重力の取り決め
喉を焼くような青い液体の残滓が、歪んだ味覚となって舌の奥にこびりついている。
寝返りを打とうとした瞬間、胸元に、自分の筋肉ではない「泥のような肉の塊」がふたつ、重力に従ってずるりと脇へ流れ落ちるのを感じた。
起き上がろうにも、腰の奥にある見知らぬ鈍痛が鉛のように体幹を縛り、かつて軽快だったはずの骨組みは、どこにも見当たらなかった。
悠人は、ひどく湿気った異臭のする布団の中で目を覚ました。
視界に飛び込んできたのは、ひび割れた煙草のヤニ汚れが目立つ、見知らぬ安アパートの天井だった。
いつも入院病棟で嗅いでいた、あの清潔で無機質な消毒液の匂いはどこにもない。
「あ、」
声を出そうとして、喉の奥からせり上がってきたのは、自分のものとは思えない低く濁った、掠れた掠音だった。
悠人は自分の喉元に手を当てようとした。
しかし、持ち上げた腕の皮膚は妙に柔らかく、締まりがない。
手首の関節は太く、指先は短く丸み帯びており、爪の生え際には主婦の手荒れ特有の、硬くめくれたささくれがいくつも点在していた。
(何だ、これは)
寝返りを打とうとするたびに、大胸筋があるべき位置に取り付いた肉の塊が、自重で左右に揺れて皮膚を引っ張る。
その圧倒的な「異物感」に、脳の処理が追いつかない。
悠人は肺を大きく広げて息を吸ってみた。
驚いたことに、昨日まで彼を四六時中苛んでいた、胸の奥を鋭利なナイフで抉られるようなあの進行性疾患の激痛は、綺麗さっぱり消え失せていた。
呼吸が、深く、どこまでも通る。
酸素が肺胞を満たす感覚だけは、確かに「健康」そのものだった。
だが、痛みが消えた代わりに押し寄せてきたのは、未だかつて経験したことのない、泥のように重く不快な「肉体の質量」だった。
布団を跳ね除けようとしたが、腹の周りに溜まった脂肪が邪魔をして、上半身を起こすだけで息が切れた。
寝返りを打つ一動作ですら、腰の骨盤の奥から「ズシ」とした鈍い痛みが這い上がってくる。
這いつくばるようにして畳に手を突き、よろよろと立ち上がった。
重心が異常に低い。
太ももの内側同士が、歩くたびにべたりと擦れ合う。
股の間にあったはずの、二十数年間見慣れてきた自身の肉体の一部は完全に消失しており、代わりにひどく風通しの悪い、湿った肉の割れ目が下着の布地を噛んでいた。
壁に掛けられた、埃を被った小さな鏡の前にたどり着き、悠人は息を呑んだ。
鏡の中にいたのは、22歳の自分ではなかった。
目元に刻まれた深い数条の皺。たるんだ頬の皮膚。
あちこちに薄いシミが浮き出た首筋。
白髪が数本混じり、雑に後ろでゴムで束ねられた、パサついた髪。
それは、どう見ても40代後半から50代に差し掛かろうとしている、見知らぬ中年の女の姿だった。
「嘘だろ……」
再び漏れた声は、やはり低く、生活感に塗れたおばさんのものだった。
悠人は震える手で鏡の枠を掴んだ。
あの怪しげな地下のバーで、ブローカーの男から「これを飲めば、同じものを飲んだ誰かと身体が入れ替わる。病気で死ぬのを待つだけの若い身体から、健康な肉体へと乗り換えられる」と持ちかけられたとき、彼は一縷の望みに賭けた。
法外な金を支払い、藁にもがる思いで青いドリンクを飲み干したのだ。
健康な身体が欲しかった。
もう一度、自分の足でどこまでも歩ける、病魔に侵されていない肉体が欲しかった。
確かに、この身体は病気ではない。
癌も、進行性の内臓疾患もない。
しかし、手に入ったのは「瑞々しい若さ」などではなく、すでに人生の半分以上を消費し、労働と加齢によって徹底的に摩耗しきった「他人の残り滓」のような肉体だった。
ふと足元を見ると、畳の上に一通の封筒が落ちていた。
不格好に震える指先でそれを拾い上げ、中身を引き出す。
そこには、あのブローカーの無機質なフォントで、事務的な文面が印字されていた。
『マッチング完了。あなたの新しい肉体の元の持ち主は「美咲(49歳)」。重大な疾患は認められませんが、慢性的な腰痛、および軽度の更年期障害の症状が見られます。生活基盤はそのまま引き継がれますので、速やかに現社会生活に適応してください。なお、本契約は不可逆であり、再度の入れ替えは不可能です』
不可逆。
その四文字が、悠人の脳裏に冷酷な事実として突き刺さる。
身体が戻らないのではない。
たとえ奇跡が起きてこの肉体が若返ったとしても、あるいは元の病室に戻れたとしても、この「おばさんの肉体に閉じ込められ、その機能を強制的に使わされた」という記憶と精神の汚染は、二度と元には戻らない。
悠人は洗面所へ向かい、美咲という女の生活の痕跡を確かめた。
棚にはドラッグストアで買った安いオールインワンジェルと、更年期障害向けの漢方薬の瓶が置かれている。
試しにブラジャーという器具を身につけようとして、悠人はその構造の不条理さに愕然とした。
背中に手を回してホックを留めるだけで、四十肩になりかけた肩の関節が悲鳴を上げる。
なんとか収めた肉の塊は、胸部をきつく圧迫し、肋骨の周りに容赦なくワイヤーを食い込ませてきた。
「くそ、なんだこれ……重い……」
歩くたびに、この胸の肉は物理的な振り子となって体幹を揺さぶる。
それは男性が想像するような性的な魅力を孕んだものでは断じてなく、ただただ動きを阻害し、肩凝りを誘発する「無駄な重り」でしかなかった。
部屋の隅に置かれたカレンダーには、今日の暗い日付の横に「遅番」とだけ油性ペンで書かれていた。
美咲の財布を開けると、数千円の現金と、近所のビジネスホテルの客室清掃のパート従業員証が入っていた。
顔写真には、今、鏡に映っているのと同じ、疲れ切った笑顔の美咲が収まっている。
悠人は、生きるために、この見知らぬおばさんの衣服を身に纏い、外へ出るしかなかった。
ドアを開けた瞬間、生温かい夏の終わりの風が、ストッキングで締め付けられた太ももを撫でていった。
かつて病室の窓から見ていた世界は、驚くほど平坦で、そして容赦なく、この新しい肉体に「年齢相応の役割」を押し付けようと待っていた。
肺は動く。足も動く。
しかし、一歩を踏み出すたびに、膝の軟骨が小さく軋む音がした。
これが、悠人が大金を叩いて手に入れた、新しい「健康」という名の、あまりにも不格好で歪な現実の始まりだった。

元の写真は↑なんですが、
AIで服装を変えてみたら、かなりかけ離れたものができたw



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