「全部捨てたい」と答えた男は、見知らぬ女と身体を交換された

傷つき、混乱し、怒りに身を任せて車に飛び乗ったときから、目的地などなかった。

ただ、現実という名の重力から遠ざかりたかった。

夜も昼も関係なく、食べることも飲むことも忘れ、眠気すら麻痺させて走り続けた果てが、この何もない境界の土地だった。

「あなた、全部捨てたいの?」

その言葉は、悠人の脳裏に直接突き刺さった。

悠人は、言葉にならない感情の塊を飲み込みながら、ゆっくりと、しかし明確に、深く頷いた。

「……はい」

それが、越えてはならない境界線を越えるための、明確な合意だった。

直後、世界が激しく反転した。

内臓が裏返るような強烈な嘔吐感が這い上がり、視界が白濁する。自分の輪郭が融解し、別の容れ物へと無理やり流し込まれるような、物理的な痛みを伴う錯覚。

意識が、一度完全に途絶えた。

視界に光が戻ったとき、悠人は自分がまだ車のシートに座っていることに気づいた。

しかし、何かが根本的に違っていた。

声を出そうとして、息が詰まった。

自分の口から漏れたのは、低く太い男の声ではなく、少しハスキーで、肉厚な声帯が震えるような、大人の女性の響きだった。

そこに固まっているのは、関節が少し太く、指先の透明な塗料が剥げかけた、まぎれもない「女性の手」だった。

免許証の写真の枠内から、さっき車の窓を叩いた、あの茶色の髪の女性が悠人を見返していた。

氏名:乾 美咲(いぬい みさき)

「美咲……」

自分は今、あの荒野に現れた見知らぬ女性、美咲の身体の中に閉じ込められている。

助手席の窓の外に、影が立つ。悠人は息を呑んだ。

そこに立っていたのは、まぎれもない「自分」だった。

「よく馴染む」

悠人の姿をした美咲は、太く低い声でそう言った。

「驚いた顔をしてるね。でも、あなたが『全部捨てたい』って頷いたんだ。私はそれを、自分に都合のいい合意だと思い込んだ。この身体ごと、人生を交換できるってね」

「戻してくれ、頼むから」

「戻るわけがないでしょう」

エンジ色のセダンが地方都市のひび割れたアスファルトを跳ねるたび、悠人の新しい肉体――乾美咲の身体は、容赦のない物理的な質量となって彼を苛んだ。

車が小さな段差を越えるだけで、胸の肉の塊が下方向へズシリと引っ張られ、皮膚と大胸筋の境界に引きちぎられるような鈍い痛みが走る。

さらに、美咲が身につけていたナイロン製のブラジャーが、息を吸うたびに肋骨を締め付ける。

しかし、それをどう直せばいいのかも分からず、悠人はただシートの上で身を捩るしかなかった。

その衝撃で、悠人の骨盤の奥に、ズキリとした重い痛みが走った。下腹部が内側から握り潰されるような、じわじわとした鈍痛。

「な、んだ……これ、お腹が、痛い……」

「ああ、算段が狂ったわね。今月はそろそろその時期よ」

車は地方都市の郊外にある、色褪せた二階建てのアパートの前に停まった。

「降りて。私の――これからはあなたの部屋よ」

悠人(ゆうと)
傷ついた現実から逃れるため、目的地もなく車を走らせていた男。年齢や、それまでの生活で何があったのかは明かされていない。食事も水分も睡眠も顧みず走り続けた果てに、何もない境界の土地で乾美咲と出会う。

「全部捨てたいの?」という問いに頷いたことで、身体と人生を交換されてしまう。しかし、彼が望んだのは苦しい現実からの逃避であり、見知らぬ女性として生きることではなかった。

交換後は、大人の女性の声や手、胸の重み、下着の締め付け、月経の時期を示す下腹部の痛みなど、慣れない身体の感覚に翻弄される。その不快感をどう和らげればいいのかさえ分からず、自分の身体を扱うための知識まで失ったような無力感に陥る。

元の姿をした美咲に懇願しても、帰還は拒まれる。「すべてを捨てたい」と願った彼は、今度は他人が残した身体と暮らしを引き受ける立場へ追い込まれていく。

乾 美咲(いぬい みさき)
境界の土地に現れ、悠人の身体と人生を手に入れた謎の女性。茶色の髪と、少しハスキーな声を持つ大人の女性だったが、交換後は悠人の男性の身体で行動する。正確な年齢や、交換を可能にした力の正体は不明。

悠人の疲弊と逃避願望につけ込み、曖昧な承諾を身体交換への合意として扱った人物。「自分に都合のいい合意だと思い込んだ」と自ら口にしながらも、交換を取り消す意思は見せない。相手の言葉を利用したことへの自覚と、要求を押し通す冷淡さを併せ持つ。

新しい身体には「よく馴染む」と満足を示す一方、悠人が訴える元の身体の痛みにも淡々と応じる。彼女にとって馴染み深い身体の事情が、悠人には何も分からない。その知識の差も、二人の力関係を際立たせている。

地方都市の郊外にある、色褪せた二階建てアパートに部屋を持ち、そこへ悠人を連れていく。なぜ自分の人生を手放したかったのか、その部屋にはどんな暮らしが残されているのか。彼女の過去が、悠人のこれからを左右する。

続きを読みたい方はこちら↓

3話:誰でもない二人 になります

面白そうだと思ってくれたら、他の人にも勧めてみてください♪

レビューを頂けたら作者の励みになります!

コメント

タイトルとURLをコピーしました