猫の目は歪んだ鏡
朝、目が覚めると胸の肉が重力に従って左右に流れ、脇の下を圧迫していた。
寝返りを打とうとした悠人は、自分の内腿同士がこれまで経験したことのない柔らかさで擦れ合う不快感に、生理的な嫌悪を抱く。
起き上がろうとした瞬間、重心がこれまでの数センチ上、骨盤の奥に移動していることに気づき、彼はベッドから床へ硬く重い音を立てて転げ落ちた。
「……っ、あ」
床のフローリングに強打した膝と腰から、鈍い痛みが這い上がってくる。
その痛みさえも、かつての自分の骨を伝う硬質な衝撃とは異なり、厚い脂肪の層に一度吸収されてから、じわじわと神経を侵食していくような、ひどく回りくどいものだった。
口から漏れたのは、かすれた、しかし明瞭に高い、見知らぬ他人の声だ。
悠人はしばらく床にうつ伏せのまま、自分の喉から出たその音の残響を、耳の奥で嫌悪とともに咀嚼していた。
入れ替わり、という現象が起きてから、すでに三週間が経過している。
最初は質の悪い夢だと思った。あるいは、何らかの精神疾患による解離性障害の類いか。
しかし、どれだけ強く自分の頬を叩こうが、冷水を浴びようが、世界は一向に元の形に戻らなかった。
それどころか、日を追うごとにこの肉体は、悠人という精神を内側からじわじわと、蟻の行列が砂糖を運ぶようにして削り取り、作り変えつつあった。
悠人は重い腰を上げ、這いずるようにして洗面所へ向かった。
鏡の中に立っているのは、美咲だ。
同じ文学部の推理小説ゼミに所属している、あの美咲の身体だった。
特別に目を引くような美少女というわけではない。
少し面長で、生真面目そうな眉をしていて、連日の寝不足のせいか目の下には薄黒いクマが張り付いている。
成人女性の、ごくありふれた、そして確実に「成熟」へと向かっている肉体。
悠人は洗面台に両手をつき、鏡の中の顔を凝視した。
胸元から覗く鎖骨の線は細いが、その下には男の身体には決して存在しなかった、二つの肉の塊がぶら下がっている。
それは性的な記号などではなく、単に寝返りを打つとき、起き上がるとき、歩くときに、いちいち位置を主張して重心を狂わせる「邪魔な重量物」に過ぎなかった。
走れば痛み、放っておけば肩を凝らせる。
ブラジャーのワイヤーが日常的に肋骨を締め付け、皮膚に赤いミミズ腫れのような痕を残すたび、悠人はこの身体が自分に課す「罰」のようなものを感じていた。
「どうして、お前が」
呟きは、美咲の唇の形をしてこぼれ落ちる。
かつて彼女が好んで着ていた、白い毛糸に黒い猫の顔が編み込まれたセーターが、脱衣所のカゴの上に丸められていた。
その可愛らしい編み目は、今の悠人にとっては、自分をこの肉体の檻に閉じ込めた犯人の嘲笑のようにしか見えない。
悠人は冷水で顔を洗った。
手のひらに触れる皮膚のきめ細かさ、髭の剃り跡のない滑らかな顎の感触が、手の側(それもまた美咲の手なのだが)と顔の側の両方から、同時に「お前はもう男ではない」という事実を突きつけてくる。
タオルで顔を拭き、美咲のスマートフォンを手に取った。
液晶画面をタップすると、ゼミのグループラインの通知が何件も溜まっている。
『悠人、今日も欠席?』
『これで三週間連続じゃん。教授がそろそろ単位危ないって言ってたよ』
『誰か悠人の下宿に見に行った奴いないの? 実家にも連絡つかないらしいよ』
画面に並ぶ「悠人」という文字を見つめる。
それは本来、自分を指す記号だったはずだ。
しかし今、その記号の向こう側にいるはずの「中身が美咲である男の身体」は、完全に消息を絶っていた。
入れ替わりが起きたあの日、大学の近くの古本屋で、美咲が『猫の目』という奇妙な古書を手にした直後、二人の意識は暗転した。
気がついたとき、悠人はこのアパートのベッドで美咲の身体になっており、悠人の携帯に電話をかけても、一切繋がらなくなった。
悠人の本来の肉体はどこへ行ったのか。
美咲は自分の身体を使って、一体どこで何をしているのか。
生存しているのかさえ分からない。
ただ確かなのは、悠人の元々の身体が大学にも実家にも現れていないということだけだ。
「探さないと」
悠人は小さく息を吐き出した。
その呼吸すら、肺活量の少なさのせいで浅く、頼りない。
クローゼットを開け、衣服を選ぶ。
女性の服を着るという行為には、三週間経っても全く慣れなかった。
下着をつける際、胸の肉をカップに収める手つきに、不可解な「熟練」が混じり始めていることが何よりも恐ろしかった。
脳が、神経が、この不快な肉体の動かし方を自発的に学習し、適応しようとしている。
それは回復ではなく、精神の崩壊、あるいは変質と呼ぶべきものだった。
例の猫のセーターを手に取る。
白い毛糸の感触は柔らかく、しかし袖を通すと、まるで他人の皮膚を裏返しにして着せられているような、ぞっとするような寒気が背中を走った。
鏡の中の猫の顔が、悠人をじっと見据えている。
外へ出ると、五月の生温かい風がスカートの裾を揺らした。
股間のスースーとした心許なさ、歩くたびに太ももの内側が擦れる感覚が、一歩ごとに悠人の神経を逆撫でする。
歩行のスピードが、男だった頃に比べて明らかに遅い。
歩幅が狭くなり、骨盤が左右に細かく揺れるため、無駄な体力が消耗されていく。
少し歩いただけで、ふくらはぎの裏側に重い疲労が溜まっていくのが分かった。
大学へ向かう道すがら、すれ違う見知らぬ男たちの視線が、美咲の身体に向けられるのを感じた。
それは好意や性欲といった明確なものばかりではない。
ただ「そこに若い女の身体がある」というだけの理由で、無遠慮に、当然の権利であるかのように視線を投げ、通り過ぎていく。
男だった頃には決して気づかなかった、あるいは自分が無意識に向けていたのかもしれない、その視線の暴力的な重圧に、悠人の胃の奥がキュッと収縮した。
正義や不平等を訴えたいわけではない。
ただ、この身体に収まっているだけで、周囲の環境が自動的に「女としての役割」や「被視写体としての視線」を押し付けてくる、その世界の歪さが、ただただ不快で、息苦しかった。
悠人は下を向き、猫のセーターの胸元を隠すようにして腕を組んだ。
そうすると、自分の腕に胸の肉の弾力が押し返され、また別の不快感が生まれる。
逃げ場はどこにもなかった。
目指すのは、あの日、すべての狂狂が始まった町外れの古本屋だ。
美咲が頻繁に通い、文学部の推理小説ゼミの仲間たちもよく利用していた、あの薄暗い店舗。
そこに、この不可逆に見える変化を紐解く、あるいはさらに深い絶望へと引き摺り込む、何かが隠されているはずだった。
陽の光は妙に白く、悠人の視界を無感情に照らし出している。
カタルシスも、救いも期待していない。
ただ、この皮膚の奥で脈打つ他人の心臓を、一刻も早く止めたい、あるいは元の場所に帰したいという、生存本能だけが、重くなった両足を前へと進めさせていた。
古本屋の看板が見えてくる。
色褪せた木の板に、かすれた文字で書かれた店名。
悠人は深く息を吸い込み、美咲の手で、その古びた引き戸を押した。ガラガラと、乾いた音が静かな街路に響いた。



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