重い絹、歪な輪郭
六月の湿った空気が、築四十年の雑居ビルにまとわりついている。
悠人は、剥げかけたペンキの臭いが漂う階段を上りながら、手元のメモとドアの番号を照合した。
フリーター生活も三年目。
貯金は底をつき、家賃の督促状がポストに刺さる日常。
そんな折に見つけた「高額報酬・身体モデル」という募集は、怪しさを差し引いても魅力的すぎた。
重い鉄の扉を開けると、そこは外観からは想像もつかない、静謐で無機質なアトリエだった。
「時間通りね」
奥から現れた女性、美咲は、悠人の想像とは違っていた。
四枚の大きな姿見の前に立つ彼女は、四十八歳という実年齢を隠そうともせず、それでいて研ぎ澄まされた刃物のような威圧感を放っている。
「モデルの仕事をお願いしたい。ただし、私のデザインを完成させるには、視覚的な観察だけでは足りないの。あなたが私の身体に入り、内側からその『重み』を理解してもらう必要がある」
美咲が提示した契約書には、不可解な文言が並んでいた。
一時的な意識と身体の交換。成功報酬は、悠人の半年分の生活費を軽く上回る。
「戻れるんですよね」
悠人の問いに、美咲は薄く笑った。
その笑みの意味を、当時の悠人は読み解くことができなかった。
「仕事が終われば、契約は終了。私は私の場所へ、あなたはあなたの場所へ。それだけよ」
アトリエの隅にある、医療機器とも工芸品ともつかない椅子に座らされる。
冷たい金属の感触が背筋に触れた。
美咲が隣の椅子に横たわり、何かのスイッチを入れる。
直後、脳を巨大な万力で締め付けられるような激痛が走った。
視界が白濁し、上下左右の感覚が消失する。
自分の境界線が溶け出し、どろどろとした暗液の中に沈んでいく感覚。
……静寂。
最初に意識に上ってきたのは、呼吸の苦しさだった。
肺が十分に膨らまない。
胸部に、これまで経験したことのない「異物」の重みがある。
悠人は目を開けようとしたが、まぶたさえも重く、粘ついているように感じられた。
ようやく視界が開けたとき、彼は自分の異変を悟った。
目の前に、自分が立っている。
いや、正確には「自分の身体」が、涼しい顔をしてこちらを見下ろしている。
二十代の、まだ筋肉の張りが残る、軽やかなはずの自分の四肢。
美咲の意識が宿ったその身体は、驚くほど機敏な動作で悠人の元へ歩み寄ってきた。
「……あ、……っ」
声を出そうとして、喉の奥から漏れたのは、低く湿った、聞き慣れない女の掠れ声だった。
悠人は椅子から立ち上がろうとした。
しかし、足に力を入れた瞬間、身体が予想外の方向に傾く。
「っ!」
手をつこうとしたが、腕の筋肉は驚くほど頼りなく、皮下脂肪の層が骨と皮の間でぶよぶよと波打つ感触が伝わってきた。
床に膝をつく。
その衝撃は、以前の自分なら「痛み」として処理されるはずのものだったが、今の身体では、肉のクッションが振動を吸収し、不快な「鈍痛」となって長く尾を引いた。
「重心の位置が変わったことに戸惑っているのね」
美咲(の中身が入った悠人の身体)が、軽蔑とも同情ともつかない冷ややかな声で言った。
「あなたの重心は今、数センチ下がり、そして前方へ突き出している。胸の重み、腰周りの肉、そして衰え始めた筋力。それが今のあなたの『現実』よ」
悠人は震える手で、自分の、いや「美咲の身体」に触れた。
胸にあるのは、性的記号としての膨らみではない。
それは明確な「負荷」だった。
ブラジャーのストラップが肩に食い込み、アンダーバストには絶えず湿った熱が籠もっている。
腕を動かすたびに、脇の肉が擦れ、衣類の摩擦が不快なノイズとして神経を逆なでする。
腹部を触れば、柔らかな脂肪の奥に、内臓を守るための厚い壁を感じた。
それは若さという特権を剥奪された者が、生きていくために積み上げてきた歳月の澱(おり)のようだった。
鏡の前に這い寄る。
そこに映っていたのは、目尻に深い皺を刻み、頬の肉がわずかに下垂し始めた、完成された「熟女」の姿だった。
美しく整えられてはいるが、それは生物としてのピークを過ぎ、維持するために多大なコストを支払っている身体だ。
悠人は、その瞳の奥に自分を探そうとした。
しかし、鏡の中の女は、ただ静かに、絶望的なほどの「生活感」を湛えて彼を見返しているだけだった。
「さあ、始めましょう」
美咲(の身体を持つ自分)が、部屋の隅にある黒い絹の布を手に取った。
「モデル代を稼ぐんでしょう? その身体が、私のドレスにどう抗い、どう屈服するか。それをじっくりと見せてもらうわ」
悠人は、立ち上がるだけで息が切れるのを感じた。
膝の関節が軋み、腰に重い鈍痛が走る。
かつては何の意識もせずにこなしていた「直立」という動作が、今の身体にとっては一つの過酷な労働だった。
戻れる。仕事さえ終われば、あの軽やかな身体に戻れる。
その希望だけを縋り代にして、悠人は重い足取りで、美咲の指し示すフィッティング台へと向かった。
一歩踏み出すごとに、太ももの内側の肉が重なり合い、皮膚の温度を上げていく。
この不快な身体感覚が、やがて「自分のもの」として馴染んでいく恐怖を、この時の彼はまだ、ただの「一時的な副作用」だと信じ込もうとしていた。

次回:5/26 21:00 更新



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