
佐倉真司、24歳。
彼の日常は、華やかな舞台の裏側で、汗とホコリにまみれることから始まる。
大学卒業後、就職活動に身が入らず、漠然とした不安を抱えていた真司を救ってくれたのが、地元の市民劇団「光の木」だった。
大きな劇団ではない。団員は20人足らずで、多くが会社員や主婦、学生だ。
年に2回、市民ホールを借り切って公演を行う。
真司は、大道具の制作から舞台のセッティング、はたまた客席の案内まで、何でもこなす便利屋だった。
たまに端役をもらえることもあったが、セリフはせいぜい二言三言。
それでも、照明を浴び、観客の拍手に包まれる瞬間が、何にも代えがたい喜びだった。
今回の公演は、古典的なロマンチックコメディ『星降る夜のセレナーデ』。
真司は、主人公の親友という、これまでで一番大きな役をもらっていた。
舞台に立つ喜びを噛み締めながら、真司は毎日稽古に励んでいた。
しかし、その日常は、ある日突然、崩壊する。
稽古が終わり、皆が談笑しているときだった。
団長であるベテラン役者の日野が、深刻な顔で皆を集めた。
日野は50代半ば。
穏やかで皆に慕われているが、舞台のことになると鬼のような厳しさを見せる。
「皆に悪い知らせがある。ヒロイン役の美咲が、稽古中に足の腱を痛めてしまった。全治2ヶ月、今回は舞台に立てないそうだ」
その瞬間、ざわめきが起こった。
美咲は劇団のエースだ。
華やかな容姿と天性の演技力で、観客を魅了する。
今回のヒロイン役も、彼女のために書かれたと言っても過言ではない。
公演まであと1ヶ月。代役を立てるにしても、一から役を覚え、感情を乗せるのは至難の業だ。
真司は美咲を心配しながらも、公演が中止になるのでは、という最悪の事態を想像して、胸が締め付けられる思いだった。
日野が手を上げて、皆を静かにさせる。
その視線が、なぜか真司に固定された。真司は嫌な予感がした。
「そこで、代役を立てる。…真司、君だ」
真司は、自分の耳を疑った。
「え、俺、ですか?」
「そうだ。君しかいない。他の団員は皆、重要な役を抱えている。君なら、親友役のセリフはもう完璧だろう?それに、君はカメレオンだ。どんな役にもなれる」
「でも、俺は男ですよ!ヒロインは、真理子っていう、可憐な女性じゃないですか!俺には無理です!」
真司の言葉に、周囲からどよめきが起こる。
確かに、真司は男らしい骨格ではない。
どちらかというと中性的で、すらりとした体型だ。
しかし、ヒロイン役というのは、さすがに無茶がすぎる。
「無理じゃない。君ならやれる。舞台は、役者の内面を映し出す鏡だ。君の心の奥底にある、繊細さ、可憐さ、それを見せてくれ。それに、今から代役を探しても間に合わない。君が引き受けてくれなければ、公演は中止だ」
日野の言葉は、真司の心を深く抉った。
公演中止。それは、皆の努力、汗、そして何より舞台への情熱が無駄になるということだ。
真司は、自分の肩にずしりと重い責任がのしかかるのを感じた。
「……わかりました。やります」
真司の返事に、皆が安堵の表情を見せた。
美咲の怪我という悲しい出来事だったが、公演が続くことに、皆の顔に希望の光が戻ってきた。
稽古の後、日野は真司を呼び止めた。
「いいか、真司。役作りは稽古場だけでするものじゃない。生活からだ。今日から、日常生活でも女性として過ごしてみろ。女性の服を着て、女性の言葉遣い、仕草を研究するんだ。そうしなければ、真理子の魂を理解することはできない」
「え、日常生活でも、ですか?」
真司は驚きを隠せない。
稽古場での女装だけでも抵抗があるのに、日常生活で女性として過ごすなんて、想像もつかない。
しかし、日野の真剣な眼差しに、真司は何も言い返せなかった。
「そうだ。徹底的にやれ。君には、舞台を成功させる責任がある」
日野に背中を押されるようにして、真司は稽古場を後にした。
ぼんやりと空を見上げる。夕焼けが、真司の心を映すかのように、赤く燃えていた。
稽古場を出て、真司は衣装部屋の前に立っていた。
中には、今回の公演で衣装係を務める美咲、いや、怪我で降板したヒロイン役の美咲がいる。
美咲は真司と同期で、真司が劇団で一番信頼している相手だ。
真司は、ノックをするのを少し躊躇った。彼女は、きっと悔しい思いをしているだろう。
意を決してノックし、扉を開けると、美咲は赤いドレスを手に、鏡の前で微笑んでいた。
「真司くん、来てくれたんだ」
「美咲……怪我、大丈夫か?」
「うん、大丈夫。しばらく安静にしていれば治るって。ごめんね、私がいきなり降りちゃったから……」
美咲は申し訳なさそうな顔をする。
真司は美咲の怪我を心配しながらも、彼女の責任ではないと優しく伝えた。
「美咲は、ヒロイン役、どうして欲しかった?」
美咲は一瞬、真司の目を見て、微笑んだ。
「真司くんなら、きっと、私よりも素敵な真理子を演じられるよ。私も、真司くんの舞台、客席から応援するから」
その言葉に、真司は胸が熱くなった。
美咲の悔しさも、真司の不安も、全てを包み込むような、優しい言葉だった。
美咲は手に持っていた赤いドレスを、真司に差し出した。
それは、画像にあるような、白の水玉模様が散りばめられた、可愛らしい赤いドレスだった。
胸元には白いフリルがあしらわれ、スカート部分はふんわりと広がるように作られている。
「これ、真司くんが演じる真理子の、ラストシーンで着るドレス。私が、真司くんのために、少しサイズを直しておいたの」
美咲はそう言って、赤いドレスを真司の手に持たせた。
ドレスは、真司の手の中で、不思議なほど軽やかに、そして温かく感じられた。
「これは、ヒロインの象徴だよ。真司くんが、真理子になるための、魔法のドレス。本番までの1ヶ月、このドレスに、真司くんの心を重ねてみて。真理子として、このドレスと、仲良くなってあげて」
美咲の言葉に、真司は小さく頷いた。
この日から、佐倉真司の、舞台の外でのリハーサルが始まった。
翌日、真司は美咲に連れられ、劇団近くのショッピングモールにいた。
稽古場でのメイクは慣れてきたが、私生活で女性として過ごすとなると、真司には何から手をつければいいのか皆目見当がつかなかった。
美咲はそんな真司の戸惑いを察して、優しく手を引いてくれた。
「まずは、ウィッグからだね。真司くんの髪じゃ、真理子の雰囲気は出せないもん」
ウィッグショップに入ると、様々な色や形のウィッグが並んでいる。
真司は、鏡に映る自分の顔に、茶色のミディアムヘアを合わせた。
すると、驚くほど顔の印象が変わる。普段の真司とは、全くの別人だ。
「わあ、真司くん、めっちゃ可愛い!これにしよう!」
美咲が興奮したようにウィッグを選んでくれる。
次に、美咲は真司のメイク道具を一式揃えてくれた。
ファンデーション、アイシャドウ、リップ、チーク。
初めて見るコスメの数々に、真司はただただ圧倒される。
「メイクはね、魔法なんだよ。真司くんの顔を、真理子に変身させるための魔法。最初は難しいかもしれないけど、毎日練習すれば、絶対に上手くなるから」
美咲はそう言って、真司の頬に優しくチークを乗せてくれた。
チークの筆が触れるたびに、真司の心臓はドキドキと音を立てる。
鏡に映る自分の顔は、みるみるうちに女性らしく、可憐に変化していく。
最後に、美咲は真司をレディースの洋服店に連れて行った。
普段、男物の洋服しか着ない真司にとって、それは未知の世界だった。
カラフルなスカートやワンピース、可愛らしいブラウス。
どれもこれも、真司の知る世界とはかけ離れている。
「真理子はね、こういう、可愛らしいお嬢さんって感じの服が好きそうじゃない?真司くん、こういうの着てみて」
美咲は真司に、白いブラウスと花柄のスカートを手渡す。
真司は戸惑いながらも試着室に入った。
鏡に映る自分は、まるで別世界の住人のようだった。
「どう?似合ってる?」
美咲の言葉に、真司は何も言い返せない。
鏡の中の自分は、いつも舞台裏で大道具を運んでいる自分とは、全くの別人だった。
「これに、あの赤いドレスも合わせたら、完璧だね!」
美咲は、真司が持ってきた赤いドレスを嬉しそうに眺める。
「真司くん、これから、毎日女装して生活するんだよね?だったら、女装の練習は、舞台のためだけじゃなくて、真司くん自身のためにも、楽しんでみようよ」
美咲の言葉に、真司は少しだけ、気持ちが軽くなるのを感じた。
しかし、女装生活は、真司の想像以上に過酷なものだった。
初めは、ウィッグとメイクで顔を隠し、パーカーとジーンズで過ごすのが精一杯だった。
しかし、それでは日野団長の言う「役作り」にはならない。
真司は意を決して、花柄のスカートをはき、女性もののブラウスを着て、外に出ることにした。
街を歩くと、すれ違う人々が、真司を好奇の目で見る。
その視線が、真司の心をチクチクと刺す。
スーパーで買い物をしていると、知らないおばさんに「あら、可愛いお嬢さんね」と声をかけられ、真司は顔を真っ赤にして、言葉を詰まらせた。
「ありがとうございます……」
か細い声で答えるのが精一杯だった。
カフェに入ると、店員に「ご注文は?」と聞かれる。
真司は、普段の低く太い声が出ないように、意識して声を高くする。
「えっと……カフェラテ、ください……」
自分でも情けないほど、か細い声だった。
店員は少し不思議そうな顔をしていたが、何も言わずに注文を受けてくれた。
劇団の稽古場では、団員たちが真司をからかう。
「おい、真司!今日のスカート、可愛いじゃん!」
「真理子ちゃん、おやつは食べた?」
最初こそ「やめろよ!」と反発していた真司だったが、次第に抵抗が薄れていく。
むしろ、真理子という役名で呼ばれることに、少しずつ居心地の良さを感じるようになっていった。
声のトーンを高く保つ練習、歩き方を女性らしくする練習。
美咲が熱心に指導してくれた。
「もっと、お尻を振って!でも、やりすぎないように!あと、つま先から歩く感じで!」
「声は、お腹から出すんじゃなくて、喉から出す感じ!もっと、お嬢さんらしく!」
真司は、美咲の指導を必死に守り、毎日練習を重ねた。
鏡に映る自分は、日に日に女性らしくなっていく。
最初はただの「女装した男」だったが、やがて「真理子」という役が、真司の身体に染み込んでいくのを感じた。
ある日のこと。真司は、美咲の指導のもと、女性らしいポーズで自撮りをしていた。
ポーズを研究するうちに、真司は鏡に映る自分と、目の前にいる美咲を重ね合わせる。
「美咲……ありがとう。美咲がいてくれなかったら、俺、ここまで頑張れなかった」
真司の言葉に、美咲は優しく微笑んだ。
「真司くんは、真司くんでいてくれればいいんだよ。私が好きなのは、真司くんが演じる真理子じゃなくて、真司くん自身だもん」
その言葉に、真司の心は、温かい光に包まれた。
女装生活を始めてから2週間が経った。
真司は、もう女性の服を着ることに、抵抗を感じなくなっていた。
むしろ、女性として過ごす時間が増えるほど、自分の中の「真司」という男の存在が、希薄になっていくのを感じる。
稽古後、ウィッグを外し、メイクを落とす。
鏡に映る自分は、いつもの真司だ。しかし、真司の心には、どこか違和感が残る。
「あれ?俺って、こんな顔だったっけ?」
女装をしている間は、声も仕草も、全てが真理子だった。
しかし、元の自分に戻ると、真司は、まるで「真司」という男の役を演じているような、そんな不思議な感覚に陥る。
「真司くん、今日のメイク、めちゃくちゃ上手かったね!リップの色も、真理子の雰囲気にぴったりだった!」
美咲は、真司がメイクを落とすのを手伝いながら、嬉しそうに話す。
美咲との距離は、この2週間でぐっと縮まった。
メイクや衣装の相談だけでなく、恋愛の話や、将来の夢など、何でも話せる仲になっていた。
真司は、美咲との時間が、何よりも心地よかった。
ある日、真司は美咲に提案した。
「美咲、今度、全く知らない街で、1日女性として過ごしてみないか?誰も俺のことを知らない場所で、完全に真理子になりきってみたいんだ」
美咲は、真司の提案に目を輝かせた。
「いいね!楽しそう!じゃあ、今度の日曜日、一緒に街に繰り出そう!」
そして、約束の日曜日。真司は、美咲が選んでくれた、淡いピンクのワンピースと、可愛らしいパンプスを身につけ、美咲と待ち合わせの場所にいた。
「わあ、真司くん、今日の格好、めちゃくちゃ可愛い!まるでお人形さんみたい!」
美咲は、真司の姿を見て、満面の笑みを浮かべる。真司は少し照れながらも、美咲の言葉に嬉しさを感じた。
二人は、電車に乗り、都心から少し離れた、観光客の多い街へと向かった。
そこには、真司の知る人は誰もいない。
真司は、まるで新しい自分に生まれ変わったかのような、不思議な高揚感を覚えていた。
街を歩く。
誰も真司が男だなんて思っていないだろう。
真司は、心ゆくまで女性として振る舞った。
カフェに入り、可愛らしいラテアートの写真を撮る。
雑貨屋さんで、キラキラしたアクセサリーを眺める。
美咲と並んで歩いていると、まるで本当の姉妹のように見えた。
「真司くん、こっち向いて!写真撮ってあげる!」
美咲は、真司に満面の笑みを向ける。
真司は、美咲のカメラに向かって、可愛らしいポーズを取った。
その写真に映る自分は、真司の知る自分ではなかった。
そこにいるのは、間違いなく、可愛らしくて、少しお転婆な、真理子だった。
その日、真司は、人生で初めて、全く知らない男に口説かれた。
カフェで休憩しているときだった。
隣の席に座っていた、優しそうな雰囲気の男性が、真司に声をかけてきた。
「あの、すみません。突然で申し訳ないのですが、すごくお綺麗なので、つい声をかけてしまいました」
真司は、動揺を隠しきれない。
これまで、男として女性を口説くことはあっても、自分が口説かれるなんて、想像もしていなかった。
真司は、美咲に助けを求めるような視線を送った。
美咲は、面白そうに微笑んでいる。
「あ、ありがとうございます……」
真司は、か細い声で答えるのが精一杯だった。
「もしかして、お仕事されてるんですか?モデルさんとか?」
「いえ、あの……」
真司は、どう答えていいか分からず、言葉に詰まる。
美咲が、助け船を出してくれた。
「すみません、この子、ちょっと人見知りで。もしよかったら、私たち、演劇をしてまして」
美咲が、そう答えると、男性は興味を持ったようだ。
「へえ、演劇ですか!僕も、別の劇団で役者をやってるんですよ。奇遇ですね!」
男性は、真司と美咲に、自分の劇団の話を始めた。
真司は、男性の話を聞きながら、不思議な感覚に陥る。
自分が男として、演劇の話をすることは、日常茶飯事だ。
しかし、女性として、演劇の話を聞くのは、全く違う感覚だった。
男性は、真司を女性として見て、真司に優しく話しかけてくれる。
その優しさに、真司の心は、不思議な高揚感で満たされていく。
「真司くん、大丈夫?」
男性が席を立った後、美咲が心配そうに真司に声をかけた。
「うん、大丈夫。なんか、不思議な感じだった。男の人に口説かれるって、こんな感じなんだな……」
真司は、そう言って笑った。
しかし、その笑みの奥には、「役作り」と「新しい自分の感覚」が入り混じり、揺らぎ始めている、真司自身の心が映っていた。

役作りってここまでやるんですかね?
私個人としては、日常でメイクなんて無理です。
出かけるぎりぎりまで寝ていたいし。
女性のこういうところって尊敬します。
まあ、すっぴんで出かける友人も多々いますけど。
続き
本番まであと2週間。稽古は、佳境に入っていた。
真司は、もはや完全に「真理子」として舞台に立っていた。
声のトーンも、歩き方も、仕草も、全てが完璧だ。
団員たちも、真司のことを「真司」ではなく「真理子」と呼ぶのが当たり前になっていた。
「真理子、そこはもっと、可愛らしく!彼に、甘えるように!」
日野団長の厳しい指導にも、真司は笑顔で応える。
「はい、団長!」
真司は、演じることが、心から楽しくなっていた。
しかし、その日、真司は思わぬアクシデントに見舞われる。
稽古が終わり、いつものように女装姿で帰宅する途中だった。
真司は、交差点で信号待ちをしていた。
そのとき、道路の向こう側で、ボールを追いかけていた小さな男の子が、突然車道に飛び出した。
「危ない!」
真司は、考えるよりも先に、体が動いた。
真司は、スカートを翻し、車道に飛び出す。
そして、男の子を抱きかかえ、道路の脇に押しやった。
キキーッ!
真司の目の前で、急ブレーキをかけた車のタイヤが、地面を擦る音が響く。
真司は、男の子を庇った拍子に、バランスを崩して転倒した。
右膝に、激しい痛みが走る。
「大丈夫!?」
運転手や、通行人が、真司に駆け寄ってくる。
男の子は、怪我一つなく、真司の胸の中で泣きじゃくっていた。
真司は、痛みを堪えながら、男の子を抱きしめた。
「大丈夫だよ。もう、怖くないから……」
真司は、男の子を母親に渡し、通行人の手を借りて立ち上がろうとした。
しかし、右膝に力が入らない。激痛が走り、真司は再び地面に膝をついた。
救急車で病院に運ばれ、真司は診察を受けた。
結果は、膝の捻挫。
骨に異常はなかったが、医者からは「本番までに完治するのは難しいかもしれない」と言われた。
真司の耳に、医者の言葉は、遠い世界のことのように聞こえた。
「舞台……どうしよう……」
真司は、絶望の淵に立たされた。
劇団に戻ると、皆が真司の無事を喜んでくれた。
しかし、真司が怪我をしたと聞くと、皆の顔に再び暗雲が立ち込める。
「真司くん、大丈夫?無理はしないでね」
「真司が怪我をしたんじゃ、代役を立てるしかないな……」
日野団長が、沈痛な面持ちでそう言うと、団員たちから「それはさすがに……」と反対の声が上がった。
真司は、皆の優しさに感謝しながらも、自分のせいで公演が中止になるかもしれないという罪悪感に苛まれる。
そのとき、美咲が真司の前に立った。
「団長、待ってください!真司くんは、真理子です!真司くんの代わりなんて、いません!」
美咲の言葉に、真司はハッとした。
「真司くんは、本番までに治らないって言われただけで、舞台に立てないわけじゃない。膝を庇いながらでも、真司くんなら、きっと真理子を演じられます!私が、真司くんのそばで、ずっと支えますから!」
美咲の言葉に、団員たちも力強く頷く。
「美咲の言う通りだ。真司、君はどうしたい?」
日野団長の問いかけに、真司は迷いなく答えた。
「やります!俺、舞台に立ちます!」
その日から、真司は、膝の痛みを抱えながらの稽古を始めた。
スカート姿での動きは、これまで以上に難しくなる。
走るシーンでは、膝を庇って不自然な走り方になってしまう。
階段を降りるシーンでは、美咲に支えられながら、ゆっくりと降りなければならなかった。
「真司くん、大丈夫?無理しなくていいからね」
美咲は、いつも真司のそばにいて、真司を支えてくれた。
稽古が終わると、真司の怪我した膝に、冷却スプレーをかけてくれた。
「美咲、本当にありがとう」
「いいの。真司くんが、私の代わりに舞台に立ってくれるんだから。これくらい、当然だよ」
ある日の夜遅く、真司と美咲は、稽古場の隅で、二人きりだった。
真司は、膝の痛みに耐えながら、明日の稽古に備えていた。
美咲は、真司がラストシーンで着る赤いドレスを手に、針と糸を動かしている。
「美咲、何してるんだ?」
「このドレス、スカートの部分が少し長すぎるから、真司くんが転ばないように、少し短くしてるの。あと、膝に負担がかからないように、少し動きやすいように、裾も調整してるんだ」
美咲は、そう言って微笑んだ。
真司は、美咲の優しい心遣いに、胸が締め付けられる思いだった。
「美咲……俺、頑張るから。美咲の分まで、最高の舞台にするから」
「うん。信じてる。真司くんが、最高の真理子を演じてくれるって」
美咲は、真司の顔を見て、優しく微笑んだ。
そのとき、二人の間に、言葉にはできない、特別な空気が流れた。
赤いドレスが、二人の関係を、より一層深く結びつけているように感じられた。
いよいよ、本番の日がやってきた。
市民ホールの客席は、満員御礼。
開演のブザーが鳴り響き、真司は舞台袖で深呼吸した。
膝の痛みは、少しだけ和らいでいる。しかし、不安がないわけではなかった。
「真司くん、大丈夫。真司くんは、真理子だよ」
美咲が、真司の耳元でそっと囁く。
真司は、美咲の言葉に、心の中で強く頷いた。
舞台に上がる。スポットライトが、真司を照らす。
真司は、自分の中の「真司」と「真理子」を、統合する感覚を覚えた。
真司の身体を動かすのは、真司の魂だ。
しかし、真司の心を満たしているのは、真理子という役の魂だった。
舞台は、順調に進んでいく。
真司は、膝の痛みを忘れるほど、役に没入していた。
セリフも動きも、完璧にこなす。
膝を庇う動きも、真理子というキャラクターの、少しおっちょこちょいな、可愛らしい仕草として、観客に伝わっているようだった。
そして、いよいよラストシーン。
真司は、美咲が手直ししてくれた、赤いドレスを身につけ、舞台の中央に立っていた。
照明が、真司を幻想的に照らす。
ヒロインの真理子は、主人公の男性に、自分の心を打ち明ける。
「あなたと出会って、私は、初めて本当の自分を見つけられた気がする。でも、まだ、本当の私を見つけられていないのかもしれない」
台本にない、アドリブのセリフだった。
真司は、自分の口から出た言葉に、自分自身が驚いていた。
「私は、ただ、私が私であるために、ここにいる」
その台詞は、真司自身の心の叫びだった。
男として、女として、役者として、人間として。
様々な葛藤を抱えながら、真司がたどり着いた、一つの答えだった。
観客席から、すすり泣く声が聞こえる。
真司の魂がこもった台詞は、観客の心を深く打った。
舞台は、大成功のうちに幕を閉じた。
カーテンコールで、真司は、満員の客席に向かって、深々と頭を下げた。
大きな拍手が、真司の全身を包み込む。
舞台裏に戻ると、団員たちが、真司を抱きしめた。
「真司、お前、最高だよ!」
「真理子、めちゃくちゃ可愛かった!」
皆の言葉に、真司は涙をこぼした。
そして、美咲が真司のそばに駆け寄ってきて、真司を強く抱きしめた。
「真司くん、最高の真理子だったよ。本当に、ありがとう」
美咲の温かい腕の中で、真司は、これまでの全ての苦労が報われたような気がした。
公演終了後、真司は、再び「佐倉真司」に戻った。
しかし、真司の心は、もう以前の真司ではなかった。
クローゼットには、美咲が選んでくれた女性の服や、あの赤いドレスが、ひっそりと残されている。
真司は、時折、その服たちを眺めては、舞台に立っていた頃の自分を思い出していた。
公演から1週間後、真司と美咲は、劇団近くのカフェで打ち上げをしていた。
「まさか、真司くんがあんなに可愛い真理子を演じられるなんて、思ってもみなかったな」
美咲は、そう言って笑う。
「美咲がいてくれたからだよ。美咲が、俺を真理子にしてくれたんだ」
真司は、美咲に心からの感謝を伝えた。
「ねえ、真司くん」
美咲が、真剣な眼差しで、真司を見つめた。
「また、女装してくれる?」
真司は、美咲の言葉に、一瞬戸惑う。
「どうして?」
「私、あの時の真司くんが好きだった。真理子を演じている真司くんが、一番輝いてた」
美咲の言葉は、真司の心を深く揺さぶった。
真司は、美咲の言葉に、どう答えていいか分からなかった。
「……役作りだからな」
真司は、そう言って、少し照れくさそうに笑った。
しかし、真司の心の中では、少し違う気持ちが渦巻いていた。
あれは、ただの「役作り」だったのだろうか?
真司は、あの舞台の上で、本当の自分を見つけたような気がしていた。
カフェを出て、二人は別々の道を歩き始める。
真司は、自分の胸の中に、まだ「真理子」が生きているのを感じていた。
そして、その日の休日。
真司は、一人で街に出た。
いつもの男物の服ではなく、少しだけ女性らしい、可愛らしいブラウスを着ていた。
真司は、ウィッグもメイクもしない、素の自分のままだった。
街角の、洋服店のショーウィンドウに、真司の目が止まる。
そこに飾られていたのは、春らしい、淡い黄色のワンピースだった。
真司は、そのワンピースをじっと見つめる。
そして、真司の口元に、自然と笑みが浮かんだ。
真司は、洋服店の中に入っていく。
その背中は、以前の真司とは、どこか違っていた。
女装を通して、真司は、自分の中にある新しい一面を発見した。
それは、ただの「役作り」ではなかった。
それは、真司が、自分自身を深く知るための、旅だったのだ。
真司は、これからも、様々な自分と出会い、成長していくのだろう。
赤いドレスが象徴する、舞台と現実の境界線で、真司の新しい人生が、今、始まったばかりだった。



コメント
Very nice and thoughtful
Developing the character is really important for an actor. Well, probably.