夏夜の裏返り――美神の器を取り替える
三回目の「私とあなたは裏返る」を唱えた瞬間。
夏の夜空を埋め尽くした閃光とともに、僕の魂は愛する彼女の肉体へと強引に引きずり込まれた。
それは、孤独な女装男子としての僕の人生が完全に剥奪され、見知らぬ男の胸で「本物の女」として貪られる、狂った運命の始まりだった。
夕闇が部屋の隅々から這い上がり、安物のワンルームマンションを静かに侵食していく。
二十二歳の如月悠人(きさらぎゆうと)は、その薄暗がりの中心で、まるで行方不明になった自分自身を捜索するかのように、鏡の中の瞳をじっと見つめていた。
机の上に乱雑に、しかし厳かに並べられた化粧品の数々。
それらは悠人にとって、過酷な現実という戦場へ赴くための兵器であり、同時に、剥き出しの脆い魂を守るための強固な城壁でもあった。
パレットから細いブラシで掠め取った、微細なパールの混ざるアイシャドウ。
それをまぶたの端にそっと乗せる。
一刷(ひとはけ)ごとに、鏡の中の「男としての如月悠人」の輪郭が曖昧になり、代わりに、息を呑むほどに繊細で可憐な「一人の少女」が立ち現れていく。
「……よし」
小さく呟いた声は、自分のものなのにどこか遠く、澄んで聞こえた。
悠人は、自分が女装男子であることを、この世界の誰にも明かしていなかった。
週末の夜、鍵を閉め切ったこの部屋の中だけで、彼は「本当の自分」になれた。
女性の衣服に身を包み、肌を陶器のように整え、滑らかな色彩を唇に差すとき、胸を昂らせる歓喜は何物にも代えがたかった。
女性として生きる時間の中にこそ、彼の真の救いがあった。
だが、その全能感と表裏一体になって彼を苛むのは、底のない孤独だった。
鏡の中からこちらを見つめる美しい少女は、ひとたび朝が来れば、夢のように消え失せてしまう幻だ。
一歩外に出れば、自分は再び「地味で、目立たず、声の低い男」の皮を被らなければならない。
(僕は、一体何をしているんだろう。この姿の僕を、受け入れてくれる人なんて、この世界のどこかにいるんだろうか……)
変身を遂げるたびに、胸の奥の空洞が大きく広がっていくようだった。
他人に拒絶される恐怖、裏切られる不安。
それらが鎖となって、悠人の心を部屋の床へと縛り付けていた。
そんな悠人が、冷たい現実の世界で唯一、心から惹かれ、救いを求めていた存在がいた。
職場の同僚である、三条美咲(さんじょうみさき)。
彼女は、夏のひまわりのように明るく、誰に対しても等しく優しい、美しい女性だった。
地味な事務職として机を並べる悠人にも、いつも屈託のない笑顔で話しかけてくれた。
悠人は彼女に恋をしていた。激しく、狂おしいほどに。
しかし、その恋心は、最初から諦めることが前提の切ない感傷に過ぎなかった。
「男としての自分」には、美咲と釣り合うだけの輝きが決定的に欠けている。
そう自嘲する一方で、もし彼女に「本当の僕」――この女装した姿を見られたら、一体どんなに軽蔑され、気味悪がられるだろうか。
想像するだけで、悠人の背筋には冷たい汗が伝うのだった。
そんなある日の午後、職場の給湯室で、運命の歯車が不意に音を立てて回り始めた。
夕方の休憩時間、マイカップを洗っていた悠人の背後に、ふわりと甘い柑橘類の香りが漂った。
振り返ると、美咲がいた。
「あ、如月くん。ちょうど良かった」
美咲は、いつも以上に瞳をキラキラと輝かせながら、悠人に一歩にじり寄ってきた。
「ねえ、今週末の土曜日、夜って空いてる?」
「えっ……あ、うん。特に予定はないけど……」
突然の問いかけに、悠人は心臓が跳ね上がるのを必死に抑えながら、掠れた声で答えた。
「本当!? 良かったぁ。あのね、今度の土曜日、この近くの大きな神社で夏の例大祭があるじゃない? 花火もたくさん上がるやつ。もし良かったら、私と一緒に、お祭りに行かない?」
耳を疑った。美咲からの、まさかのデートの誘いだった。
「僕、と……美咲さんが、二人で?」
「うん。他の人は誘ってないよ。如月くんと二人で行きたいな、って思って」
美咲は少し悪戯っぽく微笑み、それから悠人の顔をじっと覗き込んだ。
その時、悠人は美咲の瞳の奥に、いつもとは違う、奇妙に張り詰めた熱のようなものが宿っていることに気づいた。
だが、舞い上がっていた彼は、その違和感を深く追究することができなかった。
「もちろん、行きたい、です。喜んで」
「やった! 嬉しいな。……あ、それでね、如月くん」
美咲は、人差し指を自分の唇に当てながら、さらに声を潜めた。
「せっかくの夏祭りだから、私、今回はちょっと特別な格好をしてみたいの。だから如月くんも、自分の好きな、一番綺麗だと思う姿で来て。男物の普通の格好じゃなくて、ね?」
「え……一番、綺麗な姿、って……」
「ふふ、当日のお楽しみ。じゃあ、夕方の六時に、神社の裏手にある古い貸し切り町家の前で待ち合わせね。あそこ、着付けスペースとして場所を借りられるから。じゃあ、約束だよ!」
美咲はそれだけ言い残すと、弾むような足取りで給湯室を去っていった。
一人残された悠人は、蛇口から流れる水の音も耳に入らないほど、激しい混乱の渦に突き落とされていた。
(一番、綺麗だと思う姿? それって、どういう意味だ? 僕の、趣味が……まさか、バレているのか……?)
最悪の想像が頭をよぎり、全身の血の気が引いた。
しかし、美咲のあの態度には、他人の秘密を暴いて嘲笑おうとするような陰湿さは一切なかった。
むしろ、何か重大な企てを前にした子供のような、純粋な興奮に満ちていた。
自宅に戻った悠人は、ベッドの上に大の字になって天井を見つめ、悶々と悩み続けた。
お祭りに行くなら、当然、浴衣を着るべきだろう。
もし美咲の言葉を無視して、普通のメンズの私服や、無難な男物の浴衣で行けば、彼女を落胆させてしまうかもしれない。
だが、もし「一番綺麗な姿」という言葉を文字通りに受け止めてしまったら――。
悠人は立ち上がり、クローゼットの奥の、厳重に隠された衣装ケースを開けた。
そこには、数日前に衝動買いしたばかりの、上質なピンクの浴衣が眠っていた。
淡い桜色に、鮮やかな撫子の花が染め抜かれた、息を呑むほど美しい仕立ての女性用浴衣だ。
(これを着ていけば、僕の女性らしさは極限まで際立つ。でも、そんなことをしたら、彼女に僕の正体が完全に知られてしまう。それは、破滅を意味するんじゃないのか?)
恐怖が彼を躊躇わせる。
しかし、それと同時に、胸の奥から湧き上がる抑えきれない衝動があった。
(もし……もし美咲さんが、この姿の僕を受け入れてくれたら? この完璧な僕を見て、微笑んでくれたら……僕は、本当の意味で救われるんじゃないだろうか)
それは、崖っぷちの男が見る、甘い劇薬のような夢だった。
美咲への狂おしいほどの恋心と、自分を認められたいという肥大化した承認欲求が、悠人の理性をじわじわと侵食していく。
迷って、迷って、血が出るほど唇を噛み締めた末に、悠人は決断した。
すべてを賭けてみよう、と。
美咲とのデートを、自分の人生のすべてを懸けた勝負の場にしようと決めたのだ。
そして迎えた、祭り当日の土曜日。
悠人は、昼過ぎから数時間をかけて、己の身体を「究極の少女」へと作り替えていった。
入念な洗顔から始まり、何層にも重ねてシミや毛穴を完全に消し去った白磁の肌。
アイラインの一ミリの角度にも妥協せず、つけまつげを丁寧に配置して、潤んだ大きな瞳を作る。
薄いピンクのリップを差し、中央にだけグロスを乗せて、熟れた果実のような唇を完成させた。
髪はウィッグを巧みに馴染ませ、うなじが最も美しく見える絶妙な位置で、華やかなアップスタイルに結い上げた。
最後に、あの桜色の浴衣を身に纏う。
帯は、職人のような手つきで文庫結びにし、背中に大きな羽根を躍らせた。
鏡の前に立った悠人は、我知らず、自身の姿に深くため息を漏らした。
そこにいるのは、どこからどう見ても、一人の無垢で、しかし恐ろしいほどに艶やかな、最盛期の美を誇る少女だった。
独学で極めた技術の結晶。人工的に作り上げられた、本物の女性以上の可憐さ。
(これが、如月悠人の、一番綺麗な姿だ)
彼は、自分が今、この瞬間だけは「女性」であることを、誇らしくさえ思った。
この姿のままなら、世界中の誰に対しても、胸を張って微笑むことができるような気がした。
夕闇が完全に街を包み込み、遠くからドーン、ドーンと、祭りの始まりを告げる花火の破裂音が響いてくる。
悠人は、小さな和装バッグを手に持ち、緊張で震える足を進めて、待ち合わせ場所である神社の裏手へと向かった。
心臓が、耳の下でうるさいほどの鼓動を刻んでいる。
美咲は、この僕を見て、一体どんな顔をするだろうか。拒絶か、歓喜か。
夏の生暖かい夜風が、桜色の裾を優しく揺らしていた。悠人は、自らの運命の扉を叩くべく、歩みを速めた。



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