夢の箱庭、猫の残響
朝、目が覚めたとき、視界はいつもより低かった。
首筋にまとわりつく髪の重さと、胸の圧迫感に息が詰まる。
鏡に映ったのは、私ではなく、見知らぬ「女」だった。
冷えた空気が、露出した鎖骨のあたりを撫でていく。
半開きの口から漏れたのは、自分の記憶にない甲高くてかすれた息の音だった。
布団から這い出そうとすると、腰のあたりにズシりと鈍い重量感が圧しかかる。
重心の位置が、昨日までの自分の体と明らかに狂っていた。
床に足を踏み下ろすと、太もも同士が内側で擦れあう感覚がまとわりついてくる。
違和感の塊だった。
視線を落とすと、見覚えのない薄ピンク色の寝巻きが、豊満すぎる胸の起伏に沿って突っ張っている。
呼吸をするたびに、胸ぐらが上下に重たく揺れた。
手のひらを顔にかざしてみる。
かつてあったペンダコや堅い関節はなく、全体的に丸みを帯びた、指先だけが細い手だった。
爪には薄いピンク色のマニキュアが塗られ、あちこちが僅かに剥げている。
「な……んだ、これ」
声を出した瞬間、首の喉仏があるべき位置に何も触れない感覚に吐き気がした。
私の声ではない。
三十代の、すこし疲れの滲んだ大人の女性の声だった。
立ち上がろうと膝に力を入れるが、腿の筋肉の使い方がわからない。
よろめきながら壁に手を突き、狭いワンルームの室内を見回した。
男のひとり暮らしの部屋ではない。
洗面台にはスキンケア用品や化粧水のボトルが乱雑に並び、ほのかに甘いコロンの匂いが充満している。
壁の姿見の前に立った。
そこに映っていたのは、三十代半ばほどの、目元に薄い影を落とした見知らぬ女性だった。
髪は肩の下まで伸び、手入れが届いていないのか毛先が少し傷んでいる。
胸元と腰回りが大きく横に張り出し、全体的に重々しいシルエットを描いていた。
これは夢だ。
強烈な現実逃避の思考が、脳の裏側を支配した。
過労か、あるいは何かの病気で変な幻覚を見ているに違いない。
私は目を強く閉じ、まぶたの裏の暗闇に意識を集中させた。
強く思い込めば、元の自分の部屋で、いつもの自分の身体で目が覚めるはずだ。
奥歯を噛み締め、呼吸を整え、何度も頭の中で「起きろ」と念じた(抵抗1)。
一分、二分。
じっと息を殺して待ち、ゆっくりと目を開けた(抵抗1)。
視界に飛び込んできたのは、やはり剥げかけたピンクのマニキュアと、重たい胸の膨らみだった(抵抗1の失敗)。
何も変わっていない(抵抗1の失敗)。
世界は微動だにしなかった。
胃の底からせり上がってくる冷たいものを押し殺しながら、洗面台に向かった。
猛烈な尿意を感じたからだ。
しかし、便座に座るという単純な動作ひとつをとっても、身体の重心が狂っていてスムーズにいかない。
下着を脱ぐ手つきすら、自分の身体ではないという感覚がつきまとい、酷くぎこちなかった。
布地が皮膚を擦る感触、座面にあたる太ももの肉の柔らかさが、吐き気を催させる。
用を足した後の始末も、これまで生きてきた経験がまったく役に立たない。
トイレットペーパーをどれくらい使い、どう拭き取ればいいのかすら迷い、無駄に手を汚す恐怖に怯えた。
部屋に戻り、クローゼットを開ける。
並んでいるのは女性物の服ばかりだった。
ブラジャーという器物に袖を通す際、背中のフックを止める作業だけで二分近くかかった。
胸の肉を寄せて収める感覚は、まるで粘土の塊を無理やり袋に詰め込んでいるかのようだった。
肩紐が鎖骨に食い込み、アンダーバストのゴムが肋骨を締め付ける。
呼吸が浅くなり、立っているだけで体力を削られていくのが分かった。
上着を着ても、胸の出っ張りのせいで生地が前に引っ張られ、肩まわりが窮屈でたまらない。
スマートフォンの画面を見る。
通知欄には「美咲」という名前宛てのメッセージがいくつか届いていた。
出勤の時間が迫っていることを知らせるアラームが鳴る。
この身体の持ち主――「美咲」は、どこかの会社で働いているらしかった。
休むわけにはいかない。
休む連絡を入れる術すら、今の私にはわからないからだ。
玄関で靴を履こうとしたが、ヒールの低いパンプスに足を入れた瞬間、足の甲の幅が合わず痛みが走った。
重心が爪先に偏り、歩くたびにふくらはぎの裏側が引きつるように緊張する。
外に出ると、朝の冷たい風が頬を刺した。
駅までの道のりを通勤客が行き交う。
すれ違う人々が、チラリとこちらに目をやる感覚があった。
いや、誰も私など見ていないのかもしれない。
だが、性別が変わったという自覚が、被害妄想を膨らませる。
背筋を伸ばそうとすると胸が強調され、丸めようとすると肩こりが悪化する。
どこに力を入れて歩けばいいのか分からず、足取りは泥の中を歩いているように重かった。
電車に乗ると、混雑の中で見知らぬ男の肩が私の胸のあたりに接触した。
ゾッとするような嫌悪感が背筋を駆け抜ける。
かつての自分なら気にも留めなかったような些細な接触が、恐怖として脳に直接響く。
満員電車の揺れに合わせて、自分の身体の肉が揺れるのが分かった。
その「重さ」と「邪魔さ」に、ただひたすら耐えるしかなかった。
会社に到着し、美咲の席らしきデスクに着く。
周囲の社員たちが「美咲さん、おはよう」と声をかけてくる。
私は引きつった笑顔を浮かべ、最小限の会釈で応えた。
デスクワークを始めようとパソコンに向かうが、キーボードを叩く指の感覚すら狂っている。
いつも通りのブラインドタッチができず、タイプミスを連発した。
さらに、書類の整理や備品の補充といった雑用が、当然のように「美咲」の元へ集まってくる。
「美咲さん、これ給湯室にお願いね」
上司らしき男が、空になったお茶のポットを置いた。
私にはその業務の優先順位が理解できない。
なぜ私がやらなければならないのか。
男性だった頃の私なら、自分の業務に関係のない雑用を押し付けられれば合理的に断っていただろう。
だが、この職場において「美咲」という女性が置かれている立ち位置は、そうした雑用を笑顔で引き受ける役割として固定されていた。
断ろうと口を開いだが、周囲の「やってくれて当たり前」という空気に押し潰され、声が出なかった。
言葉を呑み込み、重い腰を上げてポットを持ち上げる。
腕の筋肉が弱く、ただのお茶のポットが異様に重く感じられた。
給湯室で湯を沸かしている間、鏡に映る自分を睨みつけた。
こんなはずはない。
これは何かの間違いだ。
私は悠人だ。
実績のあるエンジニアであり、論理的に物事を考え、独立して生きてきた男だ。
こんな、身体の重さに振り回され、職場の雑用に追われるだけの存在ではない。
パニックになりそうな心を落ち着かせるため、私は給湯室の個室に入り、再び強く目を閉じた。
全身の力を抜き、頭の中で「本来の自分」の姿を強烈にイメージする。
自分の身長、自分の骨格、自分の声、自分の名前。
それらを一つひとつ手繰り寄せ、狂った現実を上書きしようと試みた(抵抗1)。
額に汗が滲み、荒い呼吸が狭い個室に響く。
皮膚の感覚が戻ってくるのを、ただただ祈るように待った(抵抗1)。
ガチャリと音を立ててドアを開ける。
目の前にあったのは、洗面台の鏡だった。
そこに立っていたのは、相変わらず汗で前髪を額に貼り付けた、ぐったりと疲弊した三十代の女性の姿だった(抵抗1の失敗)。
何も戻っていない(抵抗1の失敗)。
私の抵抗は、虚しく空気の粒子に消えていくだけだった。
終業のチャイムが鳴るまで、どうやって過ごしたのか記憶があいまいだった。
書類の一枚を繰るのにも集中力を使い果たし、肩と腰には鉛が詰まったような痛みが残った。
クトクトと身体の奥底から込み上げてくる鈍い体調の悪さは、生理前特有の症状なのかもしれなかったが、確かめる気力すらない。
夜、這うようにして美咲のアパートに帰宅した。
服を脱ぎ捨て、風呂場に向かう。
シャワーの温水が皮膚を叩くが、その温もりすら不快だった。
自分の胸を手で洗うという行為が、あまりにも苦痛で、途中で石鹸を泡立てる手を止めた。
鏡を見ないようにしながら体を拭き、髪も乾かさずにベッドに倒れ込んだ。
湿った髪が首筋に張り付き、冷たさが不快感を増幅させる。
暗闇の中で、まぶたを閉じる。
身体の重さが、布団の沈み込みを通してリアルに伝わってくる。
逃げたかった。
この重くて、理不尽で、動かしにくい身体から。
この、自分が自分でなくなった恐ろしい現実から。
まぶたの裏に、ふっと白い光が差した。
気づけば、私は見たこともない広い部屋に立っていた。
そこは白黒のモノトーンで構成された世界だった。
ふと自分の頭に手をやると、柔らかい毛並みの「猫耳」が付いていた。
私は手に持った小さな杖を軽く振ってみる。
すると、白黒だった世界に、鮮やかな赤や青の絵の具が広がっていくように色彩が宿った。
『すごいよ、魔法使いさん!』
振り返ると、見たこともない小さな生き物たちが、私の周りで楽しそうに踊っていた。
私は空を見上げた。
脚に力を入れると、身体は羽のように軽く持ち上がり、ふわふわと夜空へ舞い上がった。
風が心地よく頬を撫でる。
ここには、胸の圧迫感も、腰の重さも、パンプスの痛みも存在しない。
私は自由だった。
ここでは、私は色を操り、空を飛ぶことができる「猫耳の魔法使い」なのだ。
夢の中で、私は笑っていた。
魔法を使って街に綺麗な花を咲かせ、人々に祝福される自分を感じていた。
この甘やかで軽い世界こそが、私の本当の居場所であるかのように。
だが、夢の深淵から、微かに朝の目覚まし時計の音が聞こえ始めていた。
あの重く、苦しく、不快な現実が、再び私を呑み込もうと待っていた。

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