灰色の顔、借り物の人生
紙は肌より冷たい。
毎朝、頬に貼り付けるたび、呼吸が一度だけ浅くなる。
それでも、素顔を晒すよりはましだった。
灰色の画用紙を十五センチ四方に切る。
四隅を少し丸める。
鏡の前で位置を合わせ、両面テープを鼻筋と頬に貼る。
紙は表情を隠してくれる。
笑っても。
泣いても。
怒っても。
誰にも分からない。
悠人はその感覚だけを頼りに制服へ袖を通した。
鏡には制服姿の高校生が映っている。
白いシャツ。
紺色のブレザー。
少し癖のある黒髪。
その中央だけが、四角い灰色になっていた。
母はもう何も言わない。
「行ってらっしゃい。」
朝食を片付けながら、それだけを言う。
「うん。」
悠人も短く返す。
紙を貼り始めた最初の頃は泣いて止めていた。
「そんなことしたら余計目立つ。」
「どうして普通にできないの。」
「病院へ行こう。」
どれも間違っていなかった。
だから説明をやめた。
自分の顔が嫌いだ。
その一言では、誰も納得してくれなかったからだ。
駅まで歩く。
ガラスに映る自分を見る。
灰色の四角。
誰が見ても変だ。
でも、その下にある顔よりはずっとまともだと思えた。
学校へ着くと、生徒たちはいつものように視線を向ける。
「おはよう、紙男。」
誰かが笑う。
返事はしない。
教室へ入る。
席は一番後ろの窓際だった。
教師が出席を取る。
「佐伯悠人。」
「はい。」
紙の向こうから声だけが返る。
教師は一瞬だけ眉を寄せる。
それ以上は何も言わない。
一年の頃は毎日のように注意された。
「外しなさい。」
「校則違反だ。」
「みんなと同じ格好をしなさい。」
悠人は外さなかった。
職員室へ呼ばれた。
保護者も呼ばれた。
スクールカウンセラーとも話した。
結局、何も変わらなかった。
教師たちは諦めた。
紙を貼った生徒。
そういう存在として処理された。
授業は頭に入らない。
黒板の文字を写す。
ノートを閉じる。
時間だけが過ぎる。
昼休みになると教室は騒がしくなる。
誰も悠人の机には近寄らない。
最初は興味本位で話しかける者もいた。
「その紙どうやって貼ってるの。」
「暑くないの。」
「素顔見せてよ。」
質問はすぐ飽きられた。
残ったのは無関心だった。
無関心は楽だった。
いじめられるより静かだった。
昼食を終えると悠人は教室を出る。
向かう場所は一つしかない。
図書室。
昼休みでも静かで、本の匂いしかしない場所。
扉を開けると、司書が軽く会釈した。
「こんにちは。」
「こんにちは。」
司書は紙について聞かなかった。
それだけで十分だった。
悠人はいつもの窓際へ座る。
棚からファンタジー小説を一冊取る。
本を開く。
数ページ読めば学校は消える。
教室も。
教師も。
笑い声も。
全部、紙より向こう側へ遠ざかる。
本の中では顔は関係ない。
勇者も。
魔法使いも。
探偵も。
名前で呼ばれる。
役割で生きる。
悠人はその世界が好きだった。
そして、本を読むだけではなく描くことも好きだった。
誰にも見せないノート。
厚手のスケッチブック。
放課後になると、家へ帰って机へ向かう。
人物を描く。
街を描く。
空想の城を描く。
女の子も男も老人も子供も描く。
けれど、自分だけは描かなかった。
自分の顔を描こうとすると鉛筆が止まる。
線が歪む。
紙を丸めて捨てる。
何枚描いても同じだった。
だから、空想の人物だけを描き続けた。
誰にも見せないはずだった。
インターネットにも投稿しない。
学校へ持って行くこともない。
机の引き出しへしまい、鍵をかける。
唯一、自分だけが知る世界だった。
その日も放課後、悠人は図書室へ向かった。
返却期限の近い本を返し、新しい本を借りるためだった。
窓から夕日が差し込んでいる。
閲覧席には誰もいない。
静かな時間だった。
いつもの席へ近づいた悠人は、足を止めた。
机の上に、一枚の紙が置かれていた。
見覚えのある線。
見覚えのある塗り方。
震える手で持ち上げる。
それは、自分が描いたイラストだった。
誰にも見せたことのないはずの、一枚だった。
放課後を知らせるチャイムが鳴る。
椅子を引く音が教室へ広がる。
部活動へ急ぐ者。
友人と笑いながら帰る者。
誰も悠人を気に留めない。
それがいつもの放課後だった。
鞄の中では、一枚の手紙だけが重かった。
行かなければ。
行けば終わる。
その二つの考えが何度も入れ替わる。
教室を出ても足は自然と図書室へ向かっていた。
廊下の窓から差し込む夕日が床を赤く染める。
階段を上る。
一段ごとに胸が苦しくなる。
途中で引き返そうと思った。
あと何度思ったか分からない。
それでも図書室の扉は目の前まで近付いてきた。
静かに開ける。
室内には数人しかいない。
参考書を広げる三年生。
新聞を読む教師。
そして窓際の席。
そこに、美咲が座っていた。
本を閉じる。
悠人へ気付く。
立ち上がる。
「来てくれた。」
その一言だけだった。
嬉しそうでも。
驚いた様子でもない。
本当に来ると思って待っていた人の声だった。
悠人は何も答えられない。
紙の向こうで唇だけが動く。
「……。」
声にならない。
「座ってもいい?」
美咲が向かいの椅子を指した。
悠人は小さく頷く。
椅子を引く音だけが静かな図書室へ響いた。
しばらく沈黙が続く。
美咲は急かさない。
机の上へ一冊の本を置いた。
表紙には悠人が好きな作家の名前がある。
「この人の本、好きなんだよね。」
悠人は思わず顔を上げた。
「……知ってるの?」
「貸出カードを見たから。」
少しだけ申し訳なさそうに笑う。
「ごめん。」
責める気持ちは起きなかった。
図書室では貸出履歴が偶然見えてしまうこともある。
それだけの話だった。
「絵も、この人の影響なのかなって思って。」
悠人の肩が震える。
絵の話をされるだけで逃げ出したくなる。
「どうして……。」
やっと言葉が出た。
「どうして、俺だって分かったの。」
美咲は少しだけ考えてから答えた。
「返却された本に挟まってた。」
「たぶん、しおり代わりだったんだと思う。」
「裏に小さくYって書いてあった。」
悠人は思い出す。
自分の絵には誰にも分からないように、小さく頭文字だけを書いていた。
「最初は偶然だと思った。」
「でも。」
「授業中にノートへ絵を描いてるの、一度だけ見たことがあって。」
そんなことがあっただろうか。
記憶の底を探る。
数学の時間だった。
黒板を見ないようにして、人物の横顔だけを描いていた。
誰にも見られていないと思っていた。
美咲は見ていたのだ。
「ごめんね。」
「勝手に見ちゃって。」
「でも、本当に素敵だった。」
その言葉が信じられなかった。
素敵。
自分の人生で向けられたことのない言葉だった。
「俺は……。」
喉が詰まる。
「そんな……。」
続かない。
美咲は視線を紙のマスクへ向けた。
じっと見つめる。
好奇心ではない。
心配でもない。
理解しようとする目だった。
「一つだけ聞いてもいい?」
悠人は黙ったまま頷く。
「苦しくない?」
予想していた質問とは違った。
「暑くない?」
「邪魔じゃない?」
「何で付けてるの?」
そう聞かれると思っていた。
でも違った。
苦しくない?
それだけだった。
悠人は初めて言葉を探した。
「……苦しい。」
声が震える。
「でも。」
「外す方が、もっと苦しい。」
美咲は何も言わない。
静かに聞いている。
「この顔。」
「嫌いなんだ。」
紙越しでも分かるほど呼吸が乱れる。
「鏡を見るのも嫌。」
「人に見られるのも嫌。」
「だから。」
紙を指先で押さえる。
「これを付けてる。」
図書室は静かだった。
時計だけが秒を刻む。
美咲はしばらく考えてから言った。
「私は。」
「その下の顔を見たいんじゃない。」
悠人は顔を上げる。
「あなた自身を見たい。」
胸の奥で何かが音を立てた。
「絵を描く人が。」
「どんなふうに笑うのか。」
「どんな声で話すのか。」
「知りたいだけ。」
その言葉は優しかった。
優しすぎた。
だから怖かった。
もし紙を剥がして。
失望されたら。
その瞬間、今聞いた言葉は全部消えてしまう。
「無理。」
悠人は小さく呟く。
「今は無理。」
「……そっか。」
美咲は責めなかった。
「じゃあ。」
「待つ。」
「いつか、自分で決められる日まで。」
待つ。
その言葉だけが胸へ残る。
誰も待ってくれたことなどなかった。
教師は直せと言った。
親は外せと言った。
同級生は笑った。
美咲だけが待つと言った。
悠人はゆっくり紙の端へ手を伸ばす。
ほんの少しだけ。
ほんの数ミリだけ浮かせる。
冷たい空気が頬へ触れる。
肌が震える。
美咲は目を逸らさない。
怖くない。
そう言うように。
悠人は深く息を吸った。
「……見る?」
その瞬間だった。
図書室の照明が一斉に消えた。
停電。
館内が暗闇に包まれる。
誰かが驚いた声を上げる。
窓の外では雷鳴が響いた。
白い閃光が室内を照らす。
眩しさに目を閉じる。
耳鳴りがする。
床が揺れたような感覚。
身体が一瞬だけ宙へ浮いた気がした。
誰かが自分の名前を呼ぶ。
「悠人!」
それは美咲の声だった。
返事をしようとしても声が出ない。
意識が深い水の底へ沈んでいく。
最後に感じたのは。
自分の頬へ触れていた紙が、静かに剥がれ落ちる感触だった。
――目を開ける。
視界が低い。
いや。
違う。
胸元が重い。
肩へ流れる長い髪が首筋へ触れている。
制服の胸が苦しいほど張っている。
スカートの裾から伸びた黒いタイツの脚が、自分のものとは思えない角度で揃っていた。
震える指先で頬へ触れる。
そこに灰色の紙はない。
代わりに、柔らかな髪が指へ絡んだ。
目の前の窓ガラスへ映っていたのは。
さっきまで向かい側へ座っていた、美咲の顔だった。



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