境界線のディソナンス
――重い。
意識の浮上と共に、悠人が最初に感じたのは鉛のような身体の重みだった。
いや、重みというよりは、身体の各部の「バランス」が決定的に損なわれているような、得体の知れない不快感だ。
二日酔いだろうか。昨夜、仕事の後に何をしていたか思い出そうとするが、思考に霧がかかったようにぼんやりとしている。
悠人は顔をしかめ、無意識に首元を緩めようと手を伸ばした。
しかし、そこにあるはずの寝巻きの柔らかな襟元はなかった。
指先に触れたのは、硬く、糊のきいた布の感触。
そして、喉元を力強く締め付ける、見知らぬボタンの感触だった。
「……っ、なんだ、これ」
自分の声に、悠人は心臓が跳ね上がるのを感じた。
耳に届いたのは、聞き慣れた自分の低音ではない。
鈴を転がすような、しかしひどく上擦った、高い少女の声だった。
跳ね起きようとして、さらなる異変に襲われる。
胸部に、今まで経験したことのない「重み」と、それを包み込む布の圧迫感がある。
さらには、太もものあたりを撫でる、心許ないスースーとした空気の流れ。
悠人は震える手でシーツを剥ぎ取った。
「な……!?」
視界に飛び込んできたのは、短い紺色のスカートから伸びる、白く細い足だった。
そこには、長年付き合ってきたはずの、筋肉質で脛毛の生えた自分の脚はない。
代わりに、瑞々しいほどに滑らかで、華奢な膝小僧が二つ並んでいる。
さらに視線を上げれば、白いブラウスの下に、はっきりと膨らみを持った胸が、自身の呼吸に合わせて上下していた。
「嘘だ。夢だろ、これ」
悠人はふらつく足取りでベッドから這い出した。
そこは見慣れた自分のワンルームマンションではなかった。
淡いピンクのカーテン、棚に並んだ可愛らしい小物、そして壁にかけられた、見覚えのない通学カバン。
壁に据え付けられた全身鏡の前まで、数歩。
そのわずかな距離でさえ、重心の高さが違うせいで、まるで慣れない義足で歩いているような、奇妙な浮遊感があった。
鏡の前に立った悠人は、絶句した。
鏡の中には、一人の女子高生が立っていた。
緩くウェーブのかかった黒髪、少し勝ち気そうな、しかし今は恐怖に染まった大きな瞳。
桜色の唇は戦慄に震え、自分が息を呑むのと同時に、鏡の中の少女も肩を揺らした。
震える指先で、鏡の中の頬に触れる。
指先から伝わるのは、信じられないほど柔らかく、弾力のある肌の熱だった。
鏡の縁に、一枚の名札がクリップで留められているのが見えた。
『小林美咲』
その文字を見た瞬間、悠人の脳裏に、激しい火花が散るような衝撃が走った。
「小林、美咲……? 俺は、悠人だ。佐藤悠人だろ……? なんで、どうして……っ」
自分の名前を口にするたびに、喉の奥から出る少女の声が、彼のアイデンティティを削り取っていく。
部屋を見渡しても、仕事で使うPCも、読みかけの専門書も、エンジニアとしての日常の痕跡は一つもない。
あるのは、今日から新しい学校に通う準備が整えられた、見知らぬ少女の日常だけだ。
時計を見た。午前八時半。
社会人としての習慣が、反射的に焦りを生む。
今日は重要な会議があったはずだ。出社しなければ。
だが、この姿でどこへ行くというのか。
その時だった。
隣の部屋から、バタンという大きなドアの開閉音が響いた。
続いて聞こえてきたのは、ドタドタという、これまた聞き覚えのある「自分の」歩き方。
悠人は吸い寄せられるように部屋を飛び出し、廊下へ出た。
そこには、一人の男が立っていた。
安物のスーツを少し着崩し、寝癖のついた短髪。
年齢は30代半ば。
少し疲れの見える、だが紛れもない「佐藤悠人」の姿がそこにあった。
二人の目が合った。
男――悠人の姿をした何者か――は、女子高生の姿をした悠人を見て、目を見開いた。
「あなた……」
男の口から出たのは、悠人自身の低く野太い声だった。
だが、その口調には、どこか少女のような幼い怯えが混じっている。
「あなたは……俺なのか?」
悠人が問うと、男はガタガタと震えながら頷いた。
「う、嘘……私、なんでおじさんになってるの!? これ、お父さんの服じゃないよね!?」
確信した。入れ替わっている。
美咲という少女は、あろうことか悠人の身体に入り込み、悠人は彼女の制服の中に閉じ込められたのだ。
二人が歩み寄り、声を潜めて状況を整理しようとしたその時、アパートのドアベルが執拗に打ち鳴らされた。
心臓が止まるかと思った。
悠人(外見は美咲)が恐る恐るドアを開けると、そこには鬼のような形相をした上司、田中部長が立っていた。
「おい、佐藤! どういうことだ! 今日の会議、どれだけ重要か分かってるのか!」
田中部長は、ドアの前に立つ美咲(中身は悠人)を無視して、奥に立っている「悠人の姿をした美咲」を怒鳴りつけた。
女子高生の姿をした悠人は、反射的に身体が強張った。
ブラウスの中の背中に、冷たい汗が伝うのがわかる。
「えっ、あ、あの……」
悠人の身体に入った美咲は、部長の威圧感に完全に呑まれ、涙目になって固まっている。
ここで彼女が失態を演じれば、悠人のこれまでのキャリアは一瞬で灰になる。
「おい、佐藤! なんだその情けない顔は! 返事ぐらいしろ!」
絶体絶命の瞬間、女子高生の姿をした悠人は、無意識に一歩前に出ていた。
「……すみません、部長」
少女の声で、しかし悠人としての冷静さを必死に保って口を開く。
「この……兄は、急な高熱で意識が朦朧としていまして。私が代わりに連絡を入れるつもりだったのですが、看病で手が離せず……」
嘘だ。バレる。
こんな女子高生がエンジニアの妹だなんて、不自然すぎる。
だが、田中部長は怪訝そうに美咲を見つめた後、ため息をついた。
「……妹か。ふん、顔色が悪そうだな。今日の会議は欠席扱いにするが、明日には這ってでも出てこい。分かったな、佐藤!」
部長は吐き捨てるように言うと、乱暴にドアを閉めて去っていった。
静まり返った部屋の中で、二人は力なく床に崩れ落ちた。
悠人は、スカートの裾がめくれるのも構わず膝を抱えた。
細い指先。華奢な肩。
そして、自分を「妹」と呼んで凌いだ屈辱。
自分の身体を外側から眺めるという、狂気じみた現実が、重く、静かに彼らを侵食し始めていた。
「……どうすればいいんだ、これ」
少女の声が、静まり返った廊下に虚しく響いた。

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