目を覚ました瞬間、悠人は自分の意識が隣人・美咲の身体へ入れ替わっていると悟った。胸に乗る重みで呼吸が浅くなり、腰から下の重心が寝具へ沈んでいた。男だった自分の声を出そうとしても、喉からは湿った細い息しか漏れなかった。
悠人は重い腰を浮かせ、這いずるようにして洗面台へと向かった。
洗面台の前に立ち、恐る恐る顔を上げた。
鏡の中に映っていたのは、首から下が紛れもない「成熟した女性の肉体」だった。
黒いフリルの上着の胸元には、悠人の身体にはなかった豊かな膨らみが収まっている。
そして、その首の上には。

「……」
声にならなかった。
顔が、なかった。
目も、鼻も、口も、眉も、何もなかった。
そこにあるのは、額から顎にかけて、ただ滑らかな肉色の皮膚が一面に広がっているだけの、のっぺりとした球体だった。
それなのに、曇った鏡の奥にいる女には、顔があった。
柔らかく整えられた茶色の髪。疲労を隠すように薄く化粧した目元。かすかに笑みを含んだ唇。
数日前に見た、板橋美咲の顔だった。
悠人が洗面台に両手をついているのに、鏡の中の美咲は右手を頬へ添えていた。動きが一致していない。
悠人は美咲のクローゼットを開けた。そこには、男物の服など一着もなかった。
並んでいるのは、同じ型の黒い上着、白いフリルの替え、黒いレースの重なった短いボトム、そして白いレース留めのついたオーバーニーソックスばかりだった。
自己主張の強い服でありながら、選択肢は一つしかない。美咲は毎朝、同じ輪郭を身体に取り付けることで、辛うじて自分を見失わずにいたのだ。
床に転がっていた美咲のスマートフォンが、突然、短いバイブレーション音を立てて震え出した。
自分の携帯番号からの着信だった。
「……もしもし」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、紛れもない、悠人自身の声だった。
「もしもし。聞こえているんでしょう、美咲さん」
「……あ、あ」
悠人は必死に声を絞り出そうとした。
「あなたの声は、もう届きにくい。顔のない人間の名前を、誰も確かめようとしないから。でも、あなたは私より几帳面で、我慢強いでしょう。その身体の生活を、きっと私より壊さずに続けられる」
「その身体は、あなたに任せるわ。私はもう、自分の顔を探すのに疲れたの。毎朝同じ服を着て、フリルの位置を確かめて、ようやく自分だと思い込む生活にもね」
「心配しないで。必要な手続きは、こちらでしておくから。私を、もう探さないで」
ブツリ、と無機質な電子音が響き、通話が切れた。
背後から、階段を上ってくる足音が聞こえた。
階段から現れたのは、新聞配達の男だった。
男は黒と白のフリルへ顔のない頭部を向け、歩みをわずかに緩めた。
「板橋さん、今日は遅いんですね」
彼は顔ではなく、この服を見て美咲だと判断したのだ。
男の顔を見た瞬間、悠人は喉の奥でひゅっと息を呑んだ。
新聞配達の男にも、顔がなかった。

悠人(ゆうと)
ある朝、隣人・板橋美咲の身体で目を覚ました男。年齢や職業は不明。慣れない女性の身体に戸惑いながら洗面台へ向かい、自分の顔から目も鼻も口も消えていることを知る。
一方、鏡の中には美咲の顔が残っており、悠人とは異なる動きを見せる。自分の身体も、目に映るものも信用できない状況で、声すら満足に出せず、助けを求める手段を失っていく。
美咲からは「几帳面で、我慢強い」と評され、その性格を理由に、彼女が耐えきれなくなった生活を一方的に託される。しかし、それは悠人自身が望んだ役割ではない。元の身体と声を持つ美咲に連絡を断たれ、黒と白のフリルを目印に「板橋さん」と呼ばれる暮らしへ置き去りにされる。
やがて、新聞配達の男にも顔がないことに気づく。異変が自分一人の身体に収まらないと知った彼は、顔も声も自分を証明してくれない世界で、悠人であり続ける手がかりを探すことになる。
板橋 美咲(いたばし みさき)
悠人の隣人であり、彼に自分の身体と生活を残して去った女性。年齢や職業は不明。悠人の記憶では、柔らかく整えた茶色の髪と、疲れを隠すような薄い化粧、かすかな笑みを持つ人物だった。
自分の顔を見失う日々に疲れ果て、毎朝同じ服を着て、フリルの位置を確かめることで、辛うじて自分を保っていた。クローゼットに並ぶ黒い上着や白いフリル、レースの衣服は、彼女にとって自分が誰なのかを確かめるための拠り所だった。
交換後は悠人の身体と声を使い、電話越しに別れを告げる。悠人なら自分よりうまく生活を続けられると語る口調には、相手への期待と、自分の苦しみを引き受けてほしいという身勝手さが重なっている。必要な手続きをすると申し出ても、彼の意思を確かめることはない。
苦しみから逃れようとする切実さと、その代償を他人に負わせる冷酷さを併せ持つ人物。身体交換の仕組みや、鏡の中に残る美咲の正体、周囲の人々まで顔を失っている理由は、まだ明かされていない。
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5話:顔のない女――黒いフリルだけが、私の輪郭だった になります。
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