重奏する不自由
目が覚めたとき、最初に感じたのは質量だった。
それはかつて自分が所有していた、筋肉と脂肪が適度に付いた四十四歳の男の肉体の重みではない。
もっと粘り気があり、一点に停滞し、呼吸を妨げる種類の重みだ。
仰向けに寝ているはずなのに、胸の上に湿った砂袋を二つ置かれたような圧迫感がある。
意識が覚醒するに従い、その砂袋が自身の皮膚と地続きであり、寝返りを打つたびに重力に従って左右へ無様に流れ、脇の肉を引っ張る不快な感触へと変わっていった。
身体を起こそうとして、さらなる違和感に動きが止まる。
腕に力が入らない。
いや、正確には力を入れるための支点が見当たらないのだ。
かつて胸板を支えていた分厚い骨格は鳴りを潜め、代わりに頼りなく細い鎖骨が浮き出ている。
起き上がるという日常的な動作一つに、腹筋のどこをどう使えばいいのかが分からない。
這いずるようにしてベッドから這い出し、足が床に触れた瞬間、視界の低さに眩暈がした。
世界が十数センチメートルほど、強引に押し下げられている。
「……あ」
喉から漏れた音は、自分の記憶にある低音ではなかった。
湿って、粘膜が震えるような、高い残響。それが自分の口から出たという事実を脳が拒絶する。
鏡の前に立つ。そこにいたのは、四十代の男である悠人の成れの果てではなく、一人の少女――美咲だった。
骨格は華奢で、肩幅は驚くほど狭い。
腰回りはかつての自分のようにどっしりと安定しているのではなく、削ぎ落とされたように細く、頼りない。
その細い腰を支点にして、上下に異質な肉が盛り上がっている。
胸部の肥大と、対照的な下半身の貧弱さ。
そのアンバランスな構造が、立っているだけで重心を不安定にさせ、常にどこかへ倒れ込みそうな予感を与えた。
鏡の中の美咲は、マルーン色のセーターを着ていた。
ウールの重たい質感が、細くなった肩に重くのしかかる。
母親の里奈が編んだというそのセーターは、保温性だけは過剰で、体温が内側にこもり、皮膚がじっとりと湿ってくるのが分かった。
首周りの毛羽立ちが常に皮膚を刺激し、小さな、しかし逃げ場のない痒みを増幅させる。
下半身に目を向けると、白いショーツが頼りない脚を包んでいた。
ゴムの締め付けが、細くなった腰の皮膚に食い込む。
清潔感や快活さを象徴するはずのその衣服は、今の自分にとっては、この見知らぬ肉体を現実という檻に繋ぎ止めるための、冷徹な拘束具でしかなかった。
「おはよう、早く起きなさい。今日は練習の日でしょう?」
階下から、弾んだ、しかし抗いがたい重圧を孕んだ女の声が響く。
母。この身体の「娘」としての役割を管理する観測者だ。
彼女にとって、この部屋にいるのは混乱した中年男性ではなく、音楽家を夢見る愛娘でなければならない。
その期待という名の視線が、開いたドアの隙間から滑り込み、悠人の輪郭を「美咲」という少女へと塗り潰していく。
部屋の隅には、一本の赤いエレキベースが立てかけられていた。
それはかつて、この身体が小学校六年生の時に手に入れた「宝物」なのだという。
しかし、今の悠人にとってそれは、ただの鈍く光る数キログラムの木材と金属の塊に過ぎない。
ベースを手にとってみる。
重い。ストラップを肩にかけると、細くなった鎖骨に容赦なく食い込んだ。
以前の自分であれば片手で扱えたはずの重量が、今のこの脆い骨格には過酷な負荷として作用する。
立って構えるだけで、重心が前方に引きずられ、腰が悲鳴を上げた。
指を弦に添える。
左手の指先は、長年の練習によって皮膚が硬質化し、タコができている。
それは努力の結晶などではなく、肉体が無理やり「楽器の一部」へと作り替えられた、不可逆な変質の痕跡だった。
弦を一本弾くだけで、その振動が頼りない腕の骨を伝い、脳を直接揺さぶるような不快感をもたらす。
「どうしたの? ぼーっとして。計画通りに進めないと、先生に叱られるわよ」
母が部屋に入ってくる。
彼女の手に持たれた練習記録のノートが、生活の細部までが管理されている現実を突きつける。
彼女は、娘がどれだけ効率的に上達しているかという「数値」にしか興味がない。
その瞳の中に、悠人の本当の絶望が映ることはない。
悠人は、鏡の中の自分をもう一度見た。
マルーン色のセーターに包まれた、細く、しかし異物感に満ちた身体。
白いショーツから伸びる、頼りない脚。
黒いシンプルな靴が、この不自由な肉体を地面に繋ぎ止めている。
男であった頃の記憶はまだ鮮明だ。
製造現場の管理職としてチームを動かし、エクセルのマクロを組み、効率的にタスクをこなしていた日々。
しかし、その記憶は今のこの「赤・白・黒」で構成されたシンプルなコーディネートの中に、居場所を見つけることができない。
身体が、記憶を拒絶し始めている。
深呼吸をすると、胸部の肉が上下し、ブラジャーのワイヤーが肋骨を圧迫した。
この物理的な苦痛こそが、今の自分の唯一の現実だった。
「……わかった。今、行くよ」
喉を震わせて出た声は、やはり自分のものではなかった。
それは、練習計画を立て、フィードバックを受け入れ、将来はプロの音楽家になると無邪気に宣言する「美咲」の記号。
階段を降りる一歩一歩が重い。
細くなった腰回りは歩くたびに頼りなく揺れ、以前のような確固たる歩みはもう望めない。
不可逆の変化。
たとえいつか、この悪夢のような身体から解放されたとしても、このマルーン色のセーターの重みと、ベースのストラップが鎖骨に食い込む痛み、そして里奈の向けた盲目的な期待の記憶は、魂に刻まれた痣となって一生消えることはないだろう。
悠人は、赤く腫れ始めた指先を見つめながら、光の射すリビングへと足を踏み出した。
そこには、逃げ場のない「日常」が、優しく、残酷に口を開けて待っていた。

ベースって習ったことないので独学ですが
ちゃんと習うと上達早いのかな?
ヤマハとかでピアノ以外も色々習えるし
本気でやりたいならありかも?
それよりも、色んな曲をコピーする方が楽しいかもだけど。
次回:5/19 21:00更新
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