オカルト少女とサラリーマンが入れ替わり、互いの生活を失う

ただの枯れ木に呪文を

視界の高さが数十センチメートル削り取られ、いつも見上げていたはずの自室の天井が、酷く遠い。

寝返りを打とうとした瞬間、骨盤の幅が狭まり、胸元に覚えたことのない頼りない「重み」が擦れて、皮膚が悲鳴を上げた。

自分のものだったはずの太く硬い指先はどこにもなく、視界に飛び込んできたのは、驚くほど薄く、小さな十本の指だった。


​​カーテンの隙間から差し込む朝光は、いつもよりやけに眩しく、そして低い位置にあるように感じられた。

​水谷悠人(みずたに ゆうと)は、猛烈な頭痛とともに意識を浮上させた。

昨晩、顧客との接待の後に立ち寄った、あの奇妙な河原の記憶が霞のように脳裏をかすめる。

何か、古びた木切れのようなものを拾った気がする。

だが、そんな思考は、身体を動かそうとした瞬間に霧散した。

​「――っ?」

​声にならなかった。

喉の奥から漏れたのは、ひどく頼りない、空気が抜けるような高音の吐息だった。

寝返りを打とうとした身体が、自分の意図したタイミングよりも遥かに早く、軽々と転がる。

いや、転がったというより、質量を失って投げ出されたような感覚だった。

​敷布団ではない。身体の下にあるのは、妙にスプリングのへたった安価なベッドの感触。

そして、視界に飛び込んできたのは、見慣れた1LDKのマンションの天井ではなく、淡いピンク色の壁紙と、アイドルのものらしきポスターが貼られた、狭苦しい子供部屋だった。

​「な、に、これ……」

​今度は掠れた声が出た。

鈴を転がすような、しかしひどく怯えた少女の声。

悠人は戦慄しながら、自分の手を顔の前に突き出した。

そこに固着していたのは、男の無骨な皮膚ではない。

日焼けもせず、血管も浮き出ていない、驚くほど薄く、小さな十本の指だった。

爪は丸く整えられ、指先はかすかに震えている。

​パニックに突き動かされるようにして、ベッドから足を下ろそうとした。

その瞬間、床に足がついた感覚がうまく脳に伝わらず、悠人は派手に床へ転がり落ちた。

​「痛っ……!」

​床に強打した膝の痛みが、これが夢ではないことを冷酷に告げていた。

信じられないほど身体が軽い。

いや、軽いのではない。

「芯」がないのだ。

上半身を支えるための背筋も、地面を掴むための足の裏の肉厚さも、すべてが数十パーセントずつ削ぎ落とされたかのような、圧倒的な無力感。

何より、立ち上がろうと前傾姿勢になったとき、胸元に奇妙な重みを感じた。

衣服が擦れ、硬く尖った先端が擦れるたびに、脳の裏側を直接触られるような、不快で、ぞっとするような神経の疼きが走る。

​這い上がるようにして、部屋の隅にある姿見の前に立った。

​鏡の中にいたのは、見知らぬ少女だった。

肩にかかる程度の黒髪。

幼さの残る丸顔。

そして、着古された、しかし不自然なほど白い、レースのあしらわれたワンピース。

床には、昨晩背負っていたのだろうか、ファンシーなピンク色のリュックサックが転がっている。

​「これが……俺?」

​悠人は自分の顔(だったはずの場所)を触ろうとしたが、鏡の中の少女も全く同じ動作をした。

24歳、ハウスメーカーの営業マンとして、毎日泥のように働き、毎朝髭を剃っていたあの身体は、どこへ消えたのか。

​そのとき、少女の衣服のポケットの中で、電子音が鳴り響いた。

スマートフォンだ。

慣れない細い指で、画面をタップするのももどかしく通知を開く。

そこに表示されていたのは、悠人自身の端末から送られてきた、メッセージだった。

​『あなた、誰。どうして私が、男の身体になってるの』

​同じ時刻、街の反対側にある1LDKのマンションで、もう一つの絶望が産声を上げていた。

​「う、あ……」

​瀬尾美咲(せお みさき)は、あまりの身体の重さに、ベッドから起き上がることさえできなかった。

呼吸をするたびに、胸郭が大きく蛇腹のように広がる。

その皮膚の奥にある骨格が、筋肉が、あまりにも硬く、分厚い。

いつもなら、白いドレスの裾を翻して軽やかに起き上がれるはずだった。

しかし今の身体は、まるで濡れた砂袋を全身に巻き付けられているかのように重い。

​寝返りを打とうとすると、股の間に不快な、存在してはならないはずの肉の塊が挟まり、擦れる感覚があった。

美咲は悲鳴を上げようとしたが、口から出たのは「ウ、オ」という、地響きのような不気味な低音だった。

​「嘘、なにこれ、嫌だ!」

​自分の部屋ではない。

男の、それもタバコと加齢臭が混ざったような、油臭い匂いが充満する部屋。

這うようにして洗面所にたどり着き、鏡を見た美咲は、その場にへたり込んだ。

​鏡の前に立っていたのは、生気の薄い目をし、無精髭の生えかけた、見知らぬ大人の男だった。

肩幅が広すぎる。

クローゼットにかかっているスーツを着ようと袖を通したものの、布地が肩や背中に恐ろしい圧力で密着し、呼吸を阻害する。

男の服とは、これほどまでに人間を 縛り付けるものなのか。

​美咲は恐怖に震えながら、男のスマートフォンを操作した。

指が太く、画面のキーボードを押し間違えてばかりで、涙が溢れてくる。

だが、その涙を拭う自分の手のひらは、硬く、ガサガサとしていて、自分の顔を傷つけるのではないかと思うほど粗野だった。

​何とか探し出した「自分の番号」へ、メッセージを送る。

すぐに返信が来た。

​『俺もわからない。お前、昨日の河原にいた高校生か?』

​画面の向こうにいるのは、自分の身体に入った、この男の中身なのだ。

二人は互いに通話を試みようとした。

しかし、美咲(中身:悠人)がかけた電話に、悠人(中身:美咲)が出た瞬間、受話器から流れる互いの声の「異物感」に、どちらも言葉を失った。

​「もしもし……」

低く、濁った、大人の男の声。それが美咲の口から出た。

「あ、あの……」

細く、高く、震える少女の声。それが悠人の口から出た。

​お互いに、自分の本来の声が、他人の肉体から発せられる恐怖。

それは対話を拒絶させるのに十分な、生理的な嫌悪感を伴っていた。

​『とにかく、家を出ないと。学校がある』と、美咲(中身:悠人)はメッセージを打った。

『仕事がある』と、悠人(中身:美咲)は返した。

​だが、それは地獄への入り口に過ぎなかった。

​美咲の身体に入った悠人は、部屋のドアを開けることすら恐怖だった。

​「美咲ー? 朝ご飯できてるわよ。早くしなさい、遅れるわよ」

​階下から聞こえる、見知らぬ女性の声。美咲の母親だろう。

悠人にとって、それは完全に「他人の親」だ。

その他人が、自分のことを我が子として疑わずに待っている。

その空間に飛び込んでいくことが、どれほど恐ろしいか。

​階段を降りる足取りがおぼつかない。

階段の一段一段の段差が、男の身体のときよりも遥かに高く感じられる。

リビングに入ると、トーストと味噌汁の匂いが鼻をついた。

実家の匂いとも、自分のマンションの匂いとも違う、完全に他人の家庭の匂い。

​「何よ、その格好。またその白いワンピース? 学校の制服に着替えなさいって言ってるでしょ」

​母親が振り返り、美咲(中身:悠人)を見て眉をひそめた。

その視線が、刃物のように突き刺さる。

男性だった頃、実家の母親からこれほど執拗に衣服をチェックされた記憶はなかった。

「あ……うん」

喉を絞り出すようにして答える。

「何その返事。体調悪いの?」

母親が近づいてくる。

他人の大人の女性が、自分のパーソナルスペースに断りもなく踏み込んでくる恐怖に、悠人は思わず半歩身を引いた。

​「触らないで」と言いたかったが、そんな言葉を吐けば事態が余計に拗れるのは分かっていた。

悠人は無言で食卓につき、トーストを口に運んだ。

味がしない。

ただ、喉を通るパンの塊が、この小さな食道の幅に対して大きすぎるような錯覚を覚え、激しく咽せた。

​一方、悠人の身体に入った美咲もまた、限界を迎えていた。

​「おい、水谷。今日の営業会議の資料、まだ上がってないのか?」

​スマートフォンに鳴り響く、上司からの怒鳴り声。

美咲は受話器を耳に当てたまま、声も出せずに震えていた。

男の声を出そうとしても、頭の芯が拒絶する。

「すみ、ません……すぐ、やります」

低く掠れた声で何とか答えると、相手は「覇気のない声出すな!」と吐き捨てて電話を切った。

​美咲は、悠人のクローゼットから引っ張り出した、薄汚れたビジネスバッグを抱え、這うようにしてマンションを出た。

外の空気は冷たかったが、悠人の身体は妙に汗ばみやすく、脇のあたりがじっとりと濡れていくのが分かった。

男の身体は、油分の分泌量が多い。

自分の皮膚が、自分のものではない何かで汚染されていくような感覚。

​歩くたびに、革靴の硬い踵が路面を叩く。その衝撃が、ダイレクトに脳天へと響く。

「重い、重い、重い……」

美咲は心の中で泣き叫んでいた。

自分がかつて好んでいた、あの軽やかな白いドレスの世界は、この分厚いアスファルトとスーツの壁の向こうに、完全に隠されてしまったようだった。

駅のホームは、戦場だった。

​美咲の身体に入った悠人は、普段自分が使っていた通勤路線とは違う、通学路の各駅停車に乗り込んだ。

ドアが閉まった瞬間、周囲の「質量」に圧倒された。

​男性だった頃は、満員電車など「ただの日常の不快」でしかなかった。

しかし、150センチメートルそこそこしかない少女の身体にとって、周囲を囲むサラリーマンや乗客たちの体躯は、文字通りの「壁」であり「暴力」だった。

​吊り革に手が届かない。

腕を伸ばそうとすると、白いワンピースの肩口が突っ張り、胸元が圧迫される。

周囲の男たちの背中や肩が、自分の顔のすぐ近くにある。

彼らが放つ、煙草の臭い、整髪料の匂い、そして生々しい体臭が、低い視点にある悠人の鼻腔へ容赦なく流れ込んでくる。

​(怖い……)

​初めての感覚だった。物理的に押しつぶされるかもしれないという恐怖。

そのとき、電車の揺れで、背後にいた男の身体が美咲(中身:悠人)に押し付けられた。

男の硬いベルトのバックルか、あるいは衣服の塊が、臀部に触れる。

​男性だった頃の悠人なら、「混んでいるから仕方ない」と片付けた一幕だ。

しかし今、この小ぶりな身体でそれをやられると、背筋に冷水が走るような恐怖と、強烈な嫌悪感が這い上がってきた。

相手に悪意があるのか、ただ混雑しているだけなのか、判別がつかない。

ただ、自分の身体が、他者の意志によって簡単に蹂躇されうるほど「弱い」という事実が、爪を立てるようにして心を削っていく。

​同時に、悠人の身体に入った美咲もまた、別の満員電車の中にいた。

​美咲(中身)の視界は、いつもより遥かに高かった。

周囲の人間たちの頭頂部が見える。

だが、その視界の広さは、彼女に安心をもたらさなかった。

​周囲の乗客たちが、自分(悠人の身体)を見る目が冷たいのだ。

邪魔だ、と言わんばかりに肘で押される。

男性同士の、無言のポジション争い。

美咲はその荒々しい圧力に耐えかねて、すぐにバランスを崩しそうになった。

男の身体は質量がある分、一度重心が崩れると、立て直すのに凄まじい筋力を要する。

だが、中身の美咲には、その巨大な肉体をコントロールする術がない。

​「チッ、危ねえな」

​隣の男が舌打ちをした。

美咲は小さく悲鳴を上げ、身を縮こまらせた。

しかし、大柄な男の身体が身を縮こまらせる様は、周囲からは不気味に映るだけだった。

​「私は、ここにいない」

美咲は心の中で、かつて覚えたおまじないの言葉を唱えようとした。

『私は、魔法が大好き。私は、魔法を使える……』

​しかし、自分の喉から漏れたのは、「ウ、ウ」という、壊れた機械のような男の唸り声だけだった。

魔法の国も、自分の言葉で唱える呪文も、ここにはない。

あるのは、煤けたスーツの群れと、鉄の塊が軋む不快な金属音だけだった。

​二人は、それぞれの目的地へと向かう電車の座席で、あるいは吊り革の陰で、ただひたすらに、自分の身体の変貌という「現実の歪み」に、言葉もなく磨り潰されていた。

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