冬の気配を孕んだ冷たい風が、アパートの窓をガタガタと揺らしていた。
大学二年生の田中楓は、デスクライトの狭い照射範囲の中で、一冊の古い本と対峙していた。
その本は、神保町の路地裏にある、看板すら出ていない古本屋の奥で見つけたものだ。
埃を被り、革表紙は長年の歳月でひび割れ、奇妙な油のような臭いを放っていた。
『魂の転位と等価交換について』――その仰々しくも胡散臭いタイトルに、楓は抗いがたい運命のようなものを感じていた。
「……これなら、いけるかもしれない」
楓は震える指でページをめくった。
そこには、現代の科学では説明のつかない、生理的な嫌悪感を催すほど精緻な図解と、蠢くような文字が並んでいた。
彼には、誰にも言えない、そして墓場まで持っていくはずだった秘密がある。
それは「メイド服」に対する異常なまでの執着だ。
だが、それは単なるコスプレ趣味や女装癖ではない。
楓自身は、身長180センチ近く、水泳部で鍛えた肩幅の広い、どこからどう見ても「男」の骨格をしていた。
鏡を見るたびに、その骨太な骨格、節くれ立った指、うっすらと浮き出る髭の剃り跡に、彼は言いようのない疎外感を覚えていた。
彼が求めていたのは、メイド服を着ること自体ではない。
「メイド服が似合う、小さく、可憐で、守られるべき存在」として、その記号的な純潔さと奉仕の世界に、魂ごと溶け込むことだった。
男子大学生である田中楓がメイド服を着ても、そこにあるのは「女装をした男」というグロテスクな現実だけだ。
彼は、自分の肉体という檻に、二十年もの間閉じ込められていた。
ふと、階下から弾むような足音が聞こえてくる。
「兄さーん、お風呂先に入るよー!」
妹の結衣だ。高校三年生の彼女は、兄とは対照的に、小柄で、丸みを帯びた輪郭と大きな瞳を持ち、誰からも愛される「無敵の可愛さ」を体現していた。
そして彼女は、楓が焦がれてやまない駅前の人気メイド喫茶『アンジュ』でアルバイトをしている。
楓にとって、結衣は愛すべき妹であると同時に、もっとも残酷な「鏡」だった。
彼女は、楓が喉から手が出るほど欲している「メイド服の一部になる権利」を、生まれ持った特権として当たり前に享受している。
放課後、彼女が『アンジュ』の制服に身を包み、お客様から「可愛い」という言葉のシャワーを浴びている姿を想像するだけで、楓の心は激しい羨望と自己嫌悪で真っ黒に染まった。
「結衣……ちょっと、話があるんだ」
楓は意を決して、魔導書を手に一階のリビングへ降りた。
結衣はソファでスマホを操作しながら、気楽に足をバタつかせていた。
その無防備な、若い娘特有の柔らかそうな肢体。
その中に、今の自分の意識を移し替えることができたら――。
「何、兄さん? 改まって。またその古臭い本読んでるの? 友達できないよ?」
結衣は茶化すように笑ったが、楓の瞳に宿る、抜き差しならない「狂気」に近い真剣さに、わずかに表情を強張らせた。
「結衣、お願いだ。一週間……いや、数日でいい。俺と、身体を入れ替えてくれないか?」
「は? 何言ってるの、頭沸いた?」
「冗談じゃない。この本を使えばできる。俺は、お前の代わりに『アンジュ』で働きたい。お前が毎日着ているあの服、あの空気、あの世界を、お前の肉体を通して体験したいんだ」
結衣は呆れたように大きなため息をついた。
「兄さんがメイド服好きなんて、薄々気づいてたけど……。でも、それって犯罪じゃない? それに、入れ替わるなんて無理に決まってるでしょ」
楓は無言で、スマホの銀行口座アプリを開き、結衣の目の前に差し出した。
そこには、彼が中学時代からコツコツと貯めてきた、数十万円の貯金が表示されていた。
「これを全部、お前にやる。好きにしろ。服を買ってもいい、旅行に行ってもいい。俺の身体を使えば、お前は無敵の大学生だ。一週間だけ、自由を売ってくれないか?」
結衣の瞳が、提示された数字に釘付けになった。
彼女は今、受験勉強のストレスの真っ只中にいた。
自由な時間、自由なお金、そして「男」という、夜道を歩いても怖くない強靭な肉体。
「……本当に入れ替われるなら、別にいいよ。兄さんの身体で、夜の街を遊び歩くのも面白そうだし。そのお金、全部私の口座に移してくれるならね」
二人の間で、悪魔の契約が交わされた。
楓は確信していた。
この本は本物だ。ページから滲み出る、あの淀んだ魔力がそれを証明している。
彼は自分の人生を、自分の身体を、そして守ってきたプライドのすべてを賭けて、フリルの向こう側にある「聖域」へと手を伸ばした。
儀式は、月が厚い雲に覆われた深夜、楓の部屋で行われた。
窓を閉め切り、遮光カーテンを引いた密室に、一本の蝋燭が灯される。
揺れる炎が、壁に映る楓と結衣の影を巨大な化け物のように揺らしていた。
楓は魔導書に記された通り、結衣の指先から一滴の血を借り、それを古びたページに染み込ませた。
「本当に、後悔しないんだね? 兄さん」
結衣の声は、興奮と少しの不安で震えていた。
「後悔なんて、一度だってしたことがない。俺は……二十年間、この瞬間を待っていたんだ」
楓が低く、呪詛のような呪文を唱え始める。
すると、開かれた本の中から、どろりとした墨のような霧が溢れ出した。
それは生き物のようにのたうち回り、二人の足首に絡みついたかと思うと、一気に全身を包み込んだ。
「きゃっ……!」
結衣の短い悲鳴が、霧の中に吸い込まれる。
楓は、自分の魂が肉体という堅固な岩盤から、鋭利なノミで削り取られるような痛みを覚えた。
視界が高速で回転し、上下左右の感覚が消失する。
自分の「核」が、冷たい管を通って隣にある「別の容器」へと、強引に流し込まれていく感覚。
心臓の鼓動が、今までとは全く違うリズム――細かく、速く、しかし生命力に満ちた軽やかな響き――に変わる。
「……っ、ふぅ、ぁ……」
気づけば、楓は床に這いつくばっていた。
まず感じたのは、圧倒的な「視界の落差」だった。
いつもは悠々と見下ろしていた自分の部屋の景色が、まるで巨人の住処のように巨大化している。
机の高さ、ドアノブの位置、すべてが遥か上方にある。
そして、身体が「軽い」。
まるで羽が生えたかのような、重力から解放された感覚。楓は震える手で、自分の顔、そして身体をなぞった。
掌に触れるのは、水泳部で鍛えたゴツゴツとした硬い肌ではない。
吸い付くように柔らかく、きめ細かな、若い女性の肌だ。
指を滑らせると、鎖骨の華奢なライン、ふっくらとした胸の膨らみ、そしてキュッと締まったウエストが手に取るようにわかる。
「これだ……。これが、結衣の……女の子の身体……」
楓(の中身が入った結衣)は、おそるおそる立ち上がった。
足首が細く、バランスを取るのが難しいほど華奢だ。
彼はふらつきながら、壁にかけられた姿見の前に立った。
そこにいたのは、紛れもない「田中結衣」だった。
大きな瞳、長い睫毛、淡い桃色の唇。鏡の中の少女が、楓の意志で、艶かしく自分の首筋を指でなぞる。
「……すごい。本当に、完璧だ」
声が違う。鈴を転がすような、透明感のある高音。その声で自分の名前を呼ぶだけで、楓の脊髄を甘い痺れが駆け抜けた。
「うわっ! まじで入れ替わってる! 見て、兄さん……じゃなくて私! 手がでかーい!」
隣で、楓の身体(中身は結衣)が、自分の大きな掌を珍しそうに眺め、ブンブンと振り回していた。
180センチの巨体が、女子高生のような仕草で飛び跳ねる光景はあまりに異様だったが、楓はそれどころではなかった。
「結衣、約束だ。一週間、お前の振る舞いを俺がする。お前は……俺として、好きに過ごせ」
「オッケー! この身体、パワーが凄すぎて何でもできそう。じゃあね、兄さーん……ううん、結衣ちゃん! 明日のバイト、頑張ってね!」
結衣(の中身が入った楓)は、楓の財布を鷲掴みにし、男らしいドタドタとした足取りで部屋を出て行った。
一人残された楓は、鏡の中の「結衣」と対峙し続けた。
明日は、夢にまで見た『アンジュ』の出勤日だ。
楓は、結衣の小さな指で自分の頬をそっとつねった。痛みさえもが、少女のものとして、甘美に響いていた。

元の話はこちら

妹と入れ替わりたいとか思うのかなぁ???
私は特には思わないな。
じゃあこんな話を書くなという話なんですが。。。
どうも憧れとか、そういうのとは完全に別物。
いつまでたっても小煩いクソガキというイメージが消えない。
まあ、私がいい歳なので、奴もいい歳なわけですが。。。
次回:5/1 21:00更新するはず。
GWに浮かれてさぼったらごめん。


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