雪道での偶然の衝突をきっかけに、社会人の悠人と中学生の美咲が身体を入れ替えてしまう物語です。
見どころは、悠人が大人としての立場や信用を失い、美咲の厳しい家庭環境と学校生活を背負わされていく過程。
奪われた人生への焦りと、逃げ場のない現実の重さを味わえます。
みぞれが打ちつける凍てついた歩道で、見知らぬ少女と強く肩がぶつかった。
突如として視界が猛烈に回転し、頭蓋の奥で不快な金属音が鼓膜を破るように響く。
次の瞬間、目を開けると、視界の位置が不自然なほど低く関節のすべてが細かった。
薄い布切れのような制服越しに、冬の冷気が骨の芯まで直接突き刺さってくる。
喉の奥から声を絞り出そうとしたが、高くてかすれた子供の声しか出なかった。
直前の記憶が、激しい頭痛とともに脳裏に蘇る。
悠人は会社からの帰り道、横断歩道の脇で雪に足を滑らせて倒れかけた。
その時、向かい側から俯いて歩いてきた痩せた中学生の少女と強く衝突したのだ。
倒れ込む間際、少女の冷たく乾いた指先が悠人の手首に触れた。
一瞬の浮遊感の後、気づけば悠人はその少女の身体の中に閉じ込められていた。
起き上がろうとして、悠人は腕に体重をかけた。
しかし、肘の関節が細く軋み、そのまま湿ったアスファルトへ倒れ込んだ。
自分の部屋でも、いつもの街頭でもない。
そこは古びたボロアパートの前にある、カビと油の匂いが漂う薄暗い路地裏だった。
自分の大きな手を探そうとしたが、視界に入ったのは白く痩せこけた小さな手首だった。
爪は丸く短く切られており、皮膚の表面はかさついて微かに粉を吹いている。
胸元に手をやると、ペラペラのブラジャー越しに小さな膨らみの違和感があった。
男性としての自分の肉体が消え去り、全く別の何かに置き換わった現実がそこにあった。
立ち上がると、重心の低さに眩暈がした。
足首は細く、踏みしめる雪の感覚すら自分の記憶にあるものとは違っている。
近くの自動販売機のガラスに、おそるおそる自分の姿を映し出した。
そこに映っていたのは、30代の男である悠人ではない。
黒いボサボサの髪をした、痩せた中学生の少女の姿だった。
肌は血色が薄く、目の下には深いクマが刻まれている。
「な……なんだ、これ」
甲高い声が静かな路地に響いた。
自分の声ではない。
その声の軽さが、かえって現実の重苦しさを際立たせていた。
アパートの二階の窓から、重苦しい咳払いが聞こえた。
「美咲……起きたのかい。お父さんの水、取っておくれ……」
かすれた男の声だった。
悠人は戸惑いながらアパートの階段を上り、ドアを開けた。
薄暗い部屋には、薄汚れた布団にくるまった初老の男が横たわっていた。
部屋中に充満する湿布と万年床の匂いに、悠人は思わず息を止めた。
男の枕元には、飲みかけの薬と乾いた湯飲みが転がっている。
「早くしなさい……今日は工場、遅刻しちゃうんだから……」
台所から、疲れ切った女性の声が飛んできた。
母親らしき女性は、古びた鍋に火をかけながら、悠人の顔も見ずに手を動かしている。
この少女——美咲の家庭環境が、一瞬で理解できた。
貧困と、病気の父親と、過酷な労働に追われる母親。
悠人が過ごしてきた、それなりに不自由のない大人としての日常はどこにもなかった。
悠人は自分の鞄を探した。
美咲のものと思われる使い古されたスクールバッグの横に、小さな格安スマホが転がっていた。
画面のガラスには不吉なヒビが入っている。
悠人は小さく震える指先でスマホを操作しようとした。
大人の男としての知識を動員し、まずは状況を打開しなければならない。
警察へ通報するか、自分の本来の携帯電話に連絡を取るべきだ。
自分の勤めていた会社、借りているアパート、銀行口座。
自分が悠人という社会人であることを証明できれば、この異状から抜け出せるはずだった。
しかし、画面の上部には「圏外」の文字が表示されていた。
それどころか、通知欄には利用停止を告げる料金未払いの警告が出ていた。
「……くそっ」
悠人は小さく毒づいた。
大人の知恵があろうと、通信手段すら与えられていない少女の身体では、外部にアクセスすることすら叶わない。
とにかく、ここを出なければならない。
悠人はコートを羽織った。
制服の上に羽織るコートは、驚くほど生地が薄く、中綿など入っていなかった。
首元にマフラーを巻き、手袋をはめたが、生地を通して冬の冷気が容赦なく肌を刺す。
足首が冷え切り、歩くたびに脛の骨が疼いた。
「行ってきます」とも言わず、悠人はボロアパートのドアを開けた。
外は一面の雪景色だった。
路上には冷たい雪が分厚く積もり、灰色の空から小さな結晶が舞い落ちていた。
アスファルトの冷気が、薄い靴底を通して直接足の裏へ伝わってくる。
歩幅が狭い。
大人の男なら二歩で進める距離を、この細く短い脚では三歩かけなければならない。
肩をすくめ、寒さに震えながら、悠人は雪道を歩き始めた。
目指すのは、公衆電話だった。
ポケットを探ると、美咲の財布には数枚の100円玉と数枚の10円玉しか入っていなかった。
悠人は寒さでかじかむ指先で、10円玉を緑色の電話機に押し込んだ。
記憶している自分の電話番号を押す。
電子音が数回鳴った後、プツリと回線がつながった。
『……はい』
受話器から聞こえてきたのは、聞き覚えのある声だった。
低く、少し掠れた、悠人自身の声だった。
悠人は受話器を強く握りしめた。
「おい! お前、誰だ! 俺の身体になにをしている!」
叫んだつもりだったが、口から出たのは甲高い少女の悲鳴のような声だった。
受話器の向こうの「悠人」は、しばらく沈黙した。
そして、重々しく、どこか諦めたような吐息を漏らした。
『悠人さん、ですね。さっきはぶつかってすみませんでした』
「ぶつかったとかどうでもいい!お前が俺の身体に入ってるんだろう! すぐに戻せ!」
『戻せませんよ。私にも、どうしようもありません』
自分の声で語られる冷静な言葉が、悠人の頭を殴りつけた。
「ふざけるな! 警察に行くぞ! お前の家も、家族も全部知ってるんだからな!」
悠人は大人の論理で相手を脅そうとした。
自分の社会的優位性を主張し、相手を追い詰めようとしたのだ。
しかし、受話器の向こうの男は、淡々と告げた。
『どうぞ、警察でもどこでも行ってください。中学生の女の子が“自分は30代の男だ”なんて言っても、誰も信じませんよ。ストレスによる精神的な錯乱だと処理されて、親に引き渡されるだけです』
「な……」
『私は、今のこの身体で普通に働きます。あなたの代わりに会社へ行って、普通に生きます。もう、あの家には絶対に戻りません。お父さんの介護も、あの寒さも、全部あなたにあげます』
プチッ、と無機質な切断音が響いた。
悠人は受話器を握りしめたまま、立ち尽くした。
受話器から漏れるツーツーという音が、頭の中で虚しく反響する。
男の言った通りだった。
今の自分は、無力な中学生の少女に過ぎない。
大人の男としての知識や経験があろうと、それを証明する手段も、社会的な信用も何一つ持っていないのだ。
悠人は公衆電話を飛び出し、雪道を走り出した。
自分の足で、自分のアパートへ向かうしかなかった。
本来の自分が住んでいた街へ向けて、狭い歩幅で雪を蹴り上げた。
だが、走るたびに胸の脂肪が微かに揺れ、その重みが不快な違和感として全身に伝わる。
体力がなさすぎる。
少し走っただけで肺が猛烈に痛み、白い息が途切れ途切れになった。
太ももの筋肉が悲鳴を上げ、膝ががくがくと震えた。
男性の身体では考えられないほどの素早い疲労が、悠人の足を止めた。
通り沿いの雪道で、悠人は膝に手をつき、荒い息を吐いた。
喉の奥が血の味がするほど乾いている。
その時、向かい側の歩道から、一人の男が歩いてくるのが見えた。
黒いコートを着込み、きちんとしたマフラーを巻いた背の高い男。
衝突する直前まで悠人自身が着ていた服と、悠人自身の身体だった。
男は落ち着いた足取りで雪を踏みしめ、悠人の目と鼻の先で立ち止まった。
その顔には、悠人が今まで浮かべたこともないような、穏やかで解放された表情が浮かんでいた。
悠人は必死に声を振り絞った。
「待て……返せよ……俺の人生だぞ……!」
だが、喉がつっかえてまともな声にならない。
自分の身体をした美咲は、ゆっくりと悠人の前まで歩み寄ってきた。
彼女(悠人の身体)は、少し哀れむような目で見下ろしてきた。
その視線の低さが、悠人に自分の惨めさを突きつける。
「寒そうですね」
悠人の声で、美咲が言った。
「でも、それが美咲の日常だったんです。私はもう、あの地獄には戻りません。大人になって、自分の力で生きていきます。あなたも、諦めて学校に行った方がいいですよ」
そう言い捨てると、悠人の身体をした美咲は、滑らかな足取りで去っていった。
大人の男の頑丈な靴底が、キュッ、キュッと力強く雪を踏みしめる音が遠ざかっていく。
悠人はその背中を追いかけようと一歩踏み出した。
しかし、かじかんだ足首が雪に取られ、そのまま派手に転倒した。
顔面から冷たい雪に突っ込む。
頬を刺す激痛と、口の中に入った雪の苦さが、悠人の意識を現実へと引き戻した。
倒れたまま見上げた空は、どこまでも低く、灰色に濁っていた。
「ちょっと! 大丈夫!?」
不意に、上から甲高い声が降ってきた。
悠人が顔を上げると、同じ学校の制服を着た少女が駆け寄ってくるところだった。
整った顔立ちに、学級委員長の腕章。
美咲のクラスメイトである、里奈だった。
里奈は本気で心配そうな顔をして、悠人の肩を抱き起こそうとした。
「美咲ちゃん、こんなところで倒れてたら死んじゃうよ! ほら、立って!」
里奈の手は温かかった。
だが、その温もりが悠人には酷く不快だった。
「触るな……」
悠人は掠れた声で拒絶した。
「え? 美咲ちゃん?」
「放っておいてくれ……俺に構うな……」
悠人は里奈の手を振り払い、泥と雪で汚れた膝を立てて立ち上がろうとした。
自分は大人の男だ。
子供の親切など受けたくなかった。
一人で立ち上がり、一人でこの問題を解決しなければならないという矜持があった。
しかし、里奈の瞳に宿ったのは、拒絶に対する怒りではなく、深い「同情」と「善意」だった。
「そんなに無理しちゃダメだよ。お父さんの介護で疲れてるんでしょ? 知ってるよ、美咲ちゃんがいつも一人で抱え込んでること」
里奈は甲斐甲斐しく、悠人のコートについた雪を自分の手で払い落とし始めた。
「私、先生にも相談するね。美咲ちゃんが学校に来られるように、クラスみんなでサポートするから。一人じゃないんだからね!」
里奈の言葉は、純粋な善意に満ちていた。
悪気など欠片もない、正しいクラスメイトとしての配慮だった。
だが、その言葉の一言一言が、悠人の首を絞めていく。
「違う……俺は……」
言いかけた悠人の言葉を、里奈は優しく遮った。
「大丈夫、何も言わなくていいよ。さ、一緒に学校行こ? 手、つないであげるから」
里奈の手が、悠人の小さく冷え切った手を力強く握りしめた。
振り払おうとしたが、少女の身体の筋力では、里奈の握力すら外すことができなかった。
爪先から伝わる冷たさと、里奈の手の温もりが混ざり合い、気持ちの悪い悪寒が背筋を走る。
大人の男としての自尊心は、この小さな街の、善意に満ちた中学生の輪の中に完全に組み込まれ、押し潰されようとしていた。
道には雪が深く積もっていた。
振り返ると、悠人の身体をした美咲が残していった大きな靴底の足跡と、自分が残した不格好で小さな足跡が並んでいる。
美咲の足跡はまっすぐに未来へ向かって伸びており、悠人の足跡は浅く、今にも雪に埋もれそうだった。
悠人は里奈に手を引かれながら、歩き出すしかなかった。
一歩踏み出すたびに、薄い靴底を通して氷の冷たさが足裏を刺す。
自分の未来が、この冷たい雪の下に完全に埋もれてしまったことを、悠人は嫌というほど理解させられていた。
寒さに震える肩を小さくすくめながら、悠人はただ黙って、白く霞む通学路を歩き続けた。

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