プログラム・ドール
起床時、胸骨の裏に溜まった血の重みで、寝返りを打つことすら遅れる。
ナイロン製の黒い耳が、頭皮のステープル(針)を介して鈍い拒絶反応を返していた。
股間の空白に手を伸ばし、ただ滑らかな皮膚の膨らみだけを指先がなぞったとき、男だった記憶の輪郭がまた少し削れるのを感じた。
午前六時。防音壁に囲まれた、窓のないパステルピンクの部屋に、電子的なアラーム音すら鳴らない。
脳幹へ直接滑り込んでくる高周波のシグナルが、悠人の意識を強制的に覚醒させる。
しかし、意識が覚醒したからといって、肉体の主導権が戻るわけではない。
(――動くな)
胸の内でそう念じる。
32歳の男としての、かつての質量と重心を思い出し、すり鉢状の床に踏みとどまるように精神を踏ん張らせる。
だが、その抵抗は何の意味も持たない。悠人の意思を完全にバイパスした上位プログラムが、サーバーからダウンロードされた「モーニング・ルーチン」を淡々と実行し始める。
カチリ、と耳の奥で微小なリレーの駆動音が響く。
次の瞬間、悠人の意思とは無関係に、細く瑞々しい指先が勝手に動き出した。
シーツを跳ね除け、ベッドから足を下ろす。
床に触れた足裏の感覚は、驚くほど冷たく、そして繊細だ。
皮下脂肪の薄い、骨格の小さな足。
成人男性の運動ニューロンにとっては、質量が圧倒的に足りない。
重心が奇妙に高く、常に前傾姿勢を強いられているような不安定さが、視界の位置を数十センチメートル引き下げている。
鏡の前まで歩を進める動作は、驚くほど滑らかで、かつ記号的だった。
内股気味に膝を擦り合わせる歩幅、かすかに肩を竦めるような仕草。
それらすべてがマクロ化されたコードの通りに再現されていく。
鏡の中に映し出されたのは、完璧に「若くてかわいい女の子」の輪郭だった。
人工的に白く均一に整えられた肌。
光彩の大きな、潤んだ瞳。
しかし、それは自然な生命の営みがもたらした美しさではない。
ネットワークの向こう側にいる不特定多数の「顧客」が、最も効率的に視線を留めるように調整された、冷徹な演算結果としての造形だ。
画面の端に、美咲のシステムログがポップアップする。
『本日のスタイリング:コード#D-044(クラシック・メイド)。メイク:トレンド指数:A++(血色感重視)』
悠人の視線が固定される。鏡の中の少女の細い指が、ドレッサーの上に置かれた化粧品を迷いなく掴んだ。
パフが頬に押し当てられ、不自然に赤みの強いチークが叩き込まれていく。
まぶたには、粘膜の呼吸を塞ぐような人工まつげが手際よく接着された。
接着剤の有機溶剤の臭いが、鼻腔の奥をツンと刺す。
その生々しい不快感だけは、プログラムに遮断されることなく、悠人の脳へストレートに伝わってくる。
(やめろ、もういい)
叫ぼうとしても、声帯は震えない。唇はただ、ファンデーションを馴染ませるために小さく「う」の形を結ぶだけだ。
メイクが終わると、身体は自動的にクローゼットへ向かった。
今日の衣装が、あらかじめハンガーに掛けられている。
美咲が選んだそれは、過剰なまでのフリルと、胸元が不自然に強調されたカッティングのメイド服だった。
衣服に袖を通すプロセスは、悠人にとって最も苦痛な時間の一つだ。
細い腕を通し、背中のファスナーが引き上げられる。
その瞬間、硬質な布地と骨盤を矯正するコルセットが、容赦なく肋骨のさらに下側を締め付けた。
内臓が押し上げられ、肺の容量が物理的に制限される。浅い呼吸しか許されない。
さらに、ソックスのゴムが太ももの柔らかい皮膚に食い込み、下半身の血流が滞る感覚がじわじわと熱を持って広がっていく。
「可愛い」という外見を維持するための、物理的な圧迫と痛みの数値。
それはシステムによって「必要なインフラ」として処理されており、悠人はそのすべての摩擦を、ただの乗客として引き受けなければならない。
髪の付け根、頭皮のステープルにパチンと音がして、黒いナイロン製の猫耳カチューシャが固定される。
金属の爪が頭皮を圧迫し、鈍い頭痛が側頭部を支配し始める。
準備が整うと、アバターの口元が勝手に微かに吊り上がった。鏡の中の少女が、完璧な営業用の笑顔を作る。
『セットアップ完了。午前七時、デイリーコンテンツの撮影を開始します』
脳内に直接響くアナウンスと共に、身体は部屋の中央に据えられた高解像度カメラの前へと歩き出した。
悠人の精神は、その「人形」の奥底で、ただ爪を立てるように冷たい思考を回し続けることしかできなかった。
不可逆の檻の中で、今日という仕様書通りの一日が、また始まる。



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