重い布、歪む輪郭
朝、意識が浮上するよりも先に、その「重さ」が悠人を現実へと引き摺り下ろした。
仰向けに寝ているはずなのに、胸の上に、砂袋でも置かれたかのような鈍い圧迫感がある。
寝返りを打とうとすると、その重みが重力に従って左右に流れ、脇の下の皮膚を嫌な角度で引っ張った。
悠人は目を開けた。見慣れた自分の部屋の天井だ。
しかし、視界の下端に、本来そこにはないはずの肉の盛り上がりが、不気味な白さで鎮座している。
彼はゆっくりと上体を起こした。シーツが滑り落ち、露わになったのは、成熟した女の胴体だった。
それは、昨夜までの彼が持っていた、薄くて平坦な少年の胸部ではない。
大きく、重く、どこか湿り気を帯びたような脂肪の塊。
乳輪は広く、色はくすんだ茶褐色を帯びている。
腹部には、十数年の歳月が積み上げたであろう、座り仕事特有の柔らかな弛みがあった。
悠人は震える手で、その腹に触れた。
指が肉に沈み込む。冷たい。
自分の手のはずなのに、触れている感覚と触れられている感覚が、神経のどこかで混線している。
「……っ」
声を出そうとして、喉の奥で音が詰まった。
声帯が、これまでの発声方法を拒絶している。
無理に絞り出した声は、低く、湿り気を帯びた、聞き覚えのある女のものだった。
美咲。
彼のクラスの国語教師であり、昨日までその身体の主であったはずの女性。
悠人は這いずるようにして全身鏡の前へ向かった。
鏡の中には、首から上が「悠人」で、首から下が「美咲」という、接合部だけが鮮明に歪んだ怪物が立っていた。
鎖骨のあたりで、少年の瑞々しい肌と、成人女性の少し毛穴の開いた、生活感のある肌が、無理やり繋ぎ合わされている。
身体が、拒絶反応を起こしていた。
胃の底からせり上がるような不快感。
それは精神的なショックというより、内臓の配置が変わり、重心が狂い、ホルモンバランスが激変したことによる、純粋に生理的な拒絶だった。
頭が重い。
こめかみの奥で、血管がドクンドクンと脈打つのがわかる。
その時、机の上に置いてあったスマートフォンが震えた。
画面には「美咲」という名前が表示されている。
震える指で通話ボタンを押すと、受話口から、彼自身の、聞き慣れた「悠人の声」が聞こえてきた。
『……起きた?』
声は冷静だった。あまりにも冷静で、それが逆に狂気を感じさせた。
「……先生、これ、どういう」
『わからない。病院に行っても、この状態を説明できる言葉はないと思う。それより、鏡を見て。私の身体、むくんでない?』
悠人は、自分の声で喋る美咲に戦慄した。彼女は自分の喪失よりも、肉体のコンディションを案じている。
『いい、悠人くん。今日は二学期の始業式よ。休むわけにはいかない。……私のクローゼットから、一番無難なブラジャーを選んで。アンダーは七十五のD。ホックは三段階の真ん中。わかるわね?』
ブラジャー。その言葉の響きが、悠人の脳を麻痺させた。
言われるがままに、彼は(なぜか自分の部屋にある)美咲の荷物から、肉厚なベージュ色の布の塊を取り出した。
それは美的な装飾など一切ない、重い脂肪を支えるためだけの「装具」だった。
腕を通し、背中でホックを留める。
カチリ、という音が、彼がこれまでの人生から切り離された合図のように聞こえた。
ワイヤーが肋骨に食い込み、胸が無理やり持ち上げられる。
肺が圧迫され、呼吸が浅くなる。
肩に食い込むストラップの重みが、これからの生活がどれほど過酷なものになるかを予言していた。
駅までの道のりは、拷問に等しかった。
歩くたびに、ブラジャーの中で胸が微かに上下する。
その振動が、いちいち神経に触る。
スカートの裾から入り込む空気は、自分の股間に「何もない」ことを強調し続け、タイツの締め付けが腹部の肉を不自然に押し出す。
学校に着くと、そこには「悠人の身体」をした美咲が、平然とした顔で立っていた。
彼女は、かつての悠人が着ていた男子制服を、見事に着こなしていた。
「……先生、本当に、戻れないんですか」
悠人は、低く、掠れた女の声で問うた。
美咲(中身)は、悠人(外見)の細い指先で、首元を軽く掻きながら、冷ややかに笑った。
「戻る? どうやって? これは故障じゃないの、悠人くん。……書き換えられたのよ。世界の理が」
彼女の視線は、悠人の胸元に注がれていた。
それは性的な興味ではなく、自分がかつて負っていた「重荷」を、他人が肩代わりしていることを確認する、残酷な観察者の目だった。
「その身体、肩が凝るでしょう。夕方になると腰に来るわよ。……せいぜい、適応しなさい。戻ることを考える暇もないくらい、その肉体はあなたを削っていくんだから」
始業式の喧騒の中、悠人は自分の指を見た。
節くれ立ち、少し色がくすんだ、大人の女の指。
それを自分のものだと認識しようとするたびに、脳が「異物だ」と悲鳴を上げる。
だが、現実は残酷だ。
膀胱が尿意を催し、胃が空腹を訴え、肌は汗でベタつく。
心がどれほど拒絶しようとも、この肉体は、生きるために悠人の意識を喰らい、馴染ませ、変質させていく。
文化祭の準備が始まるというアナウンスが流れたとき、悠人はただ、この重い身体を隠せる暗がりだけを求めていた。
彼が「セーラー服」という、さらなる欺瞞を纏うことになるまで、あと数日の猶予も残されていなかった。



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