水と空の融和
瞬きをするたび、瞼の裏がじっとりと張り付くような粘り気を感じた。
喉の奥からせり上がるのは空気ではなく、生臭い川底の泥の匂いで、自分の指先を見ると、爪の隙間から見たこともない透明な分泌液が滲んでいた。
股の間にあったはずの、確かな重みと窮屈さが、完全に消失している。
悠人がその異変を自覚したのは、夕暮れ時の貯水池のほとりだった。
視界の高さがいつもと違う。
アスファルトの地面が妙に近く、首を少し動かすだけで、景色がぐらりと不自然に揺れた。視界の端には、白く細い、自分のものとは思えない腕が伸びている。
指先を動かそうとすると、脳から送られた神経のパルスが途中でひどく歪み、ほんの数センチ指を曲げるだけで、前腕の裏側の筋肉が引き攣るような鈍い痛みが走った。
「……あ」
声を出そうとした。しかし、喉から漏れ出たのは、耳の奥をキリキリと金属で引っ掻くような、甲高い不快な音だった。
自分の声ではない。その音の振動が、頭蓋骨を内側から激しく揺さぶり、ひどい眩暈が悠人を襲った。
数分前まで、悠人は確かに自分の足で歩いていたはずだった。
部活の帰り道、地元の人間さえ滅多に近づかない、鬱蒼とした雑木林に囲まれた古い貯水池。
その濁った水面に、何か「白いもの」が浮いているのが見えた。
粗大ゴミか、あるいは動物の死骸か。
そう思って覗き込んだ瞬間、水面が爆発したように跳ねた。
水飛沫の向こうから伸びてきた、濡れた白い手。
冷たい粘膜のような感触が悠人の手首を掴み、強烈な力で引きずり込まれそうになった。
抵抗しようと踏ん張った足が泥に滑り、視界が上下反転する。
強烈な水の冷たさと、耳にこびりつくような奇妙な鳴き声。
――そして、気がついたときには、底の抜けた暗闇の向こう、この這いつくばった姿勢のまま、乾いた地面に取り残されていた。
「ウ、……、ァ」
もう一度声を絞り出そうとしたが、やはりまともな言葉にならない。
息を吸い込むと、肺の容積が以前の半分ほどに縮んだかのような、圧倒的な酸素不足に陥った。
胸のあたりが酷く圧迫されている。
見下ろすと、自分の身体には、ひどく薄手で安物の、白いセーターとショートパンツが巻き付いていた。
その衣服の奥にある皮膚が、異様に過敏だった。
繊維の一本一本がヤスリのように肌を擦り、動くたびにピリピリとした痛みが走る。
さらに、腰のあたりに得体の知れない「質量」があった。
恐る恐る手を後ろに回すと、衣服を突き破るようにして、細長く肉厚な突起物が伸びている。
猫のそれによく似た、しかし毛並みはゴワゴワと硬く、皮膚の延長線として生々しく脈打つ「尾」だった。
可愛いとか、幻想的とか、そんな猶予のある感情は一切湧かなかった。
ただひたすらに、気味が悪かった。
背骨の末端に、意思とは無関係に動く肉の塊が追加されているという事実。
それを認識した瞬間、激しい嘔吐感がこみ上げ、悠人は這いつくばったまま、泥交じりの唾液を地面に吐き出した。
「おい、大丈夫か」
背後から、不意に声がした。
聞き覚えのある、しかし酷く濁って聞こえる声。
ゆっくりと首を回す。
骨格の噛み合わせが悪いのか、首を傾けるだけでピキリと嫌な音が鳴った。
そこに立っていたのは、ユウキだった。
悠人の叔父であり、この地域の環境管理員として貯水池の巡回を行っている男だ。
作業着を着たユウキは、不審そうにこちらを見下ろしている。
だが、ユウキの視線は、悠人の顔ではなく、その少し先に向いていた。
悠人が釣られて視線を動かす。
貯水池の柵を乗り越え、よろよろと立ち上がろうとしている「影」があった。
泥まみれの学ラン。
見慣れた、少し猫背の広い背中。
短く刈り込まれた黒髪。
それは、悠人自身の肉体だった。
「悠人? 何やってんだ、そんなところで」
ユウキがそちらに向かって歩き出す。
学ランを着た「悠人の肉体」は、ユウキの声に反応してびくりと肩を震わせた。
しかし、その顔には何の感情も浮かんでいない。
口を半開きにし、焦点の合わない茶色の目で、ただぼんやりとユウキを見つめている。
「……あ、う……」
「悠人の肉体」の口から、掠れた声が出る。
それは悠人がさっきまで使っていた声帯の音だったが、言葉としての意味を完全に失っていた。
まるで、初めて人間の身体を手に入れた獣が、鳴き方を忘れて困惑しているかのような、不気味な弛緩。
悠人は、自分の白い手を伸ばし、ユウキの背中に向かって叫ぼうとした。
違う。そっちじゃない。俺はここにいる。そいつは俺じゃない。
「キ、ィ……、ィィ!」
喉を裂くようにして出たのは、やはり甲高い獣の威嚇音だった。
ユウキがぎょっとしたように振り返る。
その目は、悠人を完全に「異物」として捉えていた。
白く不自然な皮膚、頭部からのぞく獣のような耳、そして衣服から剥き出しになった、泥に汚れた細い足。
「なんだ、お前……。どこから入った」
ユウキの目が、冷酷な警戒の色を帯びる。
管理区域内に侵入した家出少女か、あるいはもっと質の悪い不審者を見る目だった。
ユウキの手が、腰の警棒へ自然と伸びる。
その一連の動作には、人間が害獣を排除するときの、淡々とした生活習慣としての冷徹さがあった。
悠人は、その視線に耐えかねて、反射的に後ろへ跳んだ。
驚くほどの軽さで身体が宙を舞ったが、着地の衝撃を受け止めるだけの筋力がその足にはなかった。
足首が内側にぐにゃりと曲がり、激痛とともに再び泥の中に転がる。
「悠人の肉体」は、その騒ぎに関心を示すこともなく、徘徊する動物のような足取りで、ふらふらと雑木林の向こうへ歩き去っていった。
ユウキは一瞬、その背中を追おうとしたが、目の前で蠢く「美咲」の身体から目を離せないようだった。
「動くな。警察を呼ぶぞ」
ユウキの声が遠くなる。
悠人は、痛む足首を引きずりながら、必死に斜面を這い上がった。
衣服が棘だらけの草に引っかかり、皮膚が裂けて血が滲む。
その血は、以前の自分のような鮮やかな赤ではなく、どこか黒ずんだ、粘り気のある液体だった。
脳の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。
感覚が、この新しい身体に強制的に同期していく。
水面を揺らしていたあの光や色は、もうどこにもない。
視界は一変し、世界の輪郭がひどく鋭利に、そして冷酷に尖って見える。
戻らなければならない、という確信だけが胸を突く。
しかし、どうやって?
自分の肉体は、すでに自分の意志の届かない場所へ、ただの動く器として社会の中に紛れ込んでいってしまった。
夕闇が完全に貯水池を包み込む頃、悠人は自分が「美咲」という歪んだ記号の枠内に、完全に閉じ込められたことを理解し始めていた。
皮膚にまとわりつくセーターの湿気と、足首の鈍痛だけが、これから始まる取り返しのつかない現実の質量として、彼の身体に重くのしかかっていた。



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