永劫轢死のファミリー・プラン
視界の端で、自分のものだったはずの太い指が、アスファルトに血を流す「女の身体」を揺さぶっている。
叫ぼうとした喉から出たのは、肺を圧迫する大きな胸の重みと、粘ついた他人の声帯の震えだけだった。
衝突の衝撃のなかで、上下の感覚と、二十数年付き合ってきた骨格のすべてが歪んで固定された。
網膜に突き刺さるような、平坦で白い太陽の光で悠人は目を覚ました。
起き上がろうとした瞬間、首筋から背骨にかけて、強烈な「重み」が這い回った。
男だった頃の、骨格だけでパッと起き上がれるような軽快さはどこにもない。
寝返りを打つたびに、胸元にある二つの肉の塊が重力に従って左右に流れ、自身の重みで肋骨を圧迫する。
その、油分を含んだ脂肪の塊の存在そのものが、目覚めの瞬間から悠人に「現実」を突きつけていた。
(……また、ここか)
枕元に転がっていたスマートフォンを手に取る。
液晶画面に表示されている日付と時刻、そして未読のメッセージは、これで四度目になる、あの全く同じ文面だった。
『今日は一緒にショッピングに行こうよ。待ち合わせは12時に駅前のカフェで。返事待ってるね』
メッセージの送り主は、母・美咲の高校時代からの友人である女性だった。
美咲はこの日、久しぶりの休日をその友人と過ごす予定だったのだ。
悠人は、美咲の細く、指先の丸い手を使って画面をタップした。
男の記憶にあるフリック入力の感覚と、この小さな手の手指の動かし方が、脳内で不快にズレる。
それでも、もう四度目ともなれば、美咲が使いそうな絵文字を交えた返信の文面を、指先は事務的に作り出すことができた。
「了解。楽しみにしてるね」
送信ボタンを押し、スマートフォンをベッドに放り出す。
シーツから立ち上るのは、洗剤の匂いに混じった、美咲自身の体臭だった。
かつて実家にいた頃、すれ違いざまに微かに香った「母親の匂い」。
それが今では、自分の皮膚の毛穴から、汗や皮脂とともに絶え間なく分泌されている。
その生理的な事実が、悠人の胃の奥をいつも冷たく凝固させた。
悠人はベッドから這い出し、身支度を始めるためにクローゼットを開けた。
今回、選んだのは、これまでの「若作り」への違和感を削ぎ落とした、美咲の年齢に相応しい、かつ成人女性の肉体を酷く強調する衣服だった。
身体のラインを拾いやすい、白いセーター。
腰回りがタイトで、裾に向かってストレートに落ちる、とろみのある黒いナロースカート。
そして、下半身の肉を無理やり補正するための、黒い着圧タイツ。
下着をつける作業は、何度繰り返しても慣れることはなかった。
ブラジャーの細いストラップを肩にかけ、背中のフックを留める。
寄せて集められた胸の脂肪が、カップの中で密着し、熱を帯びる。
その上から白いセーターを被ると、鏡を見るまでもなく、胸元が大きく前方に突き出し、大人の女性特有のなだらかな傾斜を描いているのが感触で分かった。
黒いタイツに足を通し、上へと引き上げる。
ナイロンの強い伸縮性が、太ももや臀部の柔らかい脂肪を容赦なく締め付けていく。
男の硬い筋肉とは違い、いくらでも形を変えてしまう他人の肉を、ひとつの「衣服」という型に押し込んでいるような不気味さがあった。
ウエストのゴムがへその上で肉に食い込み、呼吸をするたびに軽い圧迫感を伝えてくる。
姿見の前に立つ。
そこにいるのは、髪を後ろで緩くまとめ、落ち着いた大人の装いをした、一人の成熟した女性――美咲の姿だった。
セーターの白が胸の容積を強調し、黒いスカートが腰の、男よりも遥かに広い骨盤の横幅を際立たせている。
「……かわいいよ、母さん」
美咲の声帯が鳴らす声は、低く、かすれていて、ひどく肉感的だった。
悠人は自嘲気味に口元を歪めたが、鏡の中の美咲は、ただ疲れた大人の女の表情を浮かべるだけだった。
そこにはフィクションのような瑞々しい美少女化の悦びなどは微塵もなく、ただ「三十代後半の女性として、社会的に適切な格好を整えた」という、生活の義務感だけが漂っていた。
小さな革製のハンドバッグを持ち、悠人はアパートの部屋を出た。



コメント