病弱な青年と人妻が入れ替わり、振袖が脱げなくなった

生まれつき心臓と肺に重い障害があり、大学へ合格しても一度も教室へ行けなかった。入学案内の封筒はベッド脇の引き出しにしまわれたまま、休学届だけが更新されている。

病室の戸口で、本田美咲が笑った。

三十八歳。病院の近くで着付け教室を営み、月に二度、患者向けの季節行事を手伝っている。悠人が十歳の頃から顔を合わせてきた、友人というより年の離れた案内人のような人だった。

その日の美咲は、白から桃色へ染まる桜柄の振袖を着ていた。古い着物だった。美咲の祖母はそれを「花衣」と呼び、強い願いを受け取る衣だと言ったらしい。

「一度でいいから、あの桜の下まで歩きたかった」

声にすると、願いは思ったより幼かった。

美咲は笑わなかった。

「そうだね。代わってあげられたらいいのに」

その言葉と同時に、窓の隙間から一枚の花びらが入った。

花びらは振袖の袖へ落ち、布の上で淡く光った。

美咲が驚いて立ち上がり、悠人の手へ触れる。

次の瞬間、心電図の音が遠ざかった。

重力が横へずれ、胸の奥を締めつけていた苦しさが突然消えた。代わりに、帯の圧迫、膝へ当たる硬い床、長い袖の重みが一度に押し寄せる。

悠人は床へ手をついていた。

指が長い。爪は薄い桃色に整えられ、左手には結婚指輪がある。胸の前には赤い帯。視界の端で、白と桃色の袖が広がっていた。

ベッドの上では、悠人の身体が酸素マスクを掴んでいる。

「苦しい……なに、これ……」

そこから出たのは、悠人の声だった。

しかし目の動きは美咲だった。彼女は自分の胸を押さえ、初めて流れ込む慢性的な酸欠に怯えていた。

「美咲さん?」

床の悠人が呼ぶ。

ベッドの美咲は答えようとしたが、モニターが警告音を鳴らした。心拍が乱れ、酸素飽和度の数字が落ちる。

看護師たちが駆け込んできた。

「本田さん、下がってください!」

悠人は壁際へ押しやられた。

医師はベッドの身体だけを見る。当然だった。病院の記録では、死にかけているほうが悠人で、振袖姿で泣いているほうは見舞客の美咲だ。

「そこにいるのは美咲さんです。僕が悠人です」

看護師はショックで混乱していると思い、椅子へ座らせた。

帯を緩めようとした看護師の指が、結び目で止まった。帯締めは普通に見えるのに、端がどこにもない。布を切ろうと鋏を入れても、刃が滑って傷一つつかなかった。

「何、これ……」

花衣は、交換が起きたことを知っていた。

帯の内側へ手も入るし、袖から腕も抜ける。だが脱ごうとすると呼吸が詰まり、視界が暗くなる。悠人の病弱な身体で長年感じていた苦しさが、美咲の健康な胸へ戻ってくる。

衣が、二つの魂を固定している。

美咲の夫・聡が病院へ着いたとき、悠人は待合室で振袖のまま座っていた。

「美咲」

聡が呼んだ。

悠人は顔を上げた。

「僕は美咲さんじゃない。悠人です」

聡の表情が硬くなった。

「いまは混乱してる。家へ帰ろう」

「美咲さんは、紡ちゃんが弁当に入れた卵焼きを楽しみにしていました。あなたは花粉症なのに庭の席を予約した」

それだけでは証拠にならない。病室で聞いた話だ。

悠人(ゆうと)
生まれつき心臓と肺に重い障害があり、病室で長い時間を過ごしてきた青年。大学に合格しても通学はかなわず、入学案内を引き出しにしまったまま、休学を続けている。

「一度でいいから、あの桜の下まで歩きたかった」。そのささやかな願いと、美咲の「代わってあげられたら」という言葉に、桜柄の振袖「花衣」が反応。十歳の頃から親しくしてきた本田美咲と、思いがけず身体が入れ替わってしまう。

三十八歳の女性の身体で初めて苦しさのない呼吸を得る一方、自分の身体に入った美咲が命の危機に陥る場面を目の当たりにする。事情を訴えても、周囲には動揺した見舞客として扱われ、自分が悠人であることすら認めてもらえない。

交換を固定する花衣は脱ぐことができず、脱ごうとすれば元の身体と同じ呼吸の苦しさに襲われる。歩ける身体を得た喜びを確かめる間もなく、美咲の安否と、彼女の人生をどう守るかに向き合うことになる。

本田 美咲(ほんだ みさき)
病院の近くで着付け教室を営む、三十八歳の女性。月に二度、患者向けの季節行事を手伝っており、悠人とは彼が十歳の頃からの付き合い。病室の外の季節や暮らしを届けてくれる、年の離れた案内人のような存在。

悠人の願いを幼いものとして笑わず、「代わってあげられたらいいのに」と受け止める優しさを持つ。その言葉が、祖母から「強い願いを受け取る衣」と聞かされていた古い振袖の力を呼び起こしてしまう。

悠人の身体へ移った直後、初めて経験する慢性的な酸欠に怯え、容体が悪化する。長年そばで見守ってきた彼の苦しみを、自分の身体の感覚として知ることになるが、事情を説明する余裕さえ奪われている。

夫の聡がおり、紡が弁当に入れた卵焼きを楽しみにするなど、病院の外には大切な日常がある。相手を思いやった一言によって、その暮らしから突然切り離された人物。本人の意思を確かめられないまま、彼女の身体も家族との関係も、悠人に託される形となっている。

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4話:花衣に残された名前 になります

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