熟年女性と会社員の男性が入れ替わる

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優しい包囲網

朝、足の裏にかかる重心の低さと、鎖骨の下にぶら下がる二つの肉塊の重みで目が覚めた。

鏡の前に立つと、そこには見知らぬ四〇代の女性——美咲の、目元の小皺と少し垂れた口元があった。

男であった頃の自分の名前を声に出そうとしたが、咽喉骨の引っかかりがなく、低く掠れた女性の声しか出なかった。


胸の膨らみは、漫画や小説で描かれるような華やかさとは程遠い、物理的な負担そのものだった。

両側の鎖骨から吊り下げられた脂肪の塊は、腕を動かすたびにわずかに揺れ、胸輪の靭帯を内側から引き伸ばすような鈍い不快感を伴う。

呼吸をするたびに、胸下を一周する伸縮性帯——ブラジャーの硬質なワイヤーが肋骨の表面を押しつけ、皮膚に一本の深い溝を刻み込んでいるのが分かった。

立っているだけで、背中の中央から肩甲骨にかけての筋肉がじわじわと張ってくる。

重心は明確に低く、腹部から太ももにかけて付着した厚い皮下脂肪が、かつての自分の体の感覚を根本から書き換えていた。

三十年間使い慣れていた自分の身体は、どこにもなかった。

手首は細く、指先は平たく丸みを帯びている。

掌の皮膚は柔らかいが、水仕事のせいか指関節の皮膚だけがわずかに乾燥して硬い。

「悠人」

自分の本名をもう一度発声してみたが、喉の奥から鳴るのは高く濁った見知らぬ音だけだった。

呼気と声帯の摩擦の具合がまるで違う。

舌の位置も、口腔の容積も違っていた。

自分という存在が、見知らぬ中年女性の肉体の中に強固に閉じ込められているという事実が、皮膚の表面にまとわりつく汗の滑りと共に突きつけられた。

わたしは——あるいは俺は——洗面所の鏡から目を逸らした。

鏡の中に映るその顔を見たくなかった。

垂れ下がった目尻、鼻翼の横から口角へ伸びる深いほうれい線、乾燥して角質が浮き上がった唇。

それはどこからどう見ても、生活の疲労と加齢をそのまま蓄積させた四十代半ばの女性の顔だった。

その顔が自分の意識の動きに合わせて瞬きをし、口を開く。

その事実があまりにも異様で、胃の底から酸っぱい唾液がこみ上げてきた。

自分の顔が嫌いだった。

というよりも、それが「自分」の顔であるという認識を脳が拒絶していた。

このような顔で誰かに会うことなど想像もできなかった。

この顔を見られたくなかった。

わたしはクローゼットへ向かい、美咲の服の中から最もサイズが大きく、体の線を拾わないものを探した。

グレーの厚手のスウェットパーカーと、膝下まで隠れるダボついた黒のロングスカートを選び出す。

パーカーのフードを深く被り、頭部全体を覆い隠した。

さらに棚の奥にあった不織布マスクを取り出し、鼻筋から顎の下までを隙間なく覆う。

黒縁の大きな伊達メガネをかけ、鏡を一度も見ないまま部屋の隅へ移動した。

部屋のカーテンを閉め切り、光を遮断した。

四角い部屋の隅、ベッドと壁の隙間に膝を抱えて座り込む。

体のあちこちが痛んだ。

特に肩と腰が重い。

胸の重みが前骨盤に荷重をかけ、背骨が自然と前傾する。

ブラジャーのアンダーゴムが締め付ける肋骨の周りが痒く、不快な熱を帯びていた。

それでも、こうして暗闇の中でフードとマスクを被り、膝の間に顔を埋めていれば、外部からの視線をすべて遮断することができた。

誰もここへ入れさせなければいい。

誰とも会わなければいい。

この身体のまま社会に出て、美咲という人間として振る舞うことなど絶対に不可能だった。

声も、歩き方も、食事の仕方も、男としての記憶しか持ち合わせていない自分が演じ切れるはずがない。

学校や職場に行くわけでもない。

ただこの部屋に閉じこもり、本を読み、音楽を聴き、呼吸だけをして過ごせばいい。

そうすれば、この狂った異常事態も、いつか何らかの形で収束するかもしれない。

あるいは、このまま存在自体が消えてしまえばいい。

そう考えていた。

昼過ぎ、階下で玄関のドアが開く音がした。

靴を脱ぐ音、そして足音が廊下を渡り、二階の部屋へと近づいてくる。

夫の直樹だった。

四十五歳の直樹は、地元の小さな建材メーカーで働く男で、髪は少し薄く、腰回りに弛みが出始めている。

扉が軽くノックされた。

「美咲、体調はどうだ? 朝から何も食べていないだろう」

直樹の声は低く、穏やかだった。

そこには怒りも、混乱も、異常を感じ取った怯えもなかった。

ただ、日常の延長として妻を案じる、過不足のない配慮だけがあった。

わたしは膝を抱えたまま、フードの隙間からドアを見つめ、声を殺した。

返事をするつもりはなかった。

声を出せば、それが美咲の声であっても、自分自身が女性としてそこに存在していることを肯定してしまうような気がしたからだ。

沈黙こそが、残された唯一の防御策だった。

「気分が悪いなら、無理に開けなくていい。ゼリー飲料をドアの前に置いておくからな」

直樹の足音が遠ざかっていく。

わたしは小さく息を吐いた。

直樹は善人だった。

妻が突然部屋に閉じこもっても、無理に扉をこじ開けるような真似はしない。

このまま静かに放置してくれるはずだった。

この遮蔽された空間で、自分だけの世界に潜み続けることができるはずだった。

だが、その甘い見通しは、わずか数時間後に崩れ去った。

夕方、一階から賑やかな話し声と、聞き覚えのない軽い足音が響いてきた。

「直樹さん、電話で聞いたから飛んできたわよ。美咲さん、朝から部屋から出てこないって本当? 更年期の症状かしら。あの人、最近ずっと無理してたものね」

階段を上がってくる足音は二つあった。

一つは直樹の重い足音、もう一つは、甲高いヒールの音を響かせる女性の足音だった。

里奈だった。

美咲の義理の姉にあたる里奈は近所に住んでおり、面倒見が良く、親戚中の行事や世話事を仕切ることで知られていた。

彼女の行動原理は常に「家族のための善意」であり、その善意は一度動き出すと誰にも止められない苛烈さを帯びていた。

「美咲さん? 里奈よ。入るわね」

ドアノブがガチャガチャと回された。

わたしは部屋の内側から鍵をかけていた。

金属の爪が引っかかる固い音が部屋に響く。

「鍵がかかってるわ。直樹さん、予備の鍵は?」

「いや、鍵は部屋の内側からかけるタイプで……」

「ダメよ、そんなの! 中で倒れてたらどうするの? 遠慮してる場合じゃないでしょう。裏の物置に細いドライバーか針金があったはずだから、持ってきて!」

里奈の声には一切の悪意がなかった。

あるのは、病気や精神的ショックで部屋に閉じこもっている義理の妹を「救出」しなければならないという、100%の正しい正義感だけだった。

「里奈さん、そこまでしなくても……」という直樹の気のない制止の声は、里奈の強い口調にかき消された。

「何言ってるの直樹さん! 家族が困ってるときに放置してどうするの。美咲さんは真面目だから、一人で抱え込んじゃうのよ。私たちが引きずり出してあげなきゃ!」

ドアの外で金属が擦れ合うカチカチという嫌な音が響いた。

鍵穴にドライバーが差し込まれ、強引に内部の構造が回される。

わたしは恐怖で動けなかった。

フードをさらに深く被り、マスクの上から両手で顔を覆い隠した。

来ないでくれ、見ないでくれ、ここに触れないでくれ。

ガチャリ、と重い金属音がして、鍵が外れた。

扉が勢いよく開かれ、廊下の光が暗い部屋の中に差し込んできた。

「美咲さん!」

里奈が踏み込んできた。

エプロン姿の彼女は、部屋の隅で丸くなっているわたしの姿を見るなり、痛ましそうな顔をして駆け寄ってきた。

「やっぱり……! こんな暗いところで、服も脱がないで何やってるのよ。顔も見せてくれないなんて、相当参ってるのね」

里奈の手が、わたしの肩に触れた。

女性の手とは思えないほど力強く、容赦のない厚みを持った手が、パーカーの生地越しに腕を掴んでくる。

「やめ……」

掠れた声を出して抵抗しようとしたが、里奈はそれを「弱音」として受け取った。

「声も出ないくらい辛いのね。大丈夫、私がついてるから。とりあえずそのフードを取りなさい。部屋も換気して、美味しいもの食べましょう」

里奈は躊躇なく、私の頭部を覆っていたフードを後ろへ引っ張った。

髪の毛が引っ張られ、頭皮に鈍い痛みが走る。

同時に、顔を隠していたマスクのゴム紐に手がかけられ、耳から無理やり引き剥がされた。

「あっ……」

外の光が、剥き出しになった顔に刺さる。

里奈はわたしの顔を覗き込み、一瞬だけ目を見開いたが、すぐに深い同情の色を浮かべた。

「顔色、すごく悪いわ……。目の下もクマだらけ。直樹さん、早く温かいお茶淹れて! 美咲さん、ずっと一人で抱え込んでたでしょう。ダメよ、私たち家族なんだから。何でも話し合わなきゃ」

里奈の腕がわたしのアキレス腱や背中に回り、力ずくで引き起こされる。

三十代半ばの男性だった頃の筋力は今の身体にはない。

腕の力は驚くほど弱く、女性である里奈の引っ張る力に抗うことすらできなかった。

体が簡単に持ち上がり、ベッドの端へと座らされる。

「見ないでくれ……」

わたしは手で顔を覆おうとしたが、里奈はその両手を優しく、しかし振り払えない強さで包み込み、引き離した。

「隠さなくていいのよ、美咲さん。どんな顔だって、私は美咲さんの味方なんだから。さあ、立って。顔を洗って、リビングに行きましょう。ね?」

完璧な善意。

完璧な正しさ。

完璧な配慮。

その圧倒的な包容力によって、わたしが構築しようとした遮蔽の壁は、跡形もなく粉砕された。

拒絶することも、引きこもることも、「悲劇の渦中にいる哀れな妻」という枠組みの中に組み込まれることで、すべて無効化されていく。

男として一人で静かに引きこもり、誰にも邪魔されずに沈黙を守るという権利は、この瞬間に完全に失われた。

部屋の窓が開けられ、冷たい夕方の風が室内になだれ込んでくる。

里奈に腕を引かれながら廊下へ踏み出したとき、胸の二つの肉体が重たく揺れ、ブラジャーのワイヤーが再び肋骨を強く圧迫した。

その痛みだけが、生々しくそこに残っていた。

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