この話は、放課後の旧校舎で身体が入れ替わった美咲と悠人が、互いの姿で日常を生きることになる物語です。
見どころは、美咲が慣れない男性の身体や周囲から求められる役割に苦しみ、自分の存在まで揺らいでいく過程。
元の自分から遠ざかる不安と、逃れられない孤独を味わえます。
骨格とファンデーション
立ち上がろうとした瞬間、視界の高さと、股の間にぶら下がる奇妙な肉の重みに脳が拒絶を起こした。
胸元を弄っても、そこにあるべき柔らかな膨らみはなく、代わりに硬く平坦な肋骨が指を跳ね返す。
私は、隣で自分の顔をして絶望している「私」の身体を見下ろしていた。
放課後の旧校舎、使われていない美術準備室の空気は、埃と油絵具の匂いが混ざり合って澱んでいた。
ほんの数分前まで、私――美咲は、クラスメイトの悠人と、窓際に腰掛けて他愛のない話をしていたはずだった。
最近、悠人が熱心に読んでいた古い本に書かれていた「自分らしく生きる」という一節について、少しからかうような口調で意見を交わしていた。
女装だとか、男の娘だとか、そんな言葉が冗談交じりに飛び交っていた。
その直後に襲ってきた、脳を直接揺さぶられるような激しい眩暈。
世界が不自然に暗転し、次に目を開けたときには、すべてが取り返しのつかない形で反転していた。
「え、嘘……」
私の口から出たのは、低く、濁った、聞き覚えのある男子の声だった。
自分の声帯が震えている感覚が、喉の奥の異物感として生々しく伝わってくる。
慌てて自分の手を見つめると、そこにあったのは、節くれ立ち、爪の丸い、日焼けした大きな男の手だった。
手の甲には、うっすらと黒い毛が生えている。
皮膚の表面はガサガサと乾燥しており、自分が知っている滑らかな肌の感触とは程遠かった。
「美咲、か……?」
正面から、聞き慣れた自分の声が聞こえた。
見上げると、そこには私の制服を着た、私自身の身体が立っていた。
しかし、その表情は恐怖に歪み、視線は定まらず、細い肩が激しく上下している。
悠人の精神が入ってしまった私の身体は、自分の胸の膨らみに戸惑うように両手を当て、ブラジャーの締め付けに息を詰まらせていた。
「何だこれ、重い、胸が、苦しい……なんで……」
私の顔をした悠人が、スカートの裾をぎこちなく引っ張りながら、床にへたり込む。
その動作の軽やかさと、反比例するような精神の混乱が、目の前の光景の異常さを際立たせていた。
私は立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、床に膝をついた。
ズボンの硬い生地が、膝の皮膚を容赦なく擦る。
男子の制服のズボンというものが、これほどまでに股擦れを起こしやすく、通気性が悪く、不快なものだとは知らなかった。
何よりも、下半身に存在する「余計な肉塊」が、歩く、座るというごく当たり前の動作のたびに位置を変え、自己主張してくるのが耐え難かった。
それは性的な興奮とは無縁の、ただの物理的な邪魔者であり、異物だった。
重心が極端に低くなり、骨盤の幅が狭まったせいで、バランスを取るだけで余計な筋肉を使わされているのがわかる。
一歩を動かすたびに、身体全体が重く、鈍く、砂の詰まった袋を引きずっているかのような疲労感が襲ってきた。
「病院、行かなきゃ……いや、でも、なんて説明するの」
悠人の声で喋る私は、自分の喉が鳴らす低音にいちいち鳥肌が立つのを止められなかった。
唾を飲み込むたびに、喉仏という軟骨の塊が上下するのが皮膚越しに伝わる。
それは明確な、男性という生物の記号だった。
「わからない、わからないよ。とりあえず、家に帰らないと。誰かに見られたら、終わりだ」
私の身体を持った悠人は、涙目になりながら、私のスクールバッグを乱暴に掴んだ。
その掴み方の粗野さに、私は自分の身体が他人に侵食されているという、生理的な嫌悪感を強く抱いた。
しかし、それを指摘する余裕すら今の二人にはなかった。
私たちは、どちらからともなく旧校舎の裏口から外に出た。
夕方の地方都市の空気は冷たく、湿っていた。
いつもなら何とも思わないはずの、下校途中の生徒たちの視線が、針のように皮膚を刺す。
私は「悠人」として歩かねばならず、悠人は「美咲」として歩かねばならない。
しかし、その歩調はどちらも歪だった。
悠人(中身は美咲)は、男の長い足の歩幅に馴染めず、何度も足をもつれさせた。
美咲(中身は悠人)は、内股になりながら、胸を隠すように不自然に前かがみになって歩いていた。
すれ違う他人の目は、私たちの顔を見て、少しだけ不審そうな色を浮かべたが、それ以上は何も言ってこなかった。
世界は、私たちの内面の破滅に対して、驚くほど無関心だった。
悠人の家は、小さな商店街を抜けた先にある、少し古びた一軒家だった。
玄関の鍵を開け、家の中に入ると、鼻をついたのは独特の「男臭さ」だった。
父親のものか、あるいは悠人自身のものか分からない、汗と古い油が混ざったような、特有の体臭。
これまでは気にしたこともなかった匂いが、今は自分の鼻腔を直接満たし、胃の奥を不快にかき混ぜる。
「ただいま」と声を出す気にもなれず、私は靴を脱いで上がった。
靴を脱ぐ際、足の裏の皮が厚く、硬くなっていることに気づき、また一つ絶望が重なった。
悠人の部屋は二階にあった。
階段を上るだけで、太ももの筋肉が妙に張り、心臓が不必要に大きく脈打つのがわかった。
男の身体は、筋肉量が多い分、維持するために多くのエネルギーと、それに伴う独特の疲労感を伴うようだった。
部屋に入り、木製のドアを閉めると、ようやく張り詰めていた緊張が少しだけ解けた。
しかし、視界に入るものはすべて男の持ち物だった。
乱雑に置かれた制服の替え、無骨なデザインのオーディオ、少年漫画の単行本。
それらすべてが、私という存在をこの部屋から弾き出そうとしているように感じられた。
私は部屋の隅にある姿見の前に立った。
鏡の中にいたのは、藤井悠人だった。
整ってはいるが、紛れもない男の骨格。
少し太い首、横に広がった鎖骨、平らな胸部。
手を伸ばし、鏡の中の顔に触れてみる。
指先に触れる頬の皮膚は、産毛とは違う、硬い髭の剃り跡が点々と残っており、ザラザラとした不快な摩擦音を立てた。
「これが、私なのか」
呟いた声は、部屋の壁に吸収されて消えた。
脳が記憶している「美咲」としてのセルフイメージと、目の前にある「悠人」という肉体の現実が、まったく噛み合わない。
その噛み合わせの悪さは、頭痛となってこめかみの奥を締め付けた。
夜になり、下の階から「悠人、ご飯だよ」という、母親らしき女性の声が響いた。
私は反射的に返事をしようとしたが、どのトーンで声を出せばいいのか分からず、ただ「あ、うん」とだけ短く返した。
階段を下り、食卓に向かうと、そこには普通の日常があった。
父親はテレビを見ながらビールを飲み、母親は淡々と大皿のおかずを並べている。
彼らにとって、私は「いつも通りの息子」でしかないのだ。
席につき、箸を持つ。
手の大きさが違うため、箸の持ち位置や、口へ運ぶ距離感が狂い、何度もおかずを落としそうになった。
「悠人、なんだか今日はおかしいわね。体調でも悪いの?」
母親が怪訝そうな顔でこちらを見た。
「いや、ちょっと、疲れてるだけ」
私は目を合わせないように、ただ白米を口に押し込んだ。
味がよく分からなかった。
男の舌の味覚すら、私の本来の感覚とは異なっているのかもしれないという恐怖が、喉を通り過ぎる食べ物を引き止めるようだった。
夕食を終え、風呂に入る時間が最大の苦痛だった。
服を脱ぐという行為が、これほど恐ろしいものになるとは思わなかった。
エンジ色のカーディガンを脱ぎ、制服のシャツのボタンを外していく。
ボタンの位置が、女子の制服とは左右逆であることに、指先が戸惑う。
ズボンを脱ぎ、下着を下ろしたとき、私は目を背けずにはいられなかった。
湯船に浸かっても、お湯の熱さが皮膚に伝わる感覚が、以前よりも鈍く感じられた。
皮膚が厚いせいだろうか。
お湯の中で自分の身体を洗う手が、嫌でもその凹凸をなぞっていく。
平らな胸、広い肩幅、そして股間の異物。
それは記号としてのエロティシズムなど微塵もなく、ただそこに存在する、処理に困る肉の塊でしかなかった。
湯上がりに鏡を見ると、湿気で上気した男の顔が、やはり私をじっと見返していた。
部屋に戻り、ベッドに横たわる。
布団の重みすら、以前とは違って感じられた。
目を閉じると、暗闇の中に自分の本来の姿が浮かぶ。
しかし、目を開ければ、そこにあるのは男の手足だ。
携帯電話を確認すると、悠人(中身は美咲)からのメッセージは届いていなかった。
彼もまた、私の身体の中で、同じように絶望し、適応できずに苦しんでいるのだろうか。
あるいは、案外早く、あの軽やかな身体に馴染んでしまっているのだろうか。
どちらにせよ、私たちを繋ぐ境界線は、この夜の静寂の中で確実に、そして不可逆に溶け始めていた。
明日になれば、またあの学校へ行かなければならない。
悠人として振る舞い、男子の集団に混ざり、男としての役割を期待される。
その現実を想像するだけで、胸の奥が押し潰されるように苦しかった。
私は私でありたいだけなのに、この肉体が、それを許してくれない。
暗い天井を見つめながら、私は自分の長い指を何度も握り締め、その硬さと鈍さに、ただ静かに絶望を深めていくことしかできなかった。
時間は止まることなく、私をこの見知らぬ肉体へと、容赦なく縛り付けようとしていた。



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