重い布の檻――残響の肖像
目が覚めたとき、世界は重力の設定を書き換えられたかのように変質していた。
悠人は、視界の低さと、胸元を締め上げる異様な圧迫感に喉を焼かれるような悲鳴を上げた。
しかし、その喉から出たのは、鈴を転がすような、冷ややかな「里奈」の声だった。
「……何だよ、これ。ふざけんなよ」
鏡に映っていたのは、淡いピンクのフリルが重なるドレスを完璧に着こなした成熟した女性――里奈の姿だった。
だが、悠人の口から漏れるのは、粗野で低い、かつての彼そのものの男言葉だった。
身体が、重い。繊細なレースの下にあるのは、見かけによらない肉の厚みと、コルセットによって強制的に形作られた砂時計型の曲線。
呼吸をするたびにワイヤーが皮膚に食い込み、パニエのボリュームが足に絡みつく。
一方、部屋の隅で悠人の無骨な身体を借りて立ち尽くしていた里奈は、低く掠れた声で、しかしおっとりと呟いた。
「……あら。体が、とっても軽いですわ」
中身が悠人となった里奈は、かつての自分の「檻」であったドレスを脱ぎ捨て、悠人のシャツを羽織っていた。
広すぎる肩幅、節くれだった指。
里奈は、悠人の身体がもたらす圧倒的な「機能性」に、うっとりと溜息を漏らした。
二人は数時間、この異常事態を解決しようとしたが、変化は冷酷なまでに不可逆だった。
「戻れねえんだな」
悠人が男口調で吐き捨てた。
「ええ、残念ですけれど。……でも悠人さん、いえ、里奈さん。私はもう、あんなに重たい服を着て生きるのは、疲れ果ててしまいましたの。この強そうな身体で、私は別の場所へ行きますわ。さようなら」
里奈は、悠人の身分証を手に、優雅な足取りで部屋を去ろうとした。彼女にとって、男の身体は「自由」そのものだった。
残された悠人は、広い部屋で一人、不自由なドレスの重みに沈み込みそうになった。
そこへ、玄関の鍵が開く音がした。恋人の美咲だった。
「悠人くん、ただいま! あれ、その人は……?」
美咲は、部屋にいる見知らぬ美女(里奈の姿をした悠人)を不審げに見つめた。悠人は必死に説明しようとした。
「違うんだ、美咲。俺だよ、悠人だ! なぜか里奈って女の体になっちまって……」
だが、美咲が反応したのはその言葉の内容ではなかった。
ちょうどその時、部屋の影から、悠人の身体をした里奈がひょっこりと顔を出した。
彼女は美咲を見ると、悠人の低い声で、しかし極めて淑やかに微笑んだ。
「お帰りなさいませ、美咲さん。……ふふ、驚かせてしまいましたかしら?」
美咲は息を呑んだ。
目の前にいるのは、紛れもなく自分の恋人、悠人の身体だ。
しかし、その立ち振る舞いは以前の彼とは比較にならないほど優雅で、言葉遣いは甘く、女性的で、陶酔を誘うものに変わっていた。
「悠人くん……? あなた、どうしたの? その話し方……」
「あら、嫌でしたかしら? ずっと、こうしてみたかったのですわ」
里奈は、男の身体でありながら、しなやかな仕草で美咲の肩を抱き寄せた。
美咲の心臓が激しく跳ねた。
彼女にとって、今までの悠人は「どこか頼りない男」でしかなかったが、今目の前にいる「心だけが完璧な女性になった悠人」は、最高に刺激的で、理想的なドールに見えた。
「ううん、すごくいいわ。……悠人くん、あなた、そんな一面があったのね」
美咲の瞳に、歪んだ興奮の光が宿る。
美咲は、里奈の姿で男言葉を話す「謎の女性」には目もくれず、女性口調で微笑む「自分の男」を熱烈に見つめた。
悠人は、その光景を絶望と共に見ていた。
美咲は入れ替わりに気づいていない。
ただ、自分の理想の形に変異した「悠人」に狂喜しているだけなのだ。
里奈は、悠人の身体でロリータファッションを纏うことを美咲に約束し、二人は強く結ばれた。
一方、本物の悠人は、重すぎる里奈の身体に閉じ込められたまま、誰にも自分だと気づかれぬまま、美咲の視界の外へと追いやられていった。

次回:5/29 21:00公開



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