サプライズの結末
視界の端で、自分のものだったはずの太い指が、アスファルトに血を流す「女の身体」を揺さぶっている。
叫ぼうとした喉から出たのは、肺を圧迫する大きな胸の重みと、粘ついた他人の声帯の震えだけだった。
衝突の衝撃のなかで、上下の感覚と、二十数年付き合ってきた骨格のすべてが歪んで固定された。
夕暮れのアスファルトは、エンジン熱と排気ガスの匂いが混じり合って粘りついていた。
数時間前まで、悠人は自分の人生がこれほど急速に、かつ決定的に損なわれるとは想像もしていなかった。
二十八歳の誕生日。仕事が忙しいと嘘を吐いたのは、サプライズのためだった。
美咲の親友である里奈に協力を仰ぎ、美咲がずっと欲しがっていたブランドの指輪を買い、リビングを飾り付ける。
すべては美咲を驚かせ、プロポーズを受け入れてもらうための段取りだった。
しかし、インターホンが鳴り、ドアを開けた里奈の顔を見た瞬間に、美咲の表情は凍りついた。
疑惑と、裏切られたという確信。それは言葉になる前に、美咲の身体を突き動かしていた。
「何をしているの? あなたは私に嘘をついたの? あなたは私の親友と浮気をしていたの?」
リビングに押し入ってきた美咲の目は、完全に据わっていた。
ソファの脇に置かれた飾り付け用のバルーンや、テーブルの上の花束など、彼女の目には入っていないようだった。
視線はただ、悠人と、その背後にいる里奈の間を往復していた。
「違う、違うんだ。説明させてくれ。これはすべて、君のためのサプライズだったんだ」
悠人は両手を上げて弁解した。
その時の自分の声の低さ、体格の良さ、男としての頼りがいのある骨格を、今の悠人は奇妙なほど鮮明に覚えている。
「サプライズ? どういうサプライズなの? 私の親友と寝て、私を裏切ることがサプライズなの?」
美咲の声は、理性を失った鋭い金属音のようだった。
里奈が「違うの、美咲、これはね」と手を伸ばしたが、美咲はその手を強く振り払った。
「違う! 里奈はただ手伝ってくれただけだ! 指輪だよ、指輪を……美咲、お前にプロポーズするつもりだったんだよ!」
一気に捲し立てた。嘘偽りのない真実だった。
美咲の身体が、一瞬だけ硬直した。
床に落ちた花束の包み紙が、カサリと音を立てる。
彼女の大きな瞳に、後悔と混乱が混ざり合うのが見えた。自分の勘違いに気づき、唇を震わせる。
だが、悠人の側でも、何かが決定的に切れてしまっていた。
なぜ信じてくれなかったのか。
なぜ最悪の想像だけで、自分たちの数年間を汚したのか。
怒りと疲労が、愛情を急速に冷やしていくのを感じた。
「もう遅いよ。君は俺を信じてくれなかった。君は俺の気持ちを踏みにじった。君は俺の大切な人を傷つけた。俺はもう君と一緒にいられない」
吐き捨てた言葉は、自分でも驚くほど冷酷だった。
謝ろうとして伸ばされた美咲の手を、悠人は冷たく振り払い、玄関へと向かった。
背後で里奈が美咲を抱きしめ、「ごめんなさい、私はあなたのことを裏切っていないの」と泣きながら説明している声が聞こえたが、もうどうでもよかった。
駐車場に停めてあった自分のセダンの運転席に乗り込み、フロントガラスを見つめた。
心臓の鼓動が耳の奥でうるさかった。
指輪の入った小さな箱が、センターコンソールの中で虚しく転がっている。
コンコン、と運転席の窓が激しく叩かれた。
見上げると、涙で顔をぐしゃぐしゃにした美咲が立っていた。
彼女は狂ったように窓を叩き、ドアノブを引こうとした。
悠人は前を向いたまま、無視を決め込もうとした。関わりたくなかった。頭を冷やしたかった。
ギアをドライブに入れ、ブレーキペダルを緩める。車体がゆっくりと動き出した。
だが、美咲は諦めなかった。
並走するように走りながら、開かないドアノブに両手でしがみついてきたのだ。
「危ない! 離れろ!」
悠人は窓を開けて怒鳴った。
しかし、美咲の指はドアの隙間やノブに引っかかったまま、引き剥がせそうになかった。
パニックに陥った悠人は、美咲を振り払おうと、運転席の窓から右手を伸ばし、彼女の肩を強く突き飛ばした。
それが、すべての終わりだった。
突き飛ばされた美咲の身体は、慣性に逆らえず、アスファルトの上へと転がった。
鈍い音がした。彼女の頭部が、道路の縁石に直接激突した。
車を急停車させ、悠人は外へ飛び出した。
「美咲! 美咲!」
道路に横たわる彼女の頭部から、黒い血がどくどくと流れ出し、アスファルトを染めていく。
美咲の目は虚空を見つめたまま、焦点が合っていなかった。
悠人は狂ったように彼女の名前を呼び、その冷たくなり始めた手を握りしめた。
ポケットからプロポーズ用の指輪を取り出し、震える手で彼女の左手の薬指にねじ込んだ。
「嘘だ、別れるなんて嘘なんだ。愛してる、愛してるから。結婚しよう、美咲、頼むから目を覚ましてくれ……!」
涙で視界が歪む中、悠人は美咲の血まみれの唇に、必死でキスを繰り返した。
一緒に幸せになろうと、届かない言葉を叫び続けた。さよならなんて言いたくなかった。
その時、握り合っていた手と手の隙間から、奇妙な熱が走った。
視界が急激にねじれ、天地が反転する。
強烈な耳鳴りと共に、脳髄を直接かき回されるような嘔吐感が悠人を襲った。
次に意識が浮上したとき、世界は完全に変わっていた。
強烈な痛みが、頭部の右側から首筋にかけて走っていた。
どろりとした生暖かい液体が、頬を伝って地面に流れていくのが分かる。
(……痛い、何だ、これは)
悠人は目を開けようとしたが、右目は腫れ上がっているのか開かない。
かろうじて開いた左目の視界に映ったのは、すぐ近くの地面に転がっている、見覚えのある銀色のセダンだった。自分の車だ。
そして、その車の脇で、一人の男が膝をついて泣き叫んでいた。
男は短髪で、肩幅が広く、見覚えのあるグレーのシャツを着ている。
男はボロボロと涙を流しながら、誰かの名前を呼んでいた。
「美咲! 美咲! 嫌だ、死なないでくれ!」
その声を聞いた瞬間、悠人の背筋に氷水を浴びせられたような戦慄が走った。
それは、自分自身の声だった。
二十八年間、毎日のように聞いてきた、悠人自身の低く、少しハスキーな声。
男――悠人の姿をした「何か」は、こちらの手を必死に握りしめ、薬指に無理やり金属の輪をはめ込んでいる。
そして、狂ったようにこちらを抱きしめ、唇を押し付けてきた。
男の涙が、悠人の頬にボタボタと落ちる。
男の顔には、言語を絶するような絶望と、歪んだ執着が張り付いていた。
(待て。何をしている。俺はそこにいるのか? じゃあ、いまここにいるのは――)
悠人は自分の右手を動かそうとした。
しかし、脳からの指令に対する肉体の反応が、決定的に遅い。まるで泥水の中で指を動かしているかのような、ひどい肉の重み。
視界に入ってきた右手は、自分のものよりも明らかに細く、白く、しかし爪には見覚えのある淡いピンクのマニキュアが塗られていた。
美咲の、手だった。
「あっ、あ……」
声を出そうとした。
だが、喉から漏れたのは、悠人の知る自分の声ではなかった。
高くて、かすれていて、ひどく肉感的な、大人の女性の呼吸音。
同時に、胸部に耐え難い圧迫感を覚えた。
仰向けに倒れているはずなのに、大胸筋とは明らかに違う、油分を含んだ二つの肉の塊が、重力に従って左右の脇へと流れ、それぞれの重みで肋骨を圧迫している。
呼吸をするたびに、その肉の重みが肺の膨らみを邪魔した。
男だった頃には存在しなかった、骨盤の不自然な広さが、アスファルトとの接地面積を不快に変えていた。
「み、さき……?」
悠人の姿をした男は、こちらが微かに声を漏らしたのを見て、一瞬だけ目を見開いた。
その目に宿っていたのは、愛する者を救ったという安堵ではなく、何か決定的な境界を越えてしまった人間の、濁った光だった。
男は静かに微笑んだ。
それは悠人自身が一度も作ったことのない、酷く哀れで、どこか狂気を孕んだ笑みだった。
「ありがとう。愛してるよ、美咲。ずっと一緒だ」
その言葉を最後に、悠人の姿をした男の瞳から、急速に「知性」のようなものが消えていくのが見えた。
男はそのまま、美咲の身体(中身は悠人)の上に崩れ落ち、動かなくなった。
頭部の痛みが限界に達し、悠人の視界は再び暗転していった。
遠くから、近づいてくる救急車のサイレンの音が、歪んだ残響を伴って聞こえていた。
耳の奥で、骨盤のきしむ音と、自分のものになった脂肪の重い拍動だけが、執拗に繰り返されていた。



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