き出し、服の下で蒸れて皮膚がかゆくなった。
身体の半分が火照り、半分が凍えついている。
歩くたびに、胸の肉が上下左右に揺れる。
手で押さえようとしたが、歩行の邪魔になるだけだった。
男性だった頃の身体は、体幹を中心に直線的で無駄のない動作が可能だった。
だが、この女性の身体は重心の位置が低く、骨盤が歩行のたびに左右へ歪み、前に一歩踏み出すのにも無駄な筋力を使う。
「……くそっ」
竹竿を叩きつけるように地面につく。
竹林の奥からは、風の音に混じって、乾燥した竹同士がぶつかり合うコン、コンという固い音が響いていた。

ふと、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
美咲のものではなく、悠人の元々のスマートフォンだ。
美咲(悠人の体)が置いていったものだった。
画面を見ると、都心の勤め先の課長からの着信履歴と、メッセージが届いていた。
『悠人、体調不良で休むのは分かったが、来週の提案書データの場所だけでも教えてくれ。引き継ぎができていない』
悠人は冷えた指先で画面をタップしようとしたが、指先が冷たすぎてタッチパネルが反応しない。
何度も息を吹きかけ、掌で温めてから、ようやく返信を打ち込んだ。
『申し訳ありません。サーバーの共有フォルダ、営業02の階層に入っています』
送信ボタンを押すと、すぐに『了解』とだけ返ってきた。
都心のオフィスでは、自分が抜けようが世界はそのまま回っている。
そして高円寺のアパートでは、今頃、自分(悠人)の姿をした美咲が、男の身体の重さと股間の違和感に耐えかねて頭を抱えているのだろう。
美咲からは、朝以来何の連絡もなかった。
互いに相手の状況を心配する余裕などないのだ。
自分の身体に降りかかった生理的ストレスと、日々の生活をこなすだけで精一杯だった。
悠人は竹林の真ん中で立ち止まった。
見上げると、青空を覆い尽くすように、緑の竹葉が密生している。
光と影が交錯する中で、自分の影が地面に落ちていた。
肩幅が狭く、腰回りが丸く、裾の広い服を着た女の影だ。
その影を足で踏みつけてみても、感覚はない。
ただ、下腹部の奥で、生理周期の予兆と思われる鈍い痛みが、脈打つようにジワジワと強まっていた。
「これが……美咲の日常か」
誰も救いに来ない。奇跡も起きない。
ただ、不快な汗と冷えを抱えたまま、この重い身体で、この鬱鬱とした竹林の日常を引き受けていくしかなかった。
第三章:不協和音の食卓と忍び寄る「波」
湿った南風が吹き抜けるたび、和室の鴨居がキイキイと軋んだ。
台所の勝手口に腰掛けた悠人(美咲の体)は、冷え切った自分の足首をさすりながら、手元の包丁をまな板に落とした。
トントンと規則正しい音が響くが、刃を引く腕の力加減が男だった頃の感覚とズレているため、切られた大根の厚みは不揃いだった。
「クソッ……」
刃を置くと、右の手首に鈍い疲労感が残った。
筋力が落ちているせいだけでなく、鎖骨から垂れ下がる胸の重みが肩甲骨を引っ張り、腕の可動域を狭めているからだ。
アンダーバストを締めつけるブラジャーのゴムには汗が溜まり、皮ふが擦れてヒリヒリと痛んだ。
その時、玄関の引き戸がガラガラと重い音を立てて開いた。

「おい……いるんだろ」
入ってきたのは、高円寺のアパートから戻ってきた美咲(悠人の体)だった。
着慣れないスーツの上着はくしゃくしゃに丸められて手に握られており、ネクタイは解かれ、ワイシャツの首元からは荒々しい胸毛と固い鎖骨が覗いていた。
男の太い足でズカズカと上がり框を上がってくる動作は豪快だが、その表情は疲弊と絶望で土色に陰っていた。
「会社……どうなった」と悠人は尋ねた。
「どうにもならないわよ!」
美咲(悠人の体)は、悠人の声帯を使ってガラガラとした低い声を吐き捨てた。
そして、男の大きな身体を畳の上にドサリと投げ出した。
「立ち仕事なんて二時間で限界だったわ。股間が蒸れて擦れて痛いし、胸は平らで寒気がするのに、背中と脇の下から男特有の油くさい汗が次から次へと出てくるの……! 洗面所で自分の顔を見たら、顎に青々としたヒゲが生えてて……私、カミソリで自分の肌を削るなんて恐ろしくてできなかった!」
美咲は自分の顔――男の固い顎ラインをゴツゴツとした指先で覆い、身悶えした。
「それに、あんたの会社の同僚からのチャット! 『昨日のデータ、どこですか』『打ち合わせの件、進んでますか』って……私に分かるわけないでしょ! 適当に『体調不良で動けない、明日連絡する』って送ってスマホの電源を切ったわよ!」
「勝手に電源を切るな……」
「じゃあどうしろっていうのよ! あんたこそ、この家で優雅に料理なんて作っちゃって! 私の体を使って、生活を楽しんでるんじゃないでしょうね!?」
美咲の言葉には、男の大きな体格ゆえの圧迫感があった。
しかし、中にいるのはパニックを起こした一人の女性だ。
そのギャップが、凄惨なまでの滑稽さを醸し出していた。
「楽しむ? 冗談だろ」
悠人は冷えた指先で自分の額を叩いた。
「朝から自律神経が狂ってて、頭の奥がずっと火照ってる。指先と足先は冷え切って感覚がない。おまけに近所の里奈って女が来て『竹林の守り手』だの『肉を食べない丁寧な暮らし』だの、お前が作った『美しい美咲さん』のイメージを押し付けられて吐き気がしそうだった」
悠人はまな板の上の大根と、鍋で煮立っている昆布出汁を指さした。
「肉を食べないんだろ? だから精進料理みたいなものを作ってるんだよ。お前の代役を完璧に演じるために重い腰を上げてな」
美咲(悠人の体)はハッと息をのんだ。
男の太い眉が寄られ、苦々しい表情が浮かぶ。
「……ごめんなさい。私、取り乱して……」
「いい。責めてるわけじゃない。ただ、お互い地獄だってことだ」
ふたりは古いちゃぶ台を挟んで向かい合って座った。
夕食の献立は、大根と豆腐の煮物、ほうれん草のお浸し、そして玄米ごはんだった。
美咲(悠人の体)は、男の大きな手で繊細な箸を握り直し、ぎこちない手つきで豆腐を口に運んだ。
一口噛むごとに、男の分厚い咀嚼音が畳の部屋に響く。
「……味が薄いわね」と美咲が呟いた。
「お前が普段食べてる調味料の通り作ったんだ。文句を言うな」
「そうだけど……この体だと、もっと油っこいものとか、塩気の強いものが欲しくなるのよ。舌の感覚が変わってるみたい。唐揚げとか、ラーメンとか……」
「俺の体はそうやってできてるんだよ」
悠人もまた、玄米ごはんを口に運んだ。
しかし、胃のあたりがどんよりと重く、一口飲み込むごとに胸の奥でつかえるような感触があった。
男の体なら茶碗三杯は軽く平らげられる量だが、美咲の体は少量の穀物を受け入れるだけでも負担を感じているようだった。
沈黙が食卓を支配した。
聞こえるのは、柱時計のカチカチという刻音と、外の竹林が風にしなるザザーッという重苦しい音だけだ。
「……戻れないのかな」美咲がポツリと言った。
「わからない。原因もトリガーも不明だ。科学的に説明がつく現象じゃない」
「私……ずっとこのゴツゴツした身体で生きていくの? ヒゲを剃って、低い声で喋って、男として働いて……?」
「俺だって嫌だ。毎朝起きて、自分の体に胸が二つぶら下がってて、股間がツルツルになってる感覚に耐えるのは限界だ」
悠人は箸を置き、自分の下腹部に手を当てた。
「……何だ、これ」
下腹部の奥深くで、ズキリと不唇な鈍痛が走った。
それは食べ過ぎによる腹痛でも、冷えによる痛痒さでもなかった。
子宮という、かつて持っていなかった臓器が内側から自絞するように収縮し、骨盤全体を内側から押し広げていくような、重く湿った痛みだった。
「……どうしたの?」美咲が尋ねる。
「腹が……痛い。奥の方が、引きつるみたいに……」
美咲(悠人の体)の目が点になり、次の瞬間、顔色がサッと変わった。
「あ……」
「あ?」
「……カレンダー、見た?」
美咲は男の体を揺らしながら立ち上がり、壁に掛けられた古い日めくりカレンダーを指さした。そこには赤い丸印がつけられていた。
「……今日、生理予定日よ」
悠人の思考がフリーズした。
「……は?」
「だから! 私の体、生理が重いの! 初日と二日目は腰が砕けそうになって、頭痛と吐き気がして、寝込むレベルなのよ!」
「おい、待て……冗談だろ」
言うと同時に、二度目の激痛が下腹部を襲った。
まるで真っ赤に熱した鉄の鉤爪で、内臓の内壁を内側から直接引っかかれたかのような激痛だ。
「ツッ……! ぐっ……!」
悠人は畳の上に崩れ落ちた。
息がうまく吸えない。
胸を締めつけるブラジャーが肋骨を圧迫し、呼吸を浅くする。
下腹部から脚の付け根にかけて、生ぬるい血の塊が下りてくるような生々しい感覚と、骨盤が砕けるような鈍痛が同時に押し寄せてきた。
額から冷や汗が噴き出す。
上半身は熱病に侵されたように火照り、指先は氷のように冷たくなって震えた。
「大丈夫!? ナプキン! ナプキンは押入れの奥の箱に入ってるから!」
美咲(悠人の体)が慌てて立ち上がり、押し入れをガサゴソとあさり始めた。
男の大きな背中がドタバタと揺れ、ふすまの枠に肩をぶつける音が響く。
自分の姿をした男が、女性用生理用品の箱を抱えて戻ってくる光景は、狂気以外の何物でもなかった。
「ほら! これ! トイレに行ってつけてきて!」
美咲から渡されたのは、羽つきの分厚い夜用ナプキンだった。
悠人は膝をがくがくさせながら、膝行するようにしてトイレへ向かった。
ズボンと下着を脱ぎ捨てると、そこには男だった頃には生涯見ることのなかった、鮮血の赤と生理的な現実が広がっていた。

「くそっ……クソがっ……!」
手を震わせながらナプキンを装着し、下着を引き上げる。
布地越しに伝わる生理用品のゴワゴワとした異物感。
そして、絶え間なく下腹部を締めつける、容赦のない「生殖の波」。
トイレの壁に頭を打ちつけながら、悠人は激しい吐き気に耐えていた。
男性としての理性的・論理的な思考は、容赦ない肉体の苦痛の前にいとも易々と粉砕された。
ここにあるのは「性別」という概念の美しいロマンでも、フィクションのコミカルな入れ替わりでもない。
ただそこにあるのは、血を流し、痛みに悶え、逃れられない肉体のシステムに支配された、生々しい「人間」の苦痛だけだった。
洗面所で冷水を顔に叩きつけ、姿見を見上げる。
鏡の中の美咲は、青ざめた顔で額に汗を浮かべ、苦しそうに息を吐いていた。
その瞳の奥には、男性としての悠人の意識と、女性としての美咲の肉体が引き起こす、完全な不協和音が渦巻いていた。
「……これが、お前の苦痛か」
悠人は擦れた声で呟き、腹を押さえながら、重い足取りで和室へと戻っていった。
外の竹林からは、夜の冷気とともに、さらなる風の咆哮が聞こえ始めていた。
第四章:協定と暗黙のアルゴリズム
急激な痛みの波が引いたのは、真夜中を過ぎた頃だった。
悠人は和室の布団の上で丸くなり、下腹部にカイロを当てながら荒い息を吐いていた。
着古したスウェットのパンツ越しにも、夜用ナプキンのゴワゴワとした分厚い存在感がはっきりと伝わってくる。
「……死ぬかと思った」
「言ったでしょ。私の体、初日は本当に酷いのよ」
ちゃぶ台の脇に腰掛けた美咲(悠人の体)が、低い声で呆れたように言った。
男のゴツゴツとした手には、ドラッグストアの袋が握られている。
中には鎮痛剤の箱と、経口補水液、それから温熱シートが入っていた。
美咲は悠人の体を使って、深夜営業の薬局まで走ってくれたのだ。
大きな足でペタペタと歩き回り、レジで男の低い声を出すのは相当なストレスだったはずだが、目の前で悶絶する「自分の身体」を見捨てておくことはできなかったらしい。
「薬……飲むか?」
美咲(悠人の体)が水を入れたコップと錠剤を差し出してくる。
悠人は身体を起こし、震える手でそれを受け取った。
錠剤を喉の奥に押し込み、水を飲み干す。
喉の落ちていく感覚すら、男の頃よりずっと細く繊細に思えた。
「サンキュ……助かった」
「お礼なんていいわよ。私の体を壊されたら困るもの」
美咲は畳の上にドカリと胡坐をかき、男の太い指で額の汗を拭った。
その豪快な仕草と、繊細な声音のアンバランスさが、暗い部屋の中で奇妙な現実感を醸し出している。
「ねえ……これからどうするの?」
美咲が静かに尋ねた。
「どうする、とは?」
「仕事よ。あなたの会社も、私のブログや生活も。……このままじゃ、二人とも社会的に死ぬわ」
悠人は天井の木目をじっと見つめた。
論理的に考えれば、この状況は完全に異常事態だ。
原因究明も大切だが、まずは「システムが破綻するのを防ぐ」ための緊急介入(フェールセーフ)が必要になる。
「……ルールを決めよう」と悠人は言った。
「ルール?」
「お互いの生活と身体を維持するための最低限の運用プロトコルだ。感性や精神論で乗り切ろうとしても無駄だ。肉体のシステムが違いすぎる」
悠人はサイドテーブルからノートとボールペンを取り出し、膝の上で走らせ始めた。
—
運用プロトコル:暫定協定
1. 身体メンテナンスの義務化
美咲の体(悠人担当):
生理周期の管理および鎮痛剤の定刻服用。
基礎化粧品による保湿と、毎朝のスキンケアの実施。
筋力低下に伴う手首・腰の負担軽減(重い荷物の運搬禁止)。
悠人の体(美咲担当):
毎朝の髭剃り(電気シェーバーを使用し、肌を傷つけないこと)。
デオドラント対策の徹底(男特有の皮脂分泌への対応)。
股間の圧迫を避ける下着・ズボンの選定。
2. 外部コミュニケーションの制限と代行
会社業務(悠人の仕事):
基本はリモートワークおよび体調不良を理由とした一時的な業務縮小。
チャットツール等の定型返信テンプレートを作成し、美咲が代理送信する。
地域・ブログ対応(美咲の仕事):
近隣住民(里奈など)との会話は最小限にとどめ、「体調不良」を理由に接触を絶つ。
ブログ記事の投稿・管理は悠人が作業手順書(マニュアル)に従って代行する。
—
美咲はノートに書き込まれた箇条書きを覗き込み、感心したように、あるいは呆れたように息を吐いた。
「相変わらず、理屈っぽいのね……。でも、助かるわ。私、あなたの会社の仕事なんて何をどう返信していいかパニックになってたから」
「マニュアルを作る。定型文をコピペして送るだけで済むようにしておけば、数日は誤魔化せるはずだ」
悠人はボールペンを置くと、深く息を吐いた。
「問題は……この肉体に刻まれた『習慣』と『欲望』だ」
「どういうこと?」
「さっきの夕食だ。お前は俺の体で油っこいものを欲しがり、俺はお前の体で玄米や精進料理すら重く感じた。肉体が違えば、脳が求める栄養も、自律神経の出力も変わる」
「……確かに。私、今めちゃくちゃラーメンが食べたいもの。ニンニクがたっぷり入ったやつ」
美咲(悠人の体)が自分の大きな腹を撫でながら苦笑する。
「食べればいい。ただし、俺の体は胃腸が強くないから、食べた後に胃薬を飲んでおけ。……それと、俺の体のメンテでお前に頼みたいことがある」
「何よ?」
悠人は少し言葉を詰まらせた後、真顔で言った。
「……爪を切ってくれ」
「は?」
「俺の爪だ。深爪しない程度に短く整えておいてくれ。それから、肩こりが酷いから、ストレッチのメニューを書いておく。放置すると頭痛が起きる」
美咲は一瞬ポカンとしたが、やがて男の太い声で「くすっ」と笑った。
「了解。あなたの体の取り扱い説明書(トリセツ)、しっかり守るわ。その代わり、私の髪の毛、ちゃんとお風呂でトリートメントしてよ? 乾かす時も洗い流さないトリートメントをつけてからドライヤーをあててね」
「……善処する」
ふたりは顔を見合わせ、小さく息を漏らした。
絶望的な状況であることには変わりない。
しかし、感情的な混乱を排し、「互いの体を預かる運用者」としての役割を定義したことで、部屋の中に漂っていた殺伐とした空気は、少しだけ和らいでいた。

翌朝。
薬の効果で痛みが和らいだ悠人は、美咲の体を使って朝の洗面台に立っていた。
鏡の中に映る美咲の顔。
昨日までは他人事のように見えていたその肌に、化粧水を丁寧に馴染ませていく。
指先で頬を軽く叩くと、吸い付くようなモチモチとした感触が手に伝わってきた。
「これが『手入れ』の成果か……」
男性だった頃は水で洗顔して終わりだった肌ケアだが、工程通りにこなすことで肉体が目に見えて変化する感覚は、工場のプロセス管理に通じるものがあり、思いのほか不快ではなかった。
一方、隣の部屋からは、電動シェーバーの「ウィーン」という高い駆動音が聞こえてくる。
「ねえ、悠人! これ、顎の凹凸のところってどうやって剃るの!?」
「肌を少し下に引っ張って、刃を垂直に当てろ。強く押し付けるなよ、赤くなるから」
「こう!? あ、すごい、綺麗に剃れる……!」
部屋から出てきた美咲(悠人の体)は、ツルツルになった自分の顎を触りながら、少し誇らしげな顔をしていた。
「よし、これで第一段階はクリアだな」
悠人はパソコンを開き、美咲のブログ『丁寧な暮らしと竹林の家』の管理画面を立ち上げた。
「美咲、お前のブログの次回更新、原稿のストックはあるか?」
「あ……下書きに写真だけ入ってるわ。『初夏の竹林で淹れるハーブティー』ってタイトルで」
「了解した。文章はこちらで構築する。『美咲』らしいトーン&マナーに合わせたテキストを生成して投稿しておく」
「えっ、書けるの?」
「お前の過去記事の構文パターンと頻出単語は分析した。感性的な形容詞を多用し、文末を『〜ですね』で統一すれば、読者には見分けがつかない」
美咲は男の体を丸めて画面を覗き込み、「なんか……私よりプロっぽいんだけど」と感嘆の声を漏らした。
「システム化だよ」と悠人は淡々と言った。
しかし、その静かな協力体制を破るように、玄関のインターホンが鋭く響き渡った。
ピンポーン――。
ふたりの体が同時に強張る。
「……誰だ?」
悠人がそっと勝手口の隙間から外を窺うと、そこには麦わら帽子をかぶり、大きなトレイを抱えた近所の女性――里奈の姿があった。
「美咲さ〜ん! 朝採れの竹の子と、自家製の米粉パン持ってきましたよ〜!」
甲高い声が、静かな朝の竹林にこだました。
美咲(悠人の体)が青ざめた顔で悠人を見る。
「どうするの……? 私、あの人と喋ると、すぐボロが出る……!」
「落ち着け」
悠人は自らの腹部に手を当て、生理痛の残滓を確認した。
そして、静かに美咲の肩を叩いた。
「お前は奥の部屋に隠れていろ。……俺が『美咲』として対応する」
「えっ……大丈夫なの!?」
「マニュアル通りにこなすだけだ」
悠人は深呼吸をし、喉の奥を意識して声を少し高めに整えた。
「――はーい、今開けますね〜」
鏡で自分の表情を作り込み、悠人はゆっくりと玄関の引き戸へと手をかけた。
仮面劇の二幕目が、今始まろうとしていた。
第五章:演出された日常と軋む牙城
玄関の引き戸を開けると、湿った竹林の風とともに、甘ったるい米粉パンの香りが鼻をついた。
「美咲さ〜ん! おはよ……あら、顔色が悪いわね? 大丈夫?」
麦わら帽子の影から覗く里奈の目は、親愛と、ほんの少しの観察者特有の鋭さを孕んでいた。
手には蒸気すら残る竹の子と、丁寧にワックスペーパーで包まれた米粉パンのトレーが握られている。
「ええ……少し、お腹が痛くて。ご心配をおかけしてすみません」
悠人(美咲の体)は、胸のすくような微笑みを意識して作ってみせた。
語尾のトーンをわずかに上げ、柔らかく息を抜く。
過去のブログ記事から抽出した「美咲」の言葉遣いを脳内で再現し、忠実に再生する感覚だ。
「まあ、大変! 朝採れの竹の子、アク抜きしておいたから食べて元気出してね。『竹林の守り手』として、自然の恵みをいただくのが一番の薬なんだから」
「ありがとうございます、里奈さん。いつもお心遣い、感謝しています」
言葉に詰まることなく、模範解答を打ち返す。
相手の顔を見つめ、適度な相槌を打ち、感謝の意を示す。
システムの運用としては完璧なはずだった。
しかし、悠人の内側では、凄まじい不快感が渦巻いていた。
(……なんだ、この薄っぺらい会話は)
身体の奥、子宮の位置に居座る冷えと鈍痛が、脳の思考を鈍らせる。
相手の言葉に込められた無邪気な押し付け――「オーガニックな暮らし」「自然の恵み」といった、論理的根拠のない観念的な正義感が、生理中の神経を逆なでした。
「そういえば美咲さん、先週話していた『竹の皮を使った自家製ぬか床』の件だけど……」
「あ、すみません、里奈さん」
悠人は柔らかく、しかし断固とした手つきで引き戸の枠を握った。
「今日は少し身体を休めたいので……また後日、こちらからご連絡してもよろしいですか?」
「……え? あ、あら、そうね。無理させちゃってごめんなさい! じゃあパン、置いておくわね」
里奈は少し拍子抜けしたような、どこか不満げな表情を浮かべながらも、トレーを渡して去っていった。
引き戸を閉め、鍵をかける。
「ふぅ……」
悠人はその場に崩れ落ちそうになりながら、壁に背中を預けた。
たった数分の会話で、額から冷や汗が流れていた。
(これが、美咲が日常的にこなしていた『人間関係』か……)
感情の摩擦を避け、相手の求める「美咲像」を演じ続けるコスト。
それは、製造ラインのエラー率をゼロに保つために四六時中張り詰めさせる精神的負荷と同等、あるいはそれ以上だった。
奥の和室から、忍び足で美咲(悠人の体)が出てきた。
男の大きな体躯を小さく丸め、恐る恐る玄関の様子を窺っている。
「……すごかったわね。完璧に『私』だったじゃない」
「……当たり前だ。マニュアル通りに演じただけだ」
悠人は荒い息を整えながら立ち上がった。
「だが、長続きはしないぞ。あの女、こちらの些細な違和感を察知しようとしている。……お前、普段からあんな面倒な付き合いをしてたのか?」
美咲(悠人の体)は気まずそうに視線を泳がせた。
「仕方ないじゃない……田舎の近所付き合いなんだから。ブログのイメージもあるし、悪く思われたくなかったのよ」
「虚飾のイメージを守るために自分の首を絞めてどうする。……まあいい。それより、会社からの連絡だ」
悠人はスマートフォンを取り出し、画面を美咲に見せた。
画面には、悠人の勤める会社のチャットツールが表示されていた。
『【至急】昨日のトラブル報告書のフォーマット、これで合っていますか? 確認をお願いします』
美咲は男の太い指で頭を抱えた。
「うっ……見てもさっぱり分からないわ。専門用語ばかりだし、どのファイルを送ればいいかも……」
「だからマニュアルを作ったと言っただろう」
悠人はパソコンを開き、あらかじめ作成しておいた作業手順書(SOP)を指さした。
「この手順に従え。デスクトップの『2026_トラブル対応』フォルダを開き、最新のテンプレートを使って回答文を作成しろ。定型文はこれだ。『フォーマットに問題ありません。数値の根拠として添付の解析データを参照してください』。そのままコピペして送信しろ」
美咲はゴツゴツした手でマウスを握り、真剣な眼差しで画面と手順書を交互に見比べた。
「こう……? フォルダを開いて……このテキストを貼って……送信、と」
「そうだ。余計な一言は添えるな。感情を交えず、事実と指示だけを返せば、相手は俺が通常通り業務をこなしていると判断する」
送信ボタンが押され、チャットのステータスが「送信済み」に変わる。
「……できた。本当にこれで大丈夫なの?」
「ああ。仕事のコミュニケーションなんてものは、互いの要求と回答を正確にマッチングさせるアルゴリズムに過ぎない。感情はいらない」
美咲(悠人の体)は、自分のゴツゴツとした手をじっと見つめた。
「あなたって……本当になんでもシステム化しようとするのね。私の体になっても、私のブログになっても、仕事になっても……」
「そうしなければ破綻するからだ」
悠人は静かに言い捨て、再び下腹部の鈍痛に耐えるように身体を丸めた。
「感情で動けばエラーが起きる。エラーが起きればシステムが止まる。俺たちは今、崩壊寸前のシステムを力技で稼働させている状態なんだ」
その日の夕方。
悠人は洗面所の鏡の前に立っていた。
生理二日目のピークを迎え、肌のくすみと身体の重さは限界に達していた。

基礎化粧品を叩き込み、髪を整え、服を着替えて「美咲」の形を保つ。
しかし、どれだけ表面を繕っても、内側から溢れ出す「生の血」と「痛みのシステム」を消し去ることはできない。
「……何が『丁寧な暮らし』だ」
悠人は鏡の中の美しい女性の顔に向かって、低い声で吐き捨てた。
丁寧な暮らしの裏にある、過剰な自律神経の負担、生理の苦痛、人間関係の摩擦。美咲が築き上げてきた「美しい日常」の正体は、緻密に繕われた張り子の虎に過ぎなかったのだ。
そして同時に、悠人は自分自身の欠落にも気づき始めていた。
会社で自分が「システム」としてこなしていた業務。
美咲が代行テキストを一枚送るだけで成立してしまう程度の、感情を排したやり取り。
自分の存在価値すらも、代替可能なアルゴリズムに過ぎなかったのではないかという、冷たい疑念。
カチ、カチ、と柱時計の音が響く。
互いの「現実」をシステムとして処理し始めた二人は、それぞれの牙城が内側から軋み始めていることに、まだ気づいていなかった。
これで1話目は以上です。
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