写真家の女性と男性の入れ替わり

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影を写すひと

瞼を開けると、胸元が重かった。

起き上がろうとすると、身体の重心が遅れてついてきた。

鏡には、知らない女がこちらを見返していた。

悠人は声にならない息を漏らした。

喉から出た声は高く、細かった。

慌てて口を押さえる。

細い指だった。

爪は短く整えられている。

昨日まで見慣れていた節ばった手ではない。

布団を払いのける。

胸が揺れた。

その感覚が遅れて脳へ届く。

何かが身体の前側へぶら下がっている。

それだけで姿勢が変わる。

背中が自然と反った。

違う。

反らされている。

寝間着の襟元から覗く白い肌を見て、悠人は目を逸らした。

見覚えがない。

他人の身体だった。

夢だと思った。

そう思い込もうとした。

だが、畳の冷たさも、障子から差し込む朝日も、現実そのものだった。

部屋も知らない。

家具も知らない。

壁際には古い一眼レフカメラが置かれていた。

その隣には何冊もの写真集が積まれている。

机の上には女性物の財布。

鏡台。

髪留め。

読みかけの文庫本。

誰かの日常が、そのまま残されていた。

悠人は鏡の前へ立つ。

肩まで届く茶色い髪が揺れる。

前髪は目元を隠すほど長い。

顔立ちは三十代半ばほどに見えた。

若くはない。

だが年齢を隠そうともしていない。

生活の積み重ねが、そのまま肌へ残っていた。

頬へ触れる。

柔らかい。

しかし指先へ返ってくる感触は自分のものではなかった。

鏡の向こう側で、知らない女性が同じ動きをする。

悠人は目を閉じた。

深呼吸をする。

吸い込む空気が浅い。

胸郭が昨日までと違う動きをする。

肺が小さくなったような錯覚だけが残る。

落ち着こうとした。

考えれば理由が分かるかもしれない。

昨夜。

仕事を終えて帰宅した。

編集部から依頼された街並みの撮影だった。

その帰り道。

駅前で一人の女性と肩がぶつかった。

カメラを抱えた女性だった。

互いに謝り、数秒だけ目が合う。

それだけだった。

それ以外は思い出せない。

頭痛がした。

考えようとするたび、記憶がそこで途切れる。

玄関のチャイムが鳴った。

悠人は身体を強張らせる。

もう一度鳴る。

恐る恐る扉を開く。

そこには、自分が立っていた。

正確には。

昨日まで自分だった身体が立っていた。

「……悠人?」

男が言う。

その声は震えていた。

悠人は返事ができなかった。

男は数秒こちらを見つめたあと、小さく息を吐く。

「やっぱり……。」

その一言だけで理解した。

目の前にいる男も、自分と同じだった。

「あなた……美咲さん?」

悠人が尋ねる。

男は頷いた。

「そう。」

「私は、美咲。」

「あなたが悠人。」

短い沈黙が落ちる。

互いに互いの身体を見ていた。

見ているというより、確認していた。

現実であることを。

「戻らない。」

美咲が静かに言う。

「朝から何度も試した。」

「夢なら覚めると思った。」

「でも、何も変わらない。」

悠人は壁へ寄りかかった。

膝に力が入らない。

胸の重さが呼吸を邪魔する。

座るだけでも脚の閉じ方を意識してしまう。

そんなことを考える自分が嫌だった。

「病院へ行こう。」

悠人が言う。

「警察でもいい。」

「何でも。」

美咲は首を振る。

「説明できる?」

答えられなかった。

誰が信じるだろう。

身体だけが入れ替わったなど。

検査を受けても、結果は「美咲」という女性になるだけだ。

戸籍も指紋も顔も。

全部、美咲だった。

悠人という人間は、目の前に立っている男になってしまった。

美咲は部屋の隅に置かれたカメラへ目を向けた。

「それ。」

「私の。」

悠人も視線を追う。

黒い一眼レフ。

何年も使われた傷が残っている。

「写真を撮るの?」

「仕事じゃない。」

「趣味。」

「誰にも見せたことはない。」

美咲は少しだけ笑った。

だがその笑みは、悠人の顔で浮かんでいた。

奇妙だった。

鏡を見ているようで、鏡ではない。

「私、自分を写せないから。」

「いつも風景だけ。」

その言葉が、悠人の耳に引っかかった。

「自分を写せない?」

「写したくない。」

美咲はそう言って、カメラを静かに撫でた。

その指先だけが、不思議なほど自然に見えた。

部屋の中で唯一、身体ではなく、その仕草だけが彼女自身のものだった。

美咲はカメラを手に取る。

黒い塗装は角が擦れ、金属がのぞいていた。

毎日持ち歩いてきた道具なのだろう。

悠人はそれを受け取る。

意外なほど手になじまなかった。

男だった頃の癖で片手に重さを預ける。

しかし手首が支えきれず、わずかに傾いた。

「重い……。」

思わず漏れた声に、美咲が小さく頷く。

「その身体だと、長時間は結構つらい。」

悠人はストラップを首へ掛ける。

肩へ食い込む重みよりも、その下で胸が押される感覚の方が気になった。

身体のどこへ道具を収めても、何かが邪魔になる。

自分の身体なのに、自分の居場所がない。

「……こんなものまで違うのか。」

美咲は何も答えなかった。

答えられなかった。

沈黙だけが部屋へ積もる。

窓の外では、近所の子どもたちの声が聞こえた。

生活は変わらず流れている。

変わったのは、この部屋の中だけだった。

「戻る方法を探そう。」

悠人が言う。

「原因を見つければ、何かあるかもしれない。」

「昨日ぶつかった場所も調べる。」

「警察でも病院でも、片っ端から。」

美咲は少し考え、静かに首を横へ振る。

「探してもいい。」

「でも、その前に。」

彼女は机の上のスマートフォンを指差した。

「今日から、その身体は私として生きる。」

「仕事も。」

「銀行も。」

「家族も。」

「全部。」

悠人は画面を見る。

通知が何十件も並んでいた。

職場からの連絡。

母親からの着信。

宅配便の通知。

どれも、美咲へ向けられたものだった。

そのどれにも、悠人は答えられない。

「私も同じ。」

美咲は悠人だった身体を見下ろす。

「今日から私は、悠人になる。」

その言葉は諦めではなかった。

現実を確認しているだけだった。

悠人は初めて気付く。

美咲は泣いていない。

怒ってもいない。

感情を押し殺しているのでもない。

ただ、起きてしまった出来事として整理しようとしていた。

その姿勢が、かえって痛々しかった。

「仕事、休めないの?」

「休める。」

「でも一日だけ。」

「明日も休んだら、理由を聞かれる。」

悠人も自分の仕事を思い出す。

編集部への納品。

締め切り。

担当編集。

昨日まで当たり前だった予定が、一瞬で他人事になっていた。

美咲はメモ帳を取り出す。

「生活を書こう。」

「癖も。」

「家族も。」

「仕事も。」

「覚えられるだけ。」

二人は向かい合って座る。

互いの人生を説明する時間が始まった。

好きな食べ物。

苦手な人。

通勤経路。

暗証番号ではなく、財布をどこへ置くか。

歯ブラシを右へ戻す癖。

洗濯物を干す順番。

写真の保存場所。

話せば話すほど、人間は細かな習慣で出来ていると分かった。

身体だけではない。

生活そのものが、その人間だった。

昼を過ぎる頃には、二人とも疲れ切っていた。

覚えることが多すぎた。

何より、自分ではない人生を暗記する行為そのものが苦しかった。

帰ろうとして、美咲が玄関で立ち止まる。

「一つだけ。」

「お願い。」

「何?」

「私の写真。」

「見ないで。」

悠人は少し驚いた。

「どうして。」

美咲は視線を床へ落とす。

「自分でも見たことがないから。」

「撮るだけ。」

「現像もする。」

「でも、人には見せない。」

「自分にも。」

悠人は理解できなかった。

写真を撮るのに見ない。

残すのに見せない。

矛盾しているように思えた。

それでも、美咲の表情を見て、それ以上は聞けなかった。

「分かった。」

その一言だけ返す。

美咲は小さく頭を下げた。

玄関の扉が閉まる。

部屋には静けさだけが残った。

悠人はカメラへ視線を向ける。

黒いボディには、使い込まれた指の跡が残っていた。

何気なく電源を入れる。

液晶には、最後に撮影された一枚が表示される。

古いコンクリートの壁だった。

人物はいない。

空もない。

ただ壁だけが写っている。

その下に、小さな影が伸びていた。

撮影者の影だった。

顔は写っていない。

身体もほとんど分からない。

影だけが、そこに立っていた。

悠人はしばらく画面を見つめる。

自分ではない誰かが残した影。

それなのに、不思議と写真の中の人物は、美咲そのもののように思えた。

彼女は自分の顔ではなく、影だけを残していた。

存在を隠しながら。

存在だけは消えないように。

悠人はカメラの電源を切る。

部屋の壁へ目を向ける。

夕日が障子を透かし、細い影を落としていた。

その影は、肩まで伸びた髪の輪郭を持っていた。

もう男だった自分の影ではない。

影だけは嘘をつかなかった。

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