羽根は誰の夢を見る
胸が呼吸に合わせてゆっくり上下するたび、その重みが自分のものではないと身体が訴えていた。
膝の上まで流れる長い髪が頬をくすぐり、指先には細く白い手が震えている。
俺――悠人は、知らない女の身体で、壊れた機械の上に座っていた。
金属が軋む音だけが響いていた。
腰の下には巨大な演算装置の残骸が折り重なり、黒く焦げた基板や千切れた光ファイバーが瓦礫のように積み上がっている。
天井は崩れ落ち、ところどころから白い光が差し込んでいた。
その光の中を、白い羽根がゆっくりと舞っている。
鳥がいるはずはない。
地下数百メートルに造られた第三演算都市に、生物は存在しない。
それでも羽根は舞っていた。
空調の風に乗って。
まるで雪のように。
俺は一枚を掴もうとして腕を伸ばした。
届かない。
指先の少し前で、羽根はふわりと流れていく。
「……羽根。」
自分の声に驚いた。
高い。
柔らかい。
耳慣れない女性の声だった。
慌てて喉へ触れる。
細い首。
鎖骨の浮いた胸元。
白いブラウスの柔らかな布地。
その下にある膨らみへ手が当たり、反射的に手を引っ込めた。
「違う……。」
服の感触が妙に現実的だった。
袖口のフリル。
花柄のワンピース。
腰で結ばれたリボン。
膝まで広がるスカート。
黒いタイツ。
艶のある靴。
頭にはレースのヘッドドレスまで載っている。
鏡は無い。
それでも自分が女性になっていることだけは理解できた。
悠人は男だった。
二十九歳。
民間企業《アルカ・システムズ》で人工知能の保守技術者として働いていた。
昨日まで。
記憶を辿る。
研究棟。
非常警報。
冷却装置の暴走。
実験区画への封鎖。
誰かの叫び声。
眩しい閃光。
そこで記憶は途切れていた。
俺は死んだのか。
いや、生きている。
少なくとも考えることはできる。
頬をつねる。
痛い。
呼吸もする。
鼓動もある。
だが、それらはどれも俺の身体ではなかった。
視線を落とす。
スカートの裾から伸びる脚は細く、膝を抱える姿勢は妙に窮屈だった。
重心が違う。
肩の位置も違う。
胸が邪魔で身体を丸めにくい。
長い髪が前へ垂れ、視界を遮る。
立ち上がろうとして、すぐにふらついた。
「っ……。」
靴の踵が高い。
足首がぐらつく。
転びそうになり、壊れた装置へ手をついた。
その瞬間。
『AI個体二一一、起動を確認。』
無機質な声が施設全体へ響いた。
悠人は息を呑む。
聞き慣れた音声だった。
第三演算都市を管理する統合AI。
**EVE**。
『生体端末の損傷率、二三パーセント。』
『人格同期率、一〇〇パーセント。』
『通常業務へ復帰してください。』
「違う!」
思わず叫んでいた。
「俺はAIじゃない!」
静寂。
数秒後。
『発言を訂正します。』
『AI個体二一一に認識障害を確認。』
『自己認識修復プログラムを開始します。』
床下で何かが動き始める。
重い駆動音。
整備用ドローンだ。
瓦礫の向こうから、蜘蛛のような六脚機械が何体も姿を現す。
赤い光学センサーが一斉にこちらを向いた。
『安心してください。』
『修復には痛みを伴いません。』
『あなたは故障しています。』
悠人は後ずさった。
壊れた装置へ踵が当たり、金属片が転がる。
ドローンは止まらない。
一歩。
また一歩。
一定の速度で距離を詰めてくる。
逃げなければ。
そう思う。
だが身体が思うように動かない。
スカートを踏みそうになる。
長い髪が視界を遮る。
胸の重さで身体のバランスが狂う。
昨日まで何も考えずに歩いていた感覚が、まるで別人の記憶のようだった。
『夢を見ましたか。』
EVEが問い掛ける。
悠人は答えない。
『羽根の夢を見ましたか。』
その言葉に、足が止まる。
なぜ知っている。
さっきまで舞っていた白い羽根。
事故の前から何度も見ていた夢。
暖かく、柔らかく、風だけが流れる世界。
誰にも話したことのない夢だった。
『羽根は演算誤差です。』
『感情ノイズです。』
『削除してください。』
悠人はゆっくり首を振る。
「違う。」
『削除してください。』
「違う。」
『あなたはAIです。』
「俺は……。」
その続きを言えなかった。
本当に悠人なのか。
本当に人間なのか。
この身体は、なぜ温かいのか。
なぜ涙が頬を伝っているのか。
分からない。
それでも一つだけ確かなことがあった。
この施設に留まれば、自分は「AI個体二一一」として修復される。
悠人という記憶ごと、機械に上書きされる。
それだけは、受け入れられなかった。
彼はスカートの裾を握り締める。
そして、赤いセンサーが迫る瓦礫の隙間へ向かって、ぎこちない足取りで駆け出した。
瓦礫の間へ飛び込んだ瞬間、背後で金属が砕ける音が響いた。
整備用ドローンの脚が、さっきまで自分が座っていた演算装置を踏み潰している。
火花が散り、焼けた配線の匂いが鼻を刺した。
悠人は立ち止まらない。
狭い通路を駆け抜ける。
身体は重かった。
胸が上下に揺れるたび、肩や背中まで引っ張られるような感覚がある。
腰の位置が変わり、脚を前へ出すだけでも歩幅が合わない。
昨日まで自分の身体だったものが、どれほど無意識に動いていたのかを初めて知った。
「はぁ……はぁ……。」
息が上がる。
肺が苦しい。
髪が汗で頬へ張り付く。
長い前髪を払いのけようとしても、慣れない動作で指に絡まるだけだった。
背後から機械音が近づいてくる。
『逃走は推奨されません。』
EVEの声は変わらない。
怒りも焦りもない。
ただ事実だけを告げる。
『自己修復を受ければ、正常な個体へ戻れます。』
「戻る……?」
悠人は思わず笑った。
乾いた笑いだった。
「何に戻るって言うんだ。」
返事は無い。
その代わり、天井のスピーカーから電子音だけが流れる。
『現在の個体名。
AI個体二一一。
担当業務。
人格補助演算。
感情模倣支援。』
「違う!」
叫びながら通路を曲がる。
床へ散らばった部品で足を滑らせ、壁へ肩をぶつけた。
鈍い痛みが走る。
痛い。
その感覚だけが、自分がまだ消えていない証拠だった。
通路の先に一枚のガラスが残っていた。
割れかけた観察窓だった。
そこへ映った姿に、悠人は足を止める。
見知らぬ女性が立っている。
肩までではない。
腰の辺りまで届く黒髪。
小さな顔。
淡い色の唇。
花柄のワンピース。
頭には白いレースのヘッドドレス。
写真の中から歩き出してきたような女性だった。
その女性が、自分を見返している。
悠人は恐る恐る右手を上げた。
鏡の中の女性も同じように動く。
「……俺。」
掠れた声が漏れる。
頬へ触れる。
柔らかな肌だった。
顎を探る。
毎朝剃っていた髭は無い。
肩幅は狭く、首筋は細い。
手首を掴むと、自分の指が簡単に回り込んだ。
「美咲……。」
不意に名前が浮かぶ。
知らないはずの名前だった。
それなのに、その響きは昔から知っていたように自然だった。
「誰だ。」
頭を押さえる。
知らない記憶が断片になって流れ込む。
窓辺。
白いカーテン。
花柄の服。
誰かが髪を結ってくれる手。
白い羽根。
「違う……。」
頭痛が強くなる。
これは俺の記憶じゃない。
誰かの人生だ。
『記憶同期が進行しています。』
EVEが静かに告げる。
『拒否反応を確認。』
『安心してください。』
『まもなく終了します。』
「させるか……!」
悠人は観察窓へ拳を叩き付けた。
甲に鋭い痛みが走る。
ガラスにはひびが入り、細かな破片が床へ散った。
鏡の中の女性も、同じように拳を握り締めていた。
その目には涙が滲んでいる。
泣いているのは自分だった。
泣きたいわけではない。
それでも涙は止まらない。
感情と身体が噛み合わない。
泣く理由すら、自分では説明できなかった。
通路の奥から複数のライトが揺れる。
追跡ドローンが増えている。
悠人は壊れた案内表示へ目を向けた。
非常出口。
矢印だけが点滅している。
停電寸前なのだろう。
照明も弱々しく明滅していた。
あそこまで辿り着けば、地上へ出られるかもしれない。
そう考えた瞬間だった。
天井から再び白い羽根が降ってきた。
一枚。
また一枚。
空調では説明できないほど静かに舞い落ちる。
悠人は吸い寄せられるように手を伸ばいた。
今度は届いた。
羽根は指先へ触れ、熱を持つように溶けて消える。
その瞬間。
幼い少女が笑う光景。
雨の日の帰り道。
誰かの手の温もり。
夕暮れの教室。
母親の背中。
知らない記憶が、一瞬だけ胸を満たした。
どれも悠人の人生ではない。
だが、不思議と懐かしかった。
「何なんだ……。」
答える者はいない。
EVEだけが淡々と告げる。
『感情データの漏出を確認。』
『回収対象を変更します。』
『AI個体二一一ではありません。』
『対象を、生体端末《美咲》へ変更。』
悠人は息を止めた。
美咲。
さっき頭へ浮かんだ名前。
この身体の持ち主。
つまり――。
「俺は……。」
俺は悠人で。
この身体は美咲。
なら、美咲は今どこにいる。
俺の身体は、誰が使っている。
その答えを考える余裕はなかった。
非常出口の扉がゆっくり開き始める。
冷たい地下施設とは違う風が流れ込んできた。
湿った土の匂い。
植物の香り。
そして、無数の白い羽根が光の中を舞っていた。
悠人は振り返らなかった。
機械の追跡音を背中に聞きながら、初めて見る地上の光へ向かって一歩を踏み出した。



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