成人男性が、成熟した女性と入れ替わる

夕暮れの羽衣

望遠鏡を覗き込む胸元に、冷たく湿った二つの重みが押し付けられていた。

肋骨を圧迫する肉の質量は、息を吸うたびに生地の隙間から滑り落ちそうになる。

男であったはずの掌には、見覚えのない太い静脈と、しわの寄った皮膚が張り付いていた。

夕暮れの空は、薄紫と桃色が混ざり合った不自然なパステルカラーに染まっている。

接眼レンズの向こう側に広がる色彩は、レンズの収差でも大気の屈折でもない。

屋根裏部屋の湿った空気の中に、生臭い皮膚の匂いと、古い化粧品のような香りが充満していた。

悠人は息を止め、視線を足元へ落とした。

履き慣れたスウェットパンツの股ぐりが、妙に痛い。

布地が食い込んでいるのは、そこにあるべきものが存在しないからだった。

代わりに、湿った重たい肉の塊が、太ももの付け根を圧迫している。

「……なんだ、これは」

声を出そうとしたが、喉から漏れたのは掠れた高めの息だった。

声帯の位置が上がり、胸腔の共鳴が変わっている。

喉仏のあったあたりを指で撫でると、そこにはなめらかで丸みを帯びた皮膚の感触しかなかった。

昨夜の光景が、頭の裏側で不鮮明に明滅している。

望遠鏡の向こう、夕闇の雲間で舞っていたあの女の姿。

星のような煌めき、耳の奥をくすぐるような高い鈴の音、そして差し出された手。

「私と一緒に舞いましょう」という声。

あれは夢だったはずだ。

屋根裏部屋の丸椅子でうたた寝をし、変な夢を見て目を覚ました。

それだけのはずだった。

悠人は立ち上がろうとしたが、足元がぐらついた。

体の重心が、以前よりも著しく低くなっている。

腰の骨が外側に開き、臀部にまとわりつく余分な脂肪が、動作のたびに遅れて揺れる。

立ち上がるだけで、膝と腰に鈍い負荷がかかった。

部屋の隅にある姿見に近づく。

鏡の中に映っていたのは、見知らぬ中年女性の姿だった。

三十代半ばの自分の面影は、たるんだ頬の肉と、眉間の深いシワの中にわずかに残っている程度だ。

髪は肩のあたりでうねり、ツヤを失って乾燥している。

Tシャツの胸元は大きく膨らみ、自重で下へと垂れ下がっていた。

ノーブラの胸が、動作のたびに重たく揺れる。

その揺れが肋骨に響き、不快な生々しさを全身に伝えてくる。

美少女化でもなければ、若返りでもない。

そこにいるのは、明らかに年齢を重ね、生活の疲労を身体に溜め込んだ、成熟した一人の女だった。

「嘘だろ……」

悠人は自分の両手で胸を強く押し潰した。

潰された肉が左右に逃げ、皮膚が引っ張られる激痛が走る。

痛い。夢ではない。

だが、こんな変化が生物学的に起こるはずがない。

ホルモン異常か、悪質な腫瘍か、あるいは脳の疾患による錯覚か。

悠人は震える手でタンスを漁り、亡くなった母親が残していった古いカーディガンと、ゆったりとしたズボンを引っ張り出した。

男物の服は胸と腰回りが引っかかって入らない。

母親の服を着ると、肩幅は余るのに、胸と尻のラインだけがぶ厚く生地を押し上げた。

ブラジャーを着けていないため、歩くたびに胸の先端が擦れて嫌な痛みが走る。

悠人は最初の抵抗として、論理的かつ医学的な解決を模索することにした。

これは病気だ。

身体構造の急激な変容、あるいは内分泌系の重篤な異常。

病院へ行き、検査を受け、適切な治療を受ければ戻るかもしれない。

あるいは、公的な書類や身分証明書を示せば、自分が「悠人」という男性であることが証明され、この異常事態が記録されるはずだ。

外に出ると、パステルカラーの夕空が街全体を覆っていた。

街並みはいつもと変わらないはずなのに、歩く感触が全く違う。

靴底から伝わる衝撃が、ダイレクトに腰と骨盤に響く。

内股の肉がすれ違い、歩くたびに摩擦熱を生む。

男だった頃の軽快な歩幅は失われ、ペンギンのように重心を左右に揺らしながら歩くしかなかった。

総合病院の発熱・外来受付にたどり着いた時、悠人は既に額に大量の汗をかいていた。

胸の下と乳房の間に汗が溜まり、気持ちの悪い湿り気が皮膚に張り付く。

「あの……診察をお願いしたいのですが」

受付の女性に声をかけると、自分の声の甲高さに改めて吐き気がした。

「はい、診察券はお持ちですか? 本日初診でしょうか」

「初診です。名前は、佐藤悠人です」

受付の女性はパソコンの画面に名前を入力し、ふと手を止めた。

そして、書類と悠人の顔を交互に見比べた。

「あの……佐藤悠人さんの、お母様かどなたかですか? 代理で受付ですか?」

「違います。私が、佐藤悠人です」

悠人は財布から運転免許証を取り出し、カウンター越しに差し出した。

免許証の写真には、短髪で黒縁メガネをかけた三十代の男性が映っている。

住所も、生年月日も、間違いなく悠人のものだった。

受付女性の表情が、困惑から察したような柔らかい笑みへと変わった。

その笑顔には、一切の悪意や敵意が含まれていない。

純粋な親切心と、相手を傷つけないための配慮だけが充満していた。

「あ、なるほど……体調がお悪いんですね。お名前の記載、ご家族のものを間違えて出されちゃいましたか? マイナンバーカードや、ご本人様の保険証はお持ちですか?」

「だから、これが僕の……私の免許証です! 昨日の夜から、急に身体がこんな風に変形して……!」

悠人は必死で訴えた。

声を張り上げようとすると、胸筋が引っ張られ、乳房が揺れて痛む。

周囲の待合客が一斉にこちらを振り返った。

その視線は、「変なことを言っている中年女性」を見る哀れみと関心に満ちていた。

「大丈夫ですよ、お母さん。落ち着いてくださいね」

受付女性は穏やかな声で言った。

まるで認知症の老人や、精神的に混乱している患者を宥めるようなトーンだった。

「お熱はありますか? 最近、お身内の方でどなたか亡くなられたり、強いストレスがあったりしましたか? 精神的にお辛いようでしたら、内科より先に適切な診療科をご案内することもできますけれど……」

「狂ってない! 僕は男なんだ! この服の下を見てくれ!」

悠人は自分のカーディガンのボタンを外そうとした。

しかし、受付女性は慌ててカウンターから出てくると、悠人の手を優しく、しかし力強く包み込んだ。

その手は温かく、拒絶の余地を与えなかった。

「ダメですよ、ここで服を脱いだら。肌寒いですし、お身体に障ります。ほら、こちらへ座って、少し休んでいきましょうね」

「放してくれ……! 病院なんだから、血液検査とか、レントゲンをとってくれよ! 身体の構造が変わってるんだ!」

「わかりました、わかりましたから。まずは看護師とお話ししましょうね。お名前、別のお名前でお呼びしたほうがよろしいですか? 普段のお名前は?」

「佐藤悠人だと言っているだろ!」

いくら叫んでも、言葉は「狂った女の妄想」として処理されていった。

受付女性も、駆けつけてきた看護師も、全員が心底親身になって悠人を心配していた。

誰一人として悠人を害しようとしていない。

その圧倒的な「善意」と「配慮」が、悠人の存在そのものを外側から押し潰していく。

診察室に通されたが、医師の対応も同じだった。

医師は悠人の脈を測り、胸に聴診器を当てた。

冷たい金属が乳頭の近くに触れた時、悠人は小さく悲鳴を上げたが、医師は慣れた手つきで作業を続けた。

「心音に異常はありませんね。ホルモンバランスの乱れや、強いストレスによる解離症状の可能性があります。最近、大きな環境の変化はありましたか?」

「先生、私の体を見てください! 骨盤も、胸も、全部男のものじゃないんです!」

「佐藤さん……いえ、ご家族の方の免許証をお持ちのようですが、まずは精神的な安息が必要です。お一人でお住まいですか? どなたかご家族を呼びましょうか」

「僕が、佐藤悠人本人なんです……!」

「証明書と現在の身体的性別が一致しないケースは、書類の誤記載か、ご本人の認知の問題であることがほとんどです。身体的な異常数値は出ていません。血液検査の簡単な項目も見てみましょうが、今日はお薬を出しますから、暖かくして休んでください」

採血のために腕を捲り上げられた。

注射針が刺さる瞬間、腕の皮膚の柔らかさが目に入った。

かつて浮き出ていた血管は脂肪の奥に沈み、皮膚にはハリがなく、わずかにたるんでいた。

渡されたのは、精神安定剤と漢方薬だった。

支払いを済ませ、薬局で薬を受け取るまでの間、悠人は待合室の椅子に深く沈み込んでいた。

お尻の肉が分厚いため、プラスチックの椅子に座っても骨が当たらない。

その柔らかさが、耐えがたいほど気持ち悪かった。

病院を出ると、パステルカラーの空はすっかり濃い紫に染まっていた。

最初の抵抗——医学的・公的な証明によって自分の異常を訴える試みは、完全な失敗に終わった。

失敗の理由は、周囲の冷淡さではなく、あまりにも温かい「善意」だった。

彼らは悠人を狂人として排除するのではなく、「精神的に参っている可哀想な女性」として完璧に保護し、受け入れてしまったのだ。

歩道橋の階段を上る時、太ももの裏側がだるく重かった。

一段上るごとに、胸の肉が上下に揺れ、ブラジャーをしていない胸の皮膚が擦れてヒリヒリと痛む。

手すりに掴まらなければ、バランスを崩して転びそうだった。

ふと、歩道橋の上から見下ろす街の街灯が、星のように見えた。

屋根裏部屋から見ていたあの美しい星空。

天女が舞っていたという、あの夢のような時間。

「……何が天女だ」

悠人は掠れた声で呟いた。

天女の舞がもたらしたものは、平和でも調和でもない。

ただの、重く、惨めで、取り返しのつかない肉体の変貌だった。

家に戻り、玄関の鍵を閉めた。

暗い廊下に立ち、自分の胸を揉む。

掴んだ肉の感触は、どこまでも柔らかく、どこまでも他人のものだった。

服を脱ぎ捨て、風呂場へ向かう。

鏡を見ないようにしながらシャワーを浴びたが、お湯が身体を流れる感触だけで、自分の輪郭が変わってしまったことが嫌でも分かった。

胸から下腹部にかけてお湯が伝う軌道が、以前と全く違う。

くびれたウエストと、その下に広がる大きな骨盤。

股間にお湯が当たる感触は、ただ平坦で、空虚だった。

風呂から上がり、鏡を避けて部屋に戻る。

机の上には、昨日まで書いていた天文学のノートが開かれていた。

そこには、自分が手書きで書いた計算式や、星図のスケッチが並んでいる。

悠人はペンを握り締め、ノートの余白に「僕は佐藤悠人だ」と書こうとした。

しかし、指先に力が入らない。

ペンの持ち方すら、太く丸くなった指のせいでぎこちなくなっていた。

書かれた文字は、以前の自分の筆跡とは似ても似つかない、頼りなく丸みを帯びた文字だった。

身体は戻らない。

声も戻らない。

社会における「佐藤悠人」という男性の立場は、今日、あの病院の受付で永遠に失われた。

悠人は床に倒れ込み、胸の重みに押し潰されるようにして横たわった。

畳の匂いが鼻をつく。

肋骨を圧迫する自分の乳房の重さを感じながら、悠人は暗闇の中でじっと目を開けていた。

涙は出なかった。

ただ、下腹部の奥あたりに、消えることのない冷たい痛みが、鈍く居座り続けていた。

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