鏡の中の家政婦 -女性の身体で学ぶ奉仕の心 リメイク-
その日、青木健太の心は、尖った氷のように冷えていた。
時刻は午後八時を過ぎたところだ。
三月、年度末の喧騒が駅ビル全体を湿った熱気で包んでいる。
健太は、中堅広告代理店の営業として、今日も「数字」という名の無機質な積み木を積み上げてきた。
部下のミスを冷徹に指摘し、事務スタッフの「家庭の事情」による早退を、効率を乱すバグのように処理してきた。
「結局、世の中は役割だ。代替可能なパーツが、自分の代わりはいないと思い上がるから歪みが出る」
独りごちて、彼は駅ビルの端にある、普段は通らない連絡通路を歩いていた。
そこには、期間限定で出店しているらしい古道具屋があった。
店主の姿は見えない。薄暗い店内の隅に、一際異彩を放つ銀縁の姿見が置かれていた。
鏡面は、古い銀特有の、どこか濁ったような光を湛えている。
健太は、そこに映る自分の姿を見た。
整ったスーツ、手入れされた短髪、自信に満ちた、しかしどこか虚ろな瞳。彼は無意識に、鏡の縁に手を触れた。
その瞬間、指先から心臓を直接掴まれるような、暴力的な衝撃が走った。
「……っ!?」
視界が激しく明滅し、平衡感覚が消失する。
胃の底からせり上がる不快な浮遊感。
それは、超高速のエレベーターが急停止したときのような、内臓が置き去りにされる感覚だった。
次に彼が自覚したのは、強烈な「重さ」だった。
「あ……が……」
口を開こうとしたが、肺が思うように膨らまない。
何かが、肋骨の周りを力強く締め付けている。
仰向けに倒れているはずなのに、背中よりも先に、胸部に異様な圧迫感がある。
健太は混乱しながら、目を開けた。
天井が高い。見慣れた自分のマンションの、機能的だが殺風景な天井ではない。
漆喰の細工が施された、重厚なシャンデリアが下がる、古風な洋館の寝室だった。
彼は起き上がろうとした。
しかし、その動作一つに、今までの人生で経験したことのない労力を必要とした。
「重い……なんだ、これは」
腕を突いて身体を起こそうとすると、二の腕の肉が自分の意図よりもわずかに遅れて揺れる。
重心が以前よりもずっと低く、そして背中側ではなく、身体の前面に引っ張られる。
ふと、視界の下端に、身に覚えのない膨らみが入り込んだ。
健太は、凍りついたまま自分の手を見た。
そこにあるのは、節くれだった男の指ではない。
白く、少しだけ指先が荒れ、血管が薄く浮き出た、成熟した女性の手だった。
彼は悲鳴を上げようとして、喉の奥から漏れた音に戦慄した。
「ああ……っ、は、ひっ……」
湿り気を帯びた、中音域の、艶のある女性の声。
それは生理的な嫌悪感を伴って、彼の耳を打った。
彼は転がるようにしてベッドから這い出し、部屋の隅にあるドレッサーの鏡に縋りついた。
鏡の中にいたのは、四十代前半と思しき、見知らぬ女性だった。
目尻には隠しきれない細かな皺があり、頬のラインはわずかに下がり始めている。
しかし、その瞳には知性と、どこか疲弊したような影が宿っていた。
健太は自分の顔――いや、その女の顔に触れた。鏡の中の女も、同じように震える手で頬に触れる。
皮膚の柔らかさ。男のそれとは違う、弾力はあるが脆い、薄い膜のような感触。
「冗談だろ……嘘だ。何だ、これは!」
彼は自分の胸に手を当てた。そこには、厚い脂肪の塊が鎮座していた。
ブラジャーという器具によって、無理やり持ち上げられ、固定された肉。
それが呼吸のたびに上下し、肌と布の間でじっとりとした熱を帯びている。
股間の感覚が、絶望的に「ない」。代わりに、下腹部に重だるい、鈍い違和感が居座っている。
その時、部屋のドアが音もなく開いた。
入ってきたのは、一人の男だった。
いや、それは健太自身だった。
「おはよう、青木さん。……いいえ。今日からあなたは、私」
その男――健太の姿をした存在は、ポケットに手を突っ込み、傲慢な角度で顎を上げた。
その仕草は、昨日まで健太が部下たちに見せていたものと全く同じだった。
「川島美咲……お前、美咲なのか?」
健太は、自分の身体から発せられる美咲の声に、眩暈を覚えた。
美咲(外見は健太)は、ベッドに腰掛け、細い脚を組んだ。
健太のスーツが、その動作によってわずかに突っ張る。
「この鏡は、器(うつわ)を入れ替える。あなたが触れたのは、私との『契約』の入り口よ」
「ふざけるな! 今すぐ戻せ! こんな身体、気持ち悪くて……っ」
健太は掴みかかろうとした。
しかし、数歩踏み出しただけで、足首がガクりと折れそうになった。
慣れないパンプスのヒールが、全体重を細い一点に集中させる。
膝にかかる負担、腰に響く衝撃。
女性の骨格は、男の攻撃的な動きを許容しないようにできている。
「気持ち悪い? それが私の日常だったのよ。重力に抗い、役割に縛られ、誰かのために形を整え続ける身体。……あなたは、あまりに傲慢だった。他人の労働を、存在を、軽んじすぎた」
美咲は、冷淡な目で健太を見下ろした。
「この屋敷のすべての家事を、あなたがこなすの。掃除、洗濯、料理。そして、私の世話。あなたが『真の奉仕』を理解したとき、鏡は再び開くでしょう」
「奉仕だと……? 笑わせるな! 警察に……」
「どうぞ、通報なさい。警察が、42歳の女性の妄想をどこまで真に受けるか楽しみだわ。あなたの戸籍も、キャリアも、今はこの『私』が握っている」
美咲は健太のスマートフォンの画面を操作してみせた。
「青木健太としての日常は、私が滞りなく運営してあげる。あなたはただ、ここで『透明な存在』として、誰かの生活を支える重さを知ればいい」
彼女は床に、一着の衣服を投げ捨てた。
それは、黒い布地に白いエプロン、クラシックなスタイルのメイド服だった。
「着替えなさい。あなたの自由意志は、その身体の重みの中に沈めてもらうわ」
美咲が出ていくと、部屋には静寂と、健太の乱れた呼吸音だけが残った。
彼は床に落ちた布きれを凝視した。
ブラジャーのストラップが肩に食い込み、首筋を鈍い痛みが走る。
女性の身体は、立っているだけで疲れる。
座っているだけで、腹部の肉が圧迫され、不快感が募る。
彼は震える手で、ブラジャーのホックを外そうとした。
しかし、背中に回した手は、慣れない筋肉の可動域に阻まれ、なかなか届かない。
もどかしさと屈辱で、目尻から熱いものが溢れた。
「……っ、クソッ、なんだよこれ……」
涙が頬を伝う。
その雫が、豊かな胸の谷間に落ちて、じっとりと吸い込まれていく。
自分の感情が、この身体の構造によって、どこか湿った、重苦しいものに変質していくのを、健太は恐怖と共に感じていた。
彼は、自分が昨日まで「効率」の名の下に切り捨ててきた、名もなき労働者たちの顔を思い出した。
彼らが背負っていたのは、責任だけではない。
肉体という、逃げられない檻の重さだったのだ。
健太は、重い腰を上げ、メイド服を手に取った。
鏡の中の女が、絶望に満ちた瞳で自分を見返していた。
それはもはや、見知らぬ他人の顔ではなかった。

まあ、女装させられたくらいでは、何も起きるはずもなく。
でも、下着まで女性物にされて、スカート穿いてたらさすがに
下着が見えないように注意するんじゃないかと思います。
男女関係なく下着とか見せたくないだろうし。
次回:5/22 21:00更新


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