電子部品工場の遅番を終えた黒川悠人が駅へ着いたとき、雨脚は朝よりも強くなっていた。
名前は沢井美咲といった。高校二年生で、放課後は近所のスーパーで働いている。今夜もアルバイトを終え、父親の夕食と薬を受け取って帰る途中だという。
二人は大きな傘の下へ入った。背丈の違いから、悠人が柄を持つ。美咲は袋をかばうように胸元へ引き寄せた。
角を曲がった瞬間、突風が傘を持ち上げた。美咲の買い物袋が悠人の脚へぶつかり、卵のパックが滑り落ちる。悠人が傘を支えようと腕を伸ばし、美咲も反射的に持ち手を握った。
二人の手が、傷だらけの木の上で重なった。
轟音がした。
雷ではなかった。空そのものが巨大な洗濯機のように回り、雨粒が渦を描いた。傘の骨が一本ずつ青白く光る。
悠人は、美咲の手を放そうとした。しかし指が動かない。
「待って!」
自分が叫んだはずなのに、聞こえたのは女の声だった。

視界が反転した。
次に目を開けたとき、悠人は濡れた路面に膝をついていた。胸には白いスカーフと紺の襟。両手には買い物袋。呼吸のたび重い体が遅れて揺れ、長い髪が肩から滑り落ちた。
目の前には、自分の顔をした青年がいる。
その青年は震える手で頬に触れ、喉を押さえた。
「私……なの?」
悠人の声で、美咲が言った。
「戻せよ」
悠人は、自分ではない声で言った。
美咲は黒い傘を拾い上げた。若い腕は驚くほど軽く動いた。その軽さに怯えたように、彼女は一歩下がる。
「私に言わないで。あなたが持ってきた傘でしょう」
「一緒に握っただろ」
「あなたが渡そうとしたからよ」
互いの口から、互いが普段使っていた声が出る。それだけで言葉はすべて責める響きになった。
美咲は傘を悠人へ押しつけようとした。しかし悠人が受け取る前に、突風が吹いた。黒い傘は路上を転がり、雨の幕の中へ消えた。
追おうとした美咲は、若い脚で数歩走り、立ち止まった。
そして振り返らずに走り去った。
悠人は、女の体で取り残された。
ポケットの中でスマートフォンが鳴っている。画面には「正造」と表示されていた。
知らない父親からの、三度目の着信だった。
電話へ出ると、正造は挨拶もせず、「今どこだ」と訊いた。苛立った声の奥に、痛みをこらえる浅い息が混じっている。
「そこまで帰ってるなら、早く上がってくれ。薬を飲む前に何か食わないといけない」
悠人は黒くなった画面に映る美咲の顔を見た。雨の夜に困っていたのは、自分だけではなかった。だが、だからといって互いの人生を交換してよい理由にはならない。
今夜の夕食と服薬をどうするかという問題が、魔法より先に彼を待っていた。
住所はスマートフォンの地図と免許証で分かった。
沢井美咲の住むマンションは、駅から十五分ほどの古い建物だった。悠人は買い直した卵と、濡れた長ねぎと、まだ何が起きたのか理解できない自分を抱えて、狭いエレベーターへ乗った。
壁一面の鏡に、制服姿の女子高生が映っている。
濡れた栗色の長い髪。重い前髪と白い襟。片方だけ落ちた化粧、疲れた目。黒いバッグと、夕食の材料が詰まった二つの袋。
七階のボタンが灯っている。押した覚えはなかった。
「体が、家を覚えてるのか」
呟いた声に、自分で驚いた。

登場人物
黒川 悠人(くろかわ ゆうと)
電子部品工場で働く青年。遅番を終えた雨の夜、沢井美咲と一本の傘に入ったことをきっかけに、彼女と体が入れ替わってしまう。
突然の出来事に動揺し、美咲を責める一方、取り残された後も、彼女の父親の夕食と薬を放っておけない。
理不尽な状況への怒りと、目の前の困り事に応じようとする責任感を併せ持つ。
美咲として暮らすことで、彼女が抱えていた家庭の事情と向き合うことになる。
沢井 美咲(さわい みさき)
栗色の長い髪をした高校二年生。放課後は近所のスーパーで働き、父・正造の夕食や薬を用意するなど、学校生活と家庭の用事を両立している。
雨の中でも買い物袋をかばう姿に、日々の暮らしを支えようとする気遣いが表れている。
悠人との入れ替わりに怯え、互いを責め合った末にその場から逃げ出してしまう。
普段は家のことを担っていても、突然の恐怖を受け止めきれない危うさを持つ少女。
走り去った理由と、その後に悠人の体で何を選ぶのかが、物語の鍵となる。
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1話:雨の夜の出会い――黒い傘の重量 になります
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コメント
一個前のコメント
名前を本文に入れちゃいました🙏
体が家を覚えてるって、なんか心に残るフレーズです٩( ᐛ )وココ