顔のない女の絶望
喉の奥から絞り出した声は、自分の耳に届く前に妙に高く、湿った響きを持って空気に消えた。
起き上がろうとした視界がいつもより10センチ近く低く、何より、胸元にまとわりつく二つの不均等な肉の塊が、寝返りを打つだけの動作をひどく億劫にさせている。
寝間着の胸ポケットがあったはずの場所は、内側から張り出した重みに押し潰され、ただの布の皺に変形していた。
「あ、――っ」
もう一度声を漏らしてみる。やはり違う。
自分の声ではない。
低く、少し掠れた、聞き慣れたあの34歳の男の響きはどこにもなかった。
代わりに鼓膜を震わせたのは、輪郭のぼやけた、しかし確実に成熟した大人の女性の息遣いだ。
悠人は、寝返りを打つだけで、自分の身体が驚くほど非効率な質量に支配されていることに気づいた。
起き上がろうと床に手を突く。
その拍子に、胸元の肉が重力に従って床の方へと垂れ下がり、皮膚が不快に引っ張られる感覚が走る。
ただ起き上がる、それだけの動作に、これまでは必要のなかった「重心の計算」を強いられるようだった。
身体が重い。
筋肉の付き方が根本から変わってしまったかのように、四肢の末端まで力が伝わるのにわずかなタイムラグがある。
「なんだ、これ……」
視線を下に落すと、見覚えのない薄緑色の寝間着の合わせが、胸の膨らみによって不自然に押し広げられていた。
そこから覗く鎖骨は妙に細く、しかしその下にある肉は、決して「美少女」のような瑞々しいものではなかった。
どこか皮膚に張りがなく、生活の疲労を吸い込んだような、30代半ばの生々しい女性の肉体。
四顧を巡らせる。
そこは悠人が暮らす、万年床と脱ぎ散らかした衣服、コンビニの空き容器が散乱した木造アパートの一室ではなかった。
埃ひとつ落ちていない、妙に整えられた和室だ。
壁には、黒と金を基調とした着物のイラストが何枚も飾られている。
いや、イラストというよりは、日本画に近い。
華やかな髪飾りに花を散りばめた髪型、それらは緻密に描かれているにもかかわらず、その中心にあるべき「顔」だけが、白い背景に黒い筆の跡を残したまま、ぼやけて綺麗に消え去っていた。
異様な光景だった。
だが、それ以上に自分の身体の異変が悠人の思考をパニックに陥らせる。
階を這うようにして部屋の隅にある姿見の前へと移動した。
立ち上がろうとしたが、骨盤の幅が広くなったせいか、足の踏み出し方が分からない。
膝が内側に入り、太ももの内側の肉が擦れ合う。
その感覚一つ一つが鬱陶しく、不快だった。
ようやく鏡の前にへばりつくようにして立ち上がる。
鏡に映っていたのは、自分ではなかった。
目元に薄い隈があり、少し乾燥した唇、整えられてはいるがどこか疲弊した空気を纏った、35歳の女性――かつての恋人であり、いつの間にか自分の前から姿を消した「美咲」の姿だった。
「美咲……? なんで、俺が……」
悠人は自分の顔を触ろうと手を伸ばした。
鏡の中の美咲も同じように手を伸ばす。
細い指先が、少しカサついた頬に触れる。
その感触は、間違いなく悠人の脳に「自分の皮膚の感覚」としてフィードバックされた。
その時、奇妙な現象が起きた。
鏡を凝視していると、美咲の顔のパーツ――目、鼻、口の輪郭が、まるで水に落とした墨のようにじわじわと滲み、ぼやけていくのだ。
壁に飾られたあの絵と同じように、顔だけが背景の白に溶けていくような錯覚。
悠人は激しく瞬きをした。
すると、一瞬だけ美咲の顔が戻る。
しかし、少し気を抜くと、またその輪郭は失われそうになる。
恐怖で心臓が早鐘を打った。
だが、その鼓動すらも、胸元の厚い肉の層に阻まれない、どこか遠くで響いているように感じられる。
呼吸を整えようと深く息を吸い込むと、胸が大きく上下した。
その重量感が、これが夢ではないことを無慈悲に告げていた。
ファンタジーのような「美少女化」でもなければ、「若返り」でもない。
ただ、他人の、それも年齢相応にくたびれた女性の肉体を丸ごと押し付けられただけの、極めて物理的で不条理な現実。
悠人は鏡から目を背け、部屋の中央にある文机へと向かった。
畳の上を歩くたびに、胸の肉が上下に揺れる。
その微小な振動が、歩行のテンポを狂わせ、精神を摩耗させる。
男性の時には意識すらしたことのなかった「胸の重み」というものが、これほどまでに動作の邪魔になるものだとは思いもしなかった。
机の上には、一本の筆と墨、そして数枚の和紙が置かれていた。
そのうちの一枚に、見覚えのある、しかし少し震えた文字で言葉が綴られていた。
美咲の筆跡だった。
『あなたは、私の作品です。私は、あなたの顔を描くことができません。あなたの顔は、私の想像力の中にしかありません。あなたは、私の想像力の中で生きています。あなたは、私の想像力の中で死みます。』
悠人はその紙を震える指で掴み取った。
裏返してみる。
そこには、何かの署名のようなものがあった。
しかし、墨が激しく掠れており、あるいは意図的に塗り潰されたのか、完全に判読不能になっていた。
辛うじて「作:――」という文字の痕跡だけが残っているが、名前の部分は黒い染みにしか見えない。
「作品……? 俺が? 意味が分からない……」
悠人は紙を床に落とした。
その時、畳の上に落ちた紙を見下ろしながら、悠人の脳裏に、かつて自分がネットの海で消費した、あるいはどこかで見かけた「作者不明の和風ホラーイラスト」の記憶がよぎった。
顔のない、着物姿の女。
あの不気味な絵のタッチは、今この部屋の壁に飾られているものと酷似している。
自分はあの絵を、ただの「記号」として、あるいは安直な娯楽として眺めていたのではなかったか。
その「顔のない女」の枠組みに、今度は自分が嵌め込まれている。
「嫌だ、ふざけるな! 私は、俺は本物の人間だ! 自分の顔を、俺の身体を返せ!」
声を張り上げて叫んだ。
だが、口から出るのはやはり美咲の、どこか掠れた大人の女性の声だけだ。
叫べば叫ぶほど、喉の奥がヒリつき、胸が激しく上下して息が切れる。
体力が驚くほどない。
少し叫んだだけで、頭に血が上り、めまいがした。
目元が熱くなり、視界が歪む。
涙が溢れて頬を伝うのが分かった。
悠人はそれを拭おうと、手の甲で手当たり次第に顔を擦った。
しかし、いくら擦っても、自分の本当の顔の感触――無精髭の生えた硬い顎や、広い額――は戻ってこない。
鏡をもう一度見やる。
涙を流しているはずの美咲の顔は、やはり霧が立ち込めたようにぼやけていた。
涙の雫がどこから流れ落ちているのかさえ、視覚的には判別できない。
ただ、濡れた皮膚の冷たさと、塩分の染みる感覚だけが、執拗に脳に突き刺さる。
これが「入れ替わり」なのだとしたら、自分の本物の身体はどこへ行ったのだろうか。
悠人は自分のアパートに残してきたはずの、冴えない、しかし使い慣れた男の肉体を思った。
あの身体に戻りたい。
どれほど不格好で、社会的に無価値な男であったとしても、自分の重心、自分の声、自分の顔を持っていたあの場所に。
しかし、この身体に満ちている生活感と重さは、これが一時的な錯覚などではないことを冷酷に示していた。
足の指先が妙に冷える。
エアコンの風が、薄い寝間着の生地を通して、直接肌を冷やしていく。
悠人はたまらず、自分の両腕で自分を抱きしめるようにして蹲った。
その際にも、腕が胸の膨らみに乗り上げ、肉の柔らかさと重さが、嫌悪感とともに掌に伝わってくる。
快楽など微塵もない。
そこにあるのは、ただ異物を四六時中身にまとわされているという精神的な拷問と、自由の利かない肉体への絶望だけだった。
どれほどの時間が経っただろうか。
部屋の静寂を破るように、冷徹な電子音が響き渡った。
美咲の、いや、今や悠人がまとっているこの肉体のスマートフォンが、机の上で激しくバイブレーションを開始したのだ。
画面に表示された名前は「里奈」。
悠人はその画面を見つめたまま、動くことができなかった。
この電話に出れば、自分は本格的に「美咲」という他人の人生の歯車に、否応なく巻き込まれていくことになる。
戻るための方法など何も分からないまま、時間はただ不可逆的に、前へと進ようとしていた。



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