喉の奥でつっかえる低い声を出そうとしたが、吐き出されたのは湿った高い呼気だった。
鏡の中には、帯で強く締め上げられ、丸みを帯びた肩をすぼめた見知らぬ女が立っている。
肋骨を圧迫する和装の硬い締付けと、胸元の重みが、僕の存在を冷たく否定していた。

「悠人さんが帰ってこられたら、きっと驚かれますよ」
講師はにこやかに笑いながら、帯揚げの結び目を整えた。
悠人。
それは僕の名前だ。
今年で二十八になる僕自身が、悠人のはずだった。
なのに、なぜ僕は、和服を着せられた二十七の美咲の身体の中にいるのか。
すれ違う人々は、和装の女性が乱れた足取りで歩いているのを、遠慮がちな目で見ている。
誰も僕を「悠人」として見ようとしない。
その時、向かい側から歩いてくる男の姿が目に入った。
安物のグレーのスラックス、少し猫背気味の広い肩、慣れた足取り。
僕だ。
間違いない、鏡で見慣れた二十八の僕自身の肉体だった。
「美咲……なのか?」
僕の声は美咲の喉を経由し、湿った問いかけとなって空気に溶けた。
「探さなくていいよ」
僕の口から、僕の声で、男が静かに言った。
「もうあの部屋には、誰も帰ってこないから」
「何を言ってるんだ! 僕はここだ! なぜ僕の体に――」
「君はもう、その重さの中で生きていくしかないんだ」
男はそれだけ言うと、僕の横をすり抜けて歩き出した。
振り返ることもなく、雑踏の中へ消えていく。
僕は震える手で、帯の隙間に押し込まれていた美咲のバッグを探った。
スマートフォンを取り出す。
「高橋か! 僕だ、悠人だ! 今、大変なことが起きていて――」
「……ええと、どちら様でしょうか」
同僚の声は冷ややかで、警戒を含んでいた。
「悠人だよ! 出張中の! 空港に行く途中で事故に――いや、とにかく僕だ!」
「あの、どちらの美咲様ですか?」
「違う! 連絡が取れないんじゃない、僕が本人なんだ! 声が違うのはわかる、でも僕の社員番号は――」
「失礼します」
プチッと無情な切断音が響いた。
美咲のスマホの画面ロックは、彼女の顔認証で簡単に解除された。
しかし、僕の会社の社内ポータルにアクセスしようとしても、指紋認証は弾かれ、二段階認証コードは僕の持っていない元の端末へと送信された。
公的なシステムは、僕の精神を認識しない。
翌朝、悠人は美咲の勤務先へ向かった。
部屋に残れば、結婚準備のノートや衣服が、彼を別人の生活へ押し込んでくる。
会社なら、少なくとも仕事という共通の物差しがある。
朝の電車では、つり革を握る腕がすぐに疲れた。揺れるたびに踵が浮き、胸元と鞄が別々の方向へ引かれた。

美咲の会社は、産業資材を扱う中堅の専門商社だった。
入館証は美咲の顔で開き、端末も美咲の指で立ち上がった。
悠人(ゆうと)/28歳
海外事業部で働く、美咲の婚約者。仕事への責任感が強く、数字の分析や業務改善を得意とする一方、成果を急いで自分の身体を顧みないところがある。東南アジアへの出張中、突然、美咲の身体で目を覚ます。姿も声も変わり、自分の名前すら通用しなくなった現実に戸惑うが、彼女の職場で仕事の腕を発揮することで、自分を支えようとする。他人の名前で認められる喜びと、その喜びを受け取ることへの不安の間で揺れている。
美咲(みさき)/27歳
悠人と結婚を控えた、産業資材を扱う中堅専門商社の会社員。海外から戻る悠人との両親への挨拶を前に、和装の準備をしていた。悠人が突然その身体で目覚めたことで、彼女の住まいや職場、人間関係は、彼にとって見知らぬ日常となる。身近な婚約者でありながら、仕事ぶりや身体の調子など、悠人が知らなかったことは多い。序盤では本人の心の所在が分からず、残された暮らしを通して、その存在が浮かび上がる。
里奈(りな)
美咲の友人。悠人とは別の立場から、美咲の日常を知る人物。悠人が十分には知らなかった、彼女自身の交友関係を象徴する存在でもある。美咲の姿で暮らすことになった悠人にとって、里奈との関係は、婚約者だからといって彼女のすべてを知っていたわけではないと気づかされる、もう一つの接点となる。
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6話:脱ぎ捨てられない皮膚 になります
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