冷える肉、止まない雨
指先が、まるで死人のように冷え切っていた。
いくらきつく握りしめても、手のひらから熱が逃げていき、体温を保てない肉体の構造そのものに絶望する。
鏡の向こうで青ざめた顔をしている「美咲」は、かつて悠人が雨の日のキャンパスで見かけた、あのどこか浮世離れした女子大生の姿だった。
喉仏のあった場所に指を当てると、肉が薄く、ただ滑らかなだけで、自分の声の低さを支える骨組みが消えていた。
指先が、まるで死人のように冷え切っていた。いくらきつく握りしめても、手のひらから熱が逃げていき、体温を保てない肉体の構造そのものに絶望する。
鏡の向こうで青ざめた顔をしている「美咲」は、かつて悠人が雨の日のキャンパスで見かけた、あのどこか浮世離れした女子大生の姿だった。
六月、梅雨の最中だった。
大学生の悠人には、雨の日にだけ訪れる密かな、そしてひどく無機質な習慣があった。
大学の講義棟の裏手、古い渡り廊下に囲まれた、誰も足を向けない薄暗い中庭。
そこを三階の窓から見下ろすのが好きだった。
雨が降る日、そこにはいつも一人の女子大生がいた。
名前は美咲。同じ学部だが、一度も言葉を交わしたことはない。
彼女はいつも、骨組みの歪んだ安物のビニール傘を深くかぶるようにして差し、顔を完全に隠していた。
そして、誰もいない中庭で、泥水が跳ねるのも厭わずに、奇妙な足取りで踊っていた。
水たまりにわざと飛び込み、雨粒に顔を打たせるように首を振る。
その動きは滑稽でもあり、同時に、恐ろしいほど純粋な美しさを孕んでいた。
悠人は彼女に恋をしていたわけではない。
ただ、雨の音に身を委ね、世界から自分の存在を消し去ろうとするかのようなその歪な営みに、どうしようもなく目を奪われていた。
彼女が自分の顔を忌むべきものとして隠していること、その傘の裏側に張り付いた深い孤独に、気づいていながらも触れられずにいた。
あの日も、バケツをひっくり返したような豪雨だった。
夕方、照明の落ちかけた中庭で、彼女の足元がふらついた。
いつもより明らかに精彩を欠いた動きで、泥の中に膝を突きそうになる。
それを見た悠人は、衝動的に階段を駆け下りていた。
「おい、大丈夫か」
ビニール傘の縁から滴る激しい雨の向こう、初めて間近で見る彼女の肌は、驚くほど白く、そして生気がなかった。
悠人が差し伸べた手が、彼女の細い手首に触れた。
その瞬間、心臓が跳ね上がるような冷たさが指先から脳髄へと駆け抜けた。
それは人間の体温ではなかった。
氷の塊に触れたかのような、絶対的な拒絶の冷たさ。
彼女の身体が崩れるように悠人の胸に飛び込んできた。
同時に、視界が激しく明滅し、耳元で鳴り響いていた雨の音が、すべての音域を失って完全な静寂へと変わった。
遠くで、自分のものだったはずの、低い悲鳴が聞こえた気がした。
――次に意識が戻ったとき、鼓膜を震わせたのは、天井の換気扇が回る低い金属音だった。
悠人は起き上がろうとした。
しかし、自分の身体の重さとバランスが劇的に変化していることに、筋肉が即座にパニックを起こした。
畳の上に手をつこうとして、スカリと感覚がずれる。
骨盤の位置が低く、横に広い。
上半身を持ち上げるだけで、背中から腰にかけて妙な気だるさが走った。
「な、んだ、これ」
声を出そうとして、息が詰まった。
喉の奥から出たのは、掠れた、しかし明らかに高音の、他人の割り込むような声だった。
手を見る。節くれ立っていた自分の指先は消え、爪の形が整った、肉の薄い細い手がそこにあった。
そして何より、手のひらから指先にかけて、恐ろしいほどの寒気がまとわりついている。
部屋の中は、特段冷房が強いわけではなかった。
にもかかわらず、足の指先からふくらはぎ、そして手の平にかけて、血液が全く通っていないかのように冷え切っている。
いくら手を擦り合わせても、内側から熱が湧いてこない。
男性だった頃には経験したことのない、芯から凍りつくような肉体の不快感。
血巡りの悪さが、ダイレクトに精神の自由を奪っていくのが分かった。
這うようにして、ワンルームの狭い部屋の隅にある姿見の前へと移動する。
鏡の中にいたのは、悠人ではなかった。
濡れた黒髪が肩に張り付き、唇の血色が完全に失われた、あの雨の中庭の女子大生――美咲の姿だった。
「嘘だろ」
声は美咲のものだった。
しかし、その内側で思考しているのは、間違いなく二十歳の男である悠人だった。
パニックに駆られ、服の上から自分の身体を確かめる。
胸元には、自らの内臓の一部のような二つの膨らみが、頼りなく垂れ下がっていた。
それは性的な興奮を誘うような代物では断じてなく、ただ呼吸を圧迫し、寝返りを打つだけで肋骨を圧迫する「邪魔な肉塊」でしかなかった。
下腹部には、鈍い、引っ掻かれるような微かな痛みが停滞している。
部屋を見渡す。
そこは、生活感というよりも、生存のための最低限の物品だけが配置された無機質な空間だった。
机の上には、いくつかの精神安定剤の殻、そして顔を隠すための深い帽子や、何本ものビニール傘が転がっている。
クローゼットを開けると、女子大生らしい華やかな服はほとんどなく、冷え性を隠すための厚手のタイツ、目の詰まった長袖、首元まで隠れるタートルネックばかりが不自然に並んでいた。
窓の外では、まだ雨が激しくアスファルトを叩いている。
悠人は自分のスマートフォンを探そうとしたが、美咲の机の上にある見慣れない白い端末が目に留まった。
画面を点けると、ロックはかかっておらず、大学のポータルサイトの画面が開かれていた。
そこには「教育学部二年中村美咲」の文字。
その時、端末が短く震えた。メッセージアプリの通知だった。
画面に表示されたのは【里奈】という名前。
『美咲、今日の熱力学のレポート、出した?体調悪いって言ってたけど大丈夫?』
画面を見つめたまま、悠人は指を動かすことができなかった。
指先が冷えすぎて、画面のタッチセンサーがうまく反応しない。
何度も指の腹を押し付け、ようやく文字を入力しようとしたが、自分が「美咲として」どんな口調で話せばいいのか、何一つ知らなかった。
助けを求めなければならない。
自分のアパートに戻り、自分の身体を探さなければならない。
悠人は美咲のクローゼットから、一番厚手のパーカーを引っ張り出し、頭から被った。
冷え切った身体に布地が触れるが、布そのものが冷たく感じられ、鳥肌が立つ。
玄関に向かい、重いドアを開けようとした瞬間、全身の力がふっと抜けるような、強烈な立ち眩みに襲われた。
ドアノブを掴んだまま、ずるずるとへたり込む。
コンクリートの床から伝わる冷気が、容赦なく美咲の薄い皮膚を通して骨まで染み込んできた。
この身体は、あまりにも脆弱で、不自由で、冷たい。
悠人は自分の胸に手を当て、浅い呼吸を繰り返した。
そこにある心臓の鼓動は、確かに生きている人間のものだったが、彼にとっては、自分を閉じ込めるための精巧な監獄の足音にしか聞こえなかった。
外の雨音は、さらに激しさを増していく。
それはかつて悠人が美しいと感じた雨ではなく、ただ世界を冷やし、孤立させるための、容赦のないノイズだった。



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