様々な身体に乗り換えてきた男の話

潜入任務のため美咲の身体へ記憶を移した悠人が、欠陥チップによって自分自身を失っていく物語です。

見どころは、美咲として家族や社会に溶け込みながら、過去の記憶が一つずつ削られていく過程。

任務を続ける緊迫感と、別人へ書き換えられる静かな恐怖を味わえます。

オーバーフローの器

​突然、内臓の奥底から沸き上がった熱に突き動かされるようにして、寝返りを打った。

世界が激しく明滅し、首筋から胸元にかけて、どろりとした嫌な汗が吹き出してパジャマを濡らしていく。

かつて男だった「悠人」の記憶には存在しない、自律神経の失調によるホットフラッシュ――それが、容量不足のチップがもたらしたバグであり、鏡に映る「美咲」という見知らぬ女の肉体が今や自分そのものであるという、何よりの冷酷な現実だった。

​「は、ひゅ……っ、う……」

​喉の奥から漏れ出たのは、自分のものとは思えないほど細く、湿ったソプラノの吐息だった。

悠人は――いや、この肉体の現在の主は、寝返りを打った反動でベッドから床へと転げ落ちた。

薄いフローリングの冷たさが、汗ばんだ太ももと脇腹に容赦なく張り付く。

しかし、体内の異常な熱のせいで、その冷感すらもひどく遠く感じられた。

​胸が重い。

うつ伏せになった拍子に、大胸筋の代わりにそこへ居座る二つの肉の塊が、自身の体重で押し潰されて鈍い痛みを訴える。

男の身体だった頃には、こんな場所に余計な質量などなかった。

走れば揺れて思考を阻害し、横たわれば寝返りの邪魔になる、ただただ不快な脂肪の重み。

それが呼吸を圧迫し、肺に酸素を取り込む効率を著しく低下させている。

​「……クソ、が」

​悪態をつこうとしたが、声帯が上手く振動しない。

女の喉は男のそれよりもずっと繊細で、怒りの感情をそのまま乗せるにはあまりに脆弱だった。

​悠人は震える四肢を突き、這うようにして洗面台へと向かった。

四つん這いで進む日常。

腰の位置が以前よりも低く、骨盤の幅が広がっているせいで、膝を床につくたびに大腿骨の付け根が奇妙な角度で軋む。

重心の変化。

筋力の低下。

男の感覚のまま腕に力を込めようとしても、細い二の腕はぷるぷると震えるだけで、自重を支えることすら満足にできない。

これほどまでに、女の身体というのは「動かない」ものだったか。

​ようやく辿り着いた洗面台の縁にしがみつき、体重を預けて身体を引き上げる。

鏡の前に、一人の女が立っていた。

​年齢は30代半ばから後半。

目元には微かに疲労の影があり、肌のハリはピークを過ぎている。

緩やかにウェーブした髪が、首筋の汗にべっとりと張り付いていた。

名前は、美咲。

それが、今回の任務のために悠人が「引き継いだ」肉体の名前であり、戸籍上の身分だった。

​「おれの……顔……」

​悠人は、濡れた手で鏡に映る美咲の頬を触った。

指先に伝わるのは、柔らかく、少し油分の浮いた女の肌の感触だけだ。

恐ろしいのは、ホットフラッシュの不快感ではない。

美咲の顔を見つめ続けているうちに、自分が元々どんな男の顔をしていたのか、その輪郭が急速に霧の彼方へと消え去ろうとしていることだった。

​今回の潜入任務にあたり、悠人は特殊な記憶・身体転写チップを使用した。

ターゲットの懐へ潜り込むため、すでに社会的基盤を持つ「美咲」という女を丸ごと乗っ取る必要があったからだ。

本来なら、任務完了後に元の男の肉体へと記憶を戻す手筈になっていた。

​だが、何かが狂っている。

本部との連絡は数日前から途絶えたままだ。

それどころか、移植されたチップの容量が、人間の脳と肉体の全データを維持するには圧倒的に不足していた。

​人間の記憶は、ただの映像データではない。

五感、感情、そして肉体の動かし方といった無数の神経パッチが複雑に絡み合っている。

容量が限界を迎えたチップは、生存に必要な「美咲の肉体維持データ」を優先し、代わりに「悠人としての過去の記憶」を、古い順から、あるいは重要度の低い順から、ガリガリと削り落とし始めていた。

​自分が生まれ育った実家の間取りが思い出せない。

初めて付き合った恋人の名前が、喉の奥まで出かかっているのに出てこない。

自分がなぜ「記憶の追跡者」になったのか、その決定的な引き金となったはずの「大切な人を殺された記憶」さえも、動機という文字の形だけが残り、その人の顔も声も、モザイクがかかったように不鮮明になっていた。

​脳のハードディスクが、異物である「悠人」を排除し、器である「美咲」へと強制的にフォーマットをかけようとしている。

​「思い、出せ……俺は、悠人だ。俺は……」

​鏡の中の美咲が、悲痛な表情で唇を動かす。

しかし、その瞳の奥にある光は、悠人の意志とは無関係に、30代の既婚女性としての冷徹な現実を映し出していた。

​その時、リビングの机の上で、スマートホンが低く振動した。

​ビ、ビ、と無機質な音が静まり返った部屋に響く。

悠人は汗を拭うことも忘れ、ふらつく足取りでリビングへ向かった。

スマホの画面に表示されていたのは、見覚えのある、しかし悠人にとっては「他人の割り当て」に過ぎない名前だった。

​『里奈』

​美咲の妹。

それが、この肉体が持つ数少ない血縁者の一人だった。

チップの不完全なデータ移行のせいで、里奈に関する記憶も穴だらけだ。

しかし、この街でターゲットを追うためには、美咲としての日常を完全に演じ続けなければならない。

もし不審に思われれば、すべてが破綻する。

​悠人は、唾を飲み込んで喉を湿らせ、通話ボタンをスワイプした。

​「……もしもし、里奈?」

​「あ、お姉ちゃん? やっと出た。何回かかけたんだよ?」

​受話器から聞こえる声は、親密さと、わずかな非難を含んでいた。

姉妹特有の、遠慮のない距離感。

悠人の内側にある男の精神が、その「身内の甘え」のような空気に一瞬で萎縮する。

どう応えればいい。美咲なら、どんなトーンで話す?

​「ごめん、ちょっと体調が悪くて。寝てたの」

​「体調? また更年期のやつ? 早いよね、お姉ちゃんまだ30代なのに。病院行ったらって言ったじゃん」

​里奈の声は容赦なく、美咲の肉体が抱える現実を突きつけてくる。

ホットフラッシュの原因を、妹はすでに知っているようだった。

美咲の身体は、悠人が入る前からすでに、緩やかな崩壊と変調を始めていたのだ。

​「ええ……そうね。ただの寝不足だと思う」

​「ふーん。あ、それよりさ、今日の夕方、駅前のカフェで会える? お母さんの還暦の祝いの件、そろそろ決めないと。お姉ちゃんがお店予約してくれるって言ってたでしょ?」

​還暦の祝い。お店の予約。

悠人の脳内に、激しいノイズが走った。

そんな約束、美咲の記憶データのどこを探しても見当たらない。

容量不足のせいで、日常の些細なやり取りのデータが真っ先に間引きされたのだ。

​「あ、うん……そうだったっけ」

​「何言ってるの、先週言ったじゃん。忘れたの? 信じられない」

​里奈のトーンが露骨に不機嫌になる。

悠人は、背中にまた嫌な汗が伝うのを感じた。

女性としての役割、姉としての期待、家族の中での責任。

それらが、具体的な言葉となって容赦なく押し付けられてくる。

男だった頃には、姉妹の微妙な力関係や、家庭内での細々としたタスクの押し付け合いなど、知る由もなかった。

今やそれは、美咲の肉体を通じて、逃れられない義務として悠人の肩にのしかかっている。

​「……分かったわ。夕方、5時にいつものところで」

​「うん、遅れないでよ。じゃあね」

​プツリと通話が切れた。

悠人はスマホを握りしめたまま、ソファに深く身体を沈めた。

どっと重い疲労感が押し寄せる。

ただ短い会話を交わしただけなのに、精神の摩耗が激しい。

美咲としての「正解の振る舞い」を探すために、脳の全リソースを割かねばならなかったからだ。

​外は、薄暗い雨が降り始めていた。

窓ガラスを叩く細かな雨音が、部屋の沈黙をより深いものにしていく。

​悠人は立ち上がり、クローゼットを開けた。そこには、美咲の衣服が整然と並んでいる。

落ち着いた色合いのブラウス、膝丈のスカート、そして何枚ものストッキング。

男の衣類のように、ただ袖を通してボタンを留めれば済むような代物ではない。

どれもが、身体の線を意識させ、特定の「女性らしさ」を維持することを要求してくる窮屈な檻だった。

​下着の引き出しから、補正力の強そうなブラジャーを取り出す。

それを身につけるだけで、肋骨の周りがぎちぎちと締め付けられ、呼吸が浅くなる。

胸の脂肪を強引に固定するためのワイヤーが、皮膚に食い込んで鈍い痛みを放つ。

さらに、目の細かいストッキングに足を通す。爪を立てないように慎重に引き上げる作業は、それだけで指先の神経をすり減らせた。

太ももやお尻がナイロンの繊維に圧迫され、皮膚が呼吸を忘れたかのように熱を持つ。

​「……これが、日常か」

​誰に言うでもなく呟いた声は、雨音に消された。

​鏡の前の美咲は、身だしなみを整えられ、社会的な「大人の女性」としての記号を完璧にまとっていた。

しかし、その内側で、かつて悠人という男が持っていたはずの矜持や、追跡者としての鋭さは、締め付けられる衣服と、脳内を蝕む容量不足のノイズによって、確実に、そして不可逆的に削り取られていた。

​時間は待ってくれない。

ターゲットは、この街のどこかで、次の肉体を喰らうために潜んでいる。

悠人は、美咲の重いハンドバッグを肩にかけ、冷え切った部屋の鍵を閉めた。

​ドアを開けると、湿った冷気が美咲の頬をなでた。

体内のホットフラッシュの残熱と、外気の冷たさが混ざり合い、ひどく不快な鳥肌が全身に立つ。

戻るべき身体は、もう現実のどこにもない。

悠人は、カツカツと頼りないヒールの音を響かせながら、薄暗い雨の街へと歩き出した。美咲という女の足取りで、少しずつ、自分の輪郭を失いながら。

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