縮まらない歩幅、ぬかるむ草地
鎖骨の下を真横に走る硬いワイヤーの圧迫感と、ナイロンの繊維が皮膚をちくちくと刺す不快感で目が覚めた。
身をよじるたびに薄い布地の中で不自然な重みを持って揺れる胸の塊は、男だった頃の硬質な輪郭をどこにも残していない。
悠人は、自分が「美咲」という三十代の女性の肉体、そしてその身体を締め付ける窮屈な下着の檻に閉じ込められた現実を突きつけられていた。
寝返りを打とうとして、脇腹の肉がブラジャーのサイドボーンに乗り上げる感触に顔をしかめる。
起き上がると、重力に従って二つの脂肪の塊が下へと垂れ下がり、大胸筋とは明らかに違う鈍い質量として胸部にのしかかった。
男のときには、起き上がるという動作にこれほどの予備動作も、重心の計算も必要なかった。
ただ起きればよかったのだ。
しかし今の身体は、まず胸の重みを受け止め、それから広くなった骨盤を支点にして、慎重に上体を起こさなければならない。
洗面台の鏡の前に立つ。
そこに映っているのは、三十代半ばの、どこにでもいる成熟した女性の姿だ。
肌のきめは男の頃より細かいが、目元には相応の疲労の影があり、首筋から肩にかけてのラインはなだらかに丸みを帯びている。
美少女でもなければ、若返ってもいない。
ただ、年齢を重ねた女性の肉体が、生活感を伴ってそこに存在しているだけだった。
悠人は無言で歯を磨く。
口をすすぐとき、胸元が揺れる。
その視覚的、触覚的な違和感は、どれだけ時間が経っても消えることはない。
これが「自分の身体」であるとは到底思えなかった。
だが、爪を立てて二の腕を強く抓ってみても、走る痛みは間違いなくこの脳に届く。
不可逆。その四文字が、冷たい水のように胃の底へ溜まっていく。
クローゼットを開け、今日の服を選ぶ。
お気に入りのジーンズやTシャツは、もうこの身体には合わない。
ヒップの容積が大きくなりすぎたせいで、男物のズボンは太ももで引っかかり、無理に上げれば股間が惨めなほどに締め付けられる。
結局、美咲が持っていたミモレ丈のタイトスカートと、首元の詰まったブラウスを手にとった。
ストッキングを履く作業は、今でも苦痛でしかなかった。
爪を引っ掛けないように細心の注意を払いながら、伸縮性の高いナイロンの筒に足を滑り込ませる。
足首、ふくらはぎ、そして太ももへと引き上げるにつれ、皮膚全体が薄い膜で均一に圧迫されていく。
この、常に身体が何かに包まれ、監視されているような感覚。
股ぐりの部分がぴったりと密着したとき、自分が完全に「女」の側に分類されたことを実感させられる。
ブラウスのボタンを留め、スカートのファスナーを上げる。
ウエストの一番細い部分で固定された帯が、呼吸のたびに腹部を圧迫した。
「おはよう、美咲さん」
職場に到着すると、同僚の里奈が給湯室から顔を出した。里奈は特に悪気もなく、いつものように微笑んでいる。
「おはよう、里奈さん」
自分の口から出る声は、男のそれよりも一段高く、柔らかい。
声帯の震え方が違う。
その響きにさえ、悠人は毎朝かすかな吐き気を覚える。
「あ、ちょうど良かった。美咲さん、午前中の会議の資料、役員分のコピーとお茶の準備、お願いしていい? あと、営業部から回ってきた書類の整理も。男の人たち、ああいう細かい作業全然やってくれないからさ」
里奈は当然の役割としてそれを口にした。
美咲という人間がこれまで組織の中で担ってきた、あるいは「その年齢の女性職員」に期待される、名前のない雑務の数々。
男だった頃の悠人なら、それが誰の仕事であるかなど深く考えもしなかっただろう。
だが今、その役割は「女性の身体」を持っているという理由だけで、自然に、かつ強制的に悠人の肩へと滑り落ちてくる。
「わかりました。やっておきます」
断る理由も、エネルギーもなかった。コピー機の前に立ち、淡々と紙を揃える。
パンプスの低いヒールが床を叩く音が、静かなオフィスに響く。
つま先が細い靴の中で親指と小指が押し潰され、じんわりとした痛みが歩くたびに走った。
男性用のビジネスシューズのような、地面をしっかりと踏みしめる感覚はどこにもない。
常に重心が前に傾き、ふくらはぎの筋肉が緊張を強いられている。
昼休み、給湯室で湯を沸かしていると、不意に下腹部に鈍い違和感が走った。
重く、引き摺り下ろされるような痛み。
(また、これか)
月の半分近くを支配する、ホルモンの波と内臓の軋み。
下腹部の奥で何かが凝固し、剥がれ落ちていくような不快感は、男の論理的な思考を容赦なく麻痺させる。
理由のない焦燥感、涙もろさ、そして身体の底から湧き上がるだるさ。
それらはすべて、この肉体が有する機能の「副作用」だった。
トイレの個室に入り、下着を汚さないように処置を施す。
ナプキンの粘着テープが剥がれる乾いた音が、狭い空間に虚しく響いた。
手を洗う際、ふと指先が自身の胸に触れる。
生理前の張りのせいで、触れるだけで微かな痛みが走ると同時に、皮膚の奥の神経が奇妙な熱を帯びるのがわかった。
それは紛れもない生理的な快感の不備、あるいは身体的な反応だった。
しかし、その微かな快楽は、悠人にとって救済でも報酬でもない。
むしろ、精神が「男」である自分を、肉体が力づくで「女」へと作り変え、調教していくような、底知れない恐怖と狂気そのものだった。
快感を感じるたびに、自分が内側から汚され、削り取られていくような感覚に陥る。
受け入れたところで、この精神の違和感という傷が癒えることは決してないのだ。
夕方、退勤のチャイムが鳴る頃には、全身が鉛のように重くなっていた。
骨盤が広いせいで、歩くたびに大腿骨の付け根に独特の疲労が溜まる。
「美咲さん、お疲れ様。最近、なんか雰囲気変わった? なんていうか、すごく落ち着いたっていうか、大人っぽくなったよね」
帰り際、里奈が声をかけてきた。世間話のつもりの、ありふれた褒め言葉。
「そうかな。疲れてるだけだと思う」
悠人は曖昧に笑って、オフィスを後にした。
「女性らしくなった」という評価は、悠人にとって、自身の精神の死が近づいているという宣告に等しかった。
この肉体に適応していくことは、決して正しい成長ではなく、精神が肉体の歪みに屈していくプロセスに過ぎない。
駅までの道を歩きながら、ストッキングの中で汗ばんだ足指を動かす。
パンプスの硬い縁が、踵の皮膚を容赦なく削っていた。
家に帰れば、あのワイヤーの下着を外し、この重い胸を解放することができる。
しかし、下着を脱いだところで、肉体そのものを脱ぎ捨てることはできないのだ。
夜、風呂上がりに鏡の前に立ち、何も身につけていない自らの身体を見つめる。
肉付きのいい太もも、くびれた腰、そして重そうに垂れる胸。
どこをどう見ても、一人の成熟した女性の身体だった。
悠人はその滑らかな皮膚に触れ、指先を滑らせてみる。
肉体は確かに生きているが、その中にいる自分は、まるで他人の家に無断で押し入った泥棒のような居心地の悪さを感じ続けている。
この重み、この衣服の圧迫感、この社会からの視線と役割。
それらすべてを引きずりながら、明日もまた、美咲として生きていかなければならない。
時間の流れは不可逆であり、この身体が男に戻ることは二度とない。
その圧倒的な現実の前に、悠人はただ、静かに目を閉じるしかなかった。
窓の外からは、夜の街の湿った風が、かすかに部屋の中へと吹き込んできていた。



コメント