肉の檻、重力の残響
カフェ「アロマ」の自動ドアが開くたびに、湿った空気と焙煎された豆の匂いが混ざり合い、店内に停滞した。
悠人はいつもの隅の席で、読みかけの文庫本に目を落としていた。
彼は自分の小柄な体格を、機能的で無駄のないものだと考えていた。
人混みを縫うように歩くのも、狭いアパートのキッチンで立ち回るのも、この「小ぶりな男の体」であればこそ、摩擦なくこなせていたのだ。
カウンターの向こう側では、美咲が忙しなく動いている。
ショートカットの毛先が、彼女の快活な動作に合わせて跳ねる。
悠人は、彼女と自分が似たようなサイズ感であることに、どこか無意識の連帯感を抱いていた。
同じくらいの歩幅で、同じくらいの視線の高さで、この街を歩いているはずだと。
その均衡が崩れたのは、閉店間際の、不注意な接触だった。
返却口にトレイを運ぼうとした悠人と、フロアを清掃しようと振り返った美咲。
肩と肩がぶつかり、中途半端に残ったカフェ・ラテが、二人の足元で茶色の染みを作った。
「あ、すみません」
「ごめんなさい、ぼーっとしてて」
同時に発せられた言葉が空中で溶け合う。
悠人が差し出したハンカチに、美咲の指先が触れた瞬間、視界が極彩色に明滅し、胃の奥から内臓を裏返されるような強烈な嘔気がこみ上げた。
……次に目覚めたとき、世界は「高く」なっていた。
いや、正確には「低く」なり、「重く」なっていた。
悠人は、自分の部屋とは違う、洗剤と安価な香水の匂いが混じった狭いワンルームのベッドにいた。
起き上がろうとして、まず自分の「腕」の白さに絶句した。
節くれだった自分の指ではない。
肉付きがよく、柔らかそうで、それでいて動かそうとすると粘りつくような重さを伴う。
鏡の前に立つ。
そこにいたのは、昨日までカフェのカウンター越しに見ていた美咲だった。
男のときも小柄だった。
だから、視線の高さ自体は数センチの誤差に過ぎないはずだった。
しかし、決定的に違うのは「重心」だ。
胸部にかかる、経験したことのない下方向への牽引力。
ブラジャーという名の布切れが、肋骨を執拗に締め付ける。
息を吸うたびに、肺が膨らむのを何かが物理的に阻害している。
Tシャツ一枚で過ごしていた昨日の自分には、こんな制約はなかった。
美咲の体は、悠人が想像していた「軽やかなショートカットの少女」ではなかった。
いざその内側に入ってみれば、それは肉の塊だった。
太ももの内側が歩くたびに擦れ、腰回りには男のときにはなかった鈍い重量感が居座っている。 悠人は震える手で、その「美咲であったもの」の腹部を触った。
薄い皮下脂肪の奥にある、内臓の蠢き。
男と同じ背丈、同じような体格だと思っていたのは、単なる外見上の錯覚だった。
骨盤の広さ、関節の可動域、そして重心が腰の低い位置に固定されている感覚。
一歩踏み出すたびに、上半身が揺れる。
その揺れを抑えるために、無意識に背中を丸め、歩幅を狭めなければならない。
自由だった「移動」という行為が、途端に「労働」へと変質した。
悠人は、昨日自分が貸したはずの、くたびれたハンカチが机の上に置かれているのを見つけた。
それは、この体がかつての「美咲」という人格の所有物であったことを冷徹に証明していた。
外に出なければならない。自分を探さなければならない。
しかし、美咲のクローゼットにある服は、どれも彼にとっての「拷問器具」に見えた。
肌を露出させるためのカット、体の線を強調するリブニット。
それらを身に纏うことは、単なる着替えではなく、この重たく湿った肉体を受け入れ、社会に「女性」として差し出す儀式のように感じられた。
カフェ「アロマ」へと向かう道中、悠人は何度も躓きそうになった。
アスファルトを蹴る感覚が、以前より遥かに頼りない。
筋力が足りないのではない。
地面からの反発が、肉の柔らかさに吸収されて霧散してしまうのだ。
道ゆく人々が、自分を見る。
かつての自分が、美咲に対して向けていたような、無機質な「観賞」の視線。
それを受けた瞬間、悠人の背筋に嫌な汗が流れた。
この肉体は、存在しているだけで何かを「期待」され、何かの「役割」を強制されている。 カフェの窓ガラスに映る自分を見る。
パーカーのフードで顔を隠した少女。
その瞳には、すでに「戻れない」ことを予感した絶望が、冷たい泥のように沈んでいた。
カフェの扉に手をかける。
中には、かつての「自分」の姿をした誰かが座っているはずだ。
だが、その扉の重さは、昨日の数倍にも感じられた。
これは単なる物理的な重さではない。
これから一生、この「重力に負け続ける肉体」を背負って生きていかなければならないという、不可逆な時間の重みだった。

ショートな女子でも、男よりはよっぽど多いですよね。
たまにうざったかったから、ショートのウィッグも持っていますが
やはり通常時よりも邪魔に感じる。。。
そして、男の感じを隠すのがかなり難しい。
女装でショート似合うのは多分かなり努力してる。
私は単に加工してるだけです。実物は自分で見てもちとキツイ。
次回:4/28 21:00更新




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