
目を開けるより先に、悠人は胸の重みで息を詰まらせた。
腰の後ろで、自分の意志ではない尾が石床を打った。
頭上の猫耳が、倒れている男の心音まで拾っていた。その男の顔は、つい先ほどまで悠人のものだった。
死んだはずの身体を、別の誰かが内側から動かしている。
悠人は立とうとして、膝を石へ強く打ちつけた。脚の長さも骨盤の幅も、記憶にある配置とは違っていた。胸元を横切る革帯が、呼吸のたび肉へ食い込んだ。何枚も重なったスカートが腿へ絡み、腰を後ろへ引いた。
「俺の身体から出ろ」
口から出たのは、低く少し掠れた女の声だった。その響きだけで、喉の太さまで奪われたと分かった。
男の身体に入った女は、ゆっくり指を開閉した。
「私は美咲。いま、あなたが使っている身体の持ち主」
「使っているんじゃない。押し込まれたんだ」
「あなたの身体は、あちらではもう助からなかった」
「だから持っていっていいことにはならない」
「同意を求めれば、あなたは消えていた」
美咲は責めるようには言わなかった。救命の手順を説明する者の、平らな声だった。その平静さが、怒鳴り声より悠人を追い詰めた。
「俺はどうなる」
「私の身体は三十七歳。健康ではないけれど、まだ戦える」
美咲は親切に、右肩の古傷と術脈の位置まで説明した。毎月の出血が重いことも、腰痛が長引いていることも告げた。桃色の衣装は礼装ではなく、追手に示す旗だとも言った。
「あなたなら生きられる。私より慎重そうだから」
その言葉には、歪んだ気遣いが含まれていた。本人が善意だと信じているため、交渉の隙間がなかった。
「返せ」
「返した瞬間、あなたの魂は損傷した脳へ戻る」
「それでも俺の身体だ」
「死を選ぶ権利まで残せなかったことは認める」
謝罪に似ていたが、術を戻す動きはなかった。
地下室の扉が破られたとき、悠人は剣を持っていなかった。折れた扇を胸元へ抱え、壁際へ立っていただけだった。
黒い革鎧の猫人が三人、泥を撒きながら駆け込んだ。先頭の男は短い黒髪と、雨に伏せた猫耳を持っていた。
「美咲、無事だったか。王軍が西門を抜いた」
「俺は美咲じゃない」
男は一瞬だけ眉を寄せ、すぐ悠人の腕を掴んだ。
「説明は走りながら聞く。剣は外に落ちている」
彼の名はカイといい、美咲と同じ革命軍の斥候だった。善意から急かしていることは、強い握りで分かった。
悠人は階段を上ったが、三段目で息が切れた。濡れた髪と衣服が、合わせて一つの荷袋のように重かった。革の胴当ては胸の形に沿わず、走るたび下端が腹へ刺さった。靴の踵は低く太いが、泥では沈み込みが男物より深かった。
それでもカイは、美咲なら走れる速度を当然のように求めた。
外は雨と煙で、朝なのか夕方なのかも判別できなかった。石壁の外では、黒い鎧と青い旗が泥の中で衝突していた。
足元に短剣ではない、幅広の長剣が落ちていた。悠人が柄へ触れると、右手だけが先に正しい角度を作った。肩を庇う位置も、刃を泥へ触れさせない持ち方も知っていた。
知識ではなく、筋肉が勝手に答えを出している。

悠人(ゆうと)
命と引き換えに、自分の身体と選択権を失った男。年齢は不明。美咲の術によって、三十七歳の猫人女性の身体へ、同意のないまま魂を移される。
猫耳が拾う鋭敏な音、自分の意志に逆らう尾、胸の重み、脚や骨盤の感覚の違い。そのすべてに戸惑いながら、周囲からは革命軍の戦士「美咲」として行動することを求められる。身体には右肩の古傷や長引く腰痛があり、生き延びるためには、自分のものではなかった身体の限界も覚えなければならない。
理不尽な状況でも「それでも俺の身体だ」と言い返す、自分の意思を手放さない人物。美咲への怒りの根底には、姿を変えられた苦痛だけでなく、生死を選ぶ権利まで奪われたことへの抵抗がある。
戦場で長剣に触れた瞬間、身体に残る戦闘の記憶が動き始める。自分の意思と、身体が知る美咲の生き方。その食い違いを抱えたまま、革命の渦中へ踏み出していく。
美咲(みさき)
悠人の命を救うため、彼の同意を得ずに身体を入れ替えた革命軍の戦士。元の身体は三十七歳の猫人女性で、現在は悠人の男性の身体に入っている。
自身の身体の不調や戦うための注意点を、淡々と説明できる冷静な人物。右肩の古傷、術脈の位置、重い月経、長引く腰痛まで伝える姿には、悠人を生き延びさせようとする具体的な気遣いがある。桃色の衣装も、追手に自分を示す旗として身につけていた。
一方で、救命のためなら相手の意思を飛び越えることを認めてしまう危うさを持つ。悠人から死を選ぶ権利まで奪ったと理解しながらも、入れ替えを戻そうとはしない。善意と責任感が、他者の人生を支配する行為と隣り合わせになっている。
悠人にとっては命の恩人であり、自分の身体を奪った当人でもある。損傷した脳を持つ彼の身体で、美咲自身がどう生き続けられるのか、その目的のすべてはまだ明らかになっていない。
続きを読みたい方はこちら↓

2話:剣と猫と、返らない身体 になります。
面白そうだと思ってくれたら、他の人にも勧めてみてください♪
レビューを頂けたら作者の励みになります!


コメント