調教の台所
ストッキングの網目が太も目の肉にくい込み、皮膚を一定の圧力で締め付け続けている。
歩くたびに胸部が不自然な質量を持って上下に誤作動のように揺れ、それに合わせて全体の重心が前へと不格好に引っ張られた。
鏡に映る佐藤美咲の顔は、私のものであるはずなのに、油浮きした薄い化粧の層のせいで、精巧に作られた他人の仮面を覗き込んでいるようだった。
夕方五時半のオフィス街は、アスファルトの照り返しと室外機の熱風で満ちている。
かつて男だった頃、私はこの時間、スラックスのポケットに両手を突っ込み、大きな歩幅で駅へと向かっていた。小銭と鍵の擦れ合う音だけをポケットの中で
鳴らし、汗をかけばTシャツの襟元を掴んで煽る。そんな、呼吸をするのと同じくらい当然だった動作のすべてが、今の私からは剥奪されている。
現在の私は、幅の狭いタイトスカートの裾を気にしながら、男性の半分ほどの歩幅で、頼りないヒールに体重を乗せて歩かなければならない。
少しでも大股で歩しようとすれば、膝の裏の生地がつっぱり、姿勢が崩れる。
汗は、丁寧に塗り重ねたファンデーションを内側から押し上げ、不快なぬめりとなって皮膚の表
面に留まる。
それをハンカチで擦れば、茶色い泥のような汚れとなって布地を汚すだけだ。
だから、そっと押さえるようにして誤魔化す。その一連の「仕草」が、あまりにも自然に身についてしまっている自分に気づくたび、胃の奥が冷たく縮む。
「……お疲れ様です、佐藤さん」
すれ違いざま、そう声をかけてきたのは、営業部の若手社員・浅見悠人(あさみ ゆうと)だった。
よく日に焼けた肌、まだ二十代前半の引き締まった細身の骨格、そして何より、私が四ヶ月前まで確かに所有していた「あの身体」だ。
「ええ、お疲れ様。浅見くん」
私は喉の奥を狭め、佐藤美咲のトーンを正確に出力して微笑み返す。その一瞬のやり取りの間、私は浅見の……いや、私の元の身体の目をじっと見つめていた。
あの日、私――営業部のベテラン事務として生きていた男は、佐藤美咲と「入れ替わって」しまった。
最悪なことに、それは片一方の消失ではなく、完全な相互の交換だった。
私の魂は美咲の成熟した肉体に押し込められ、本物の佐藤美咲は、私の元の身体である「浅見悠人」として生きることを余意なくされている。
浅見の身体に入った美咲は、当初こそパニックに陥っていたが、今では奇妙な方法でその現実を消化しつつあった。
彼女は、男性の肉体が持つ剥き出しの自由を楽しんでいるようだった。
ポケットに手を入れたまま、下着の締め付けも、毎月の生理の重苦しさもなく、ただ重力に抗って軽快に走ることができる肉体。
居酒屋で大声をあげてビールを飲んでも「お転婆」とは掠りもしない社会的な気楽さ。
彼女は「男の楽しさ」を、まるで新しい玩具を手に入れた子どものように、淡々と享受していた。
しかし同時に、彼女は「男性としての生きづらさ」という別の泥沼にも足を取られ始めていた。
営業部という男社会の縮図の中で、若手社員として常に求められる「主体性」や「決断力」、そして何より数字という結果に対する容赦のない重圧。
女性だった頃には「おっとりしていて可愛い」と許されていた曖昧な態度や沈黙は、男の身体になった途端に「無能」「頼りない」という冷酷な評価へと変貌する。
美咲の心を持った浅見の身体が、上司の叱責に怯え、小さく肩をすぼめている姿を、私は社内で何度も目撃していた。
男であるということは、ただ弱さを隠し、戦い続けなければならないという終わりのない呪いなのだと、彼女もまた身をもって知っているはずだった。
一方で、私の苦痛はさらに泥臭く、実務的だった。
社内での佐藤美咲の立ち位置は「気が利いて、いつも笑顔のベテラン事務」だ。
お茶出しのタイミング、書類の細かな不備への気づき、他部署との摩擦を和らげるためのクッションのような物物しい。
中身がただのくたびれた男である私にとって、それらの「自然な振る舞い」を完璧に演じることは、毎日が薄氷を踏むような緊張の連続だった。
ほんの少しでも声のトーンを落としたり、お辞儀の角度を怠ったりするだけで、周囲の男性社員からは「佐藤さん、最近冷たいね」「体調悪いの?」と、無言の牽制が入る。
女性のベテラン事務という役割を、ほんの少しでも踏み外すことは許されない。
私は毎日、自分が男として培ってきた三十数年の自尊心を削り落としながら、「佐藤美咲」という記号を精巧に演じる事務作業をこなしていた。
どれだけ拒絶しようとも、不可逆の時間だけが淡々と流れていく。
美咲が男の身体に、私が女の身体に適応していく過程は、救済でもなんでもない。
ただの「狂い」の固定化だった。
「ただいま」と声に出してみる。ワンルームの狭い玄関に、私の喉から発せられた高い声が虚しく響く。
部屋の中は、コンビニ弁当の空き容器や、スーパーの惣菜のプラスチックトレイが何層にも重なってプラスチックの山を作っていた。
レトルトカレーのパウチがゴミ箱から溢れ、部屋全体に微かに油の酸化した臭いが染みついている。
私は料理が苦手だった。
正確に言えば、佐藤美咲の持つ調理器具や、このワンルームの狭い二口のガスコンロをどう扱えばいいのかが分からなかった。
男だった頃は、大きなフライパンに肉と野菜を放り込んで塩コショウを振るだけで事足りていた。
しかし、この身体になってから、周囲は私に「それなりのもの」を期待する。
会社の給湯室で「佐藤さん、今日のお弁当は何を持ってきたの?」と訊かれるたびに、私は愛想笑いを浮かべながら「寝坊しちゃって」と嘘をつき続ける。
そのたびに、周囲の女性社員たちが見せる、同情と、どこか見下すような視線が、私の皮膚をちくちくと刺した。
ストッキングを片足ずつ脱ぎ捨てる。
爪先が解放される瞬間の快感は確かにあるが、それは救いでもなんでもない。
ブラジャーのホックを外すと、胸の肉が自重でだらりと垂れ下がる。
多くの男たちが美化し、性的記号として消費する「胸の膨らみ」は、実際に所有してみれば、ただの鬱陶しい脂肪の塊でしかなかった。
走れば痛む。汗が溜まって蒸れる。
下着で持ち上げて固定しなければ、服の上から見苦しいシルエットを晒すことになる。
それは魅力などではなく、毎日維持管理を怠ってはならない「重荷」であり「邪魔な肉」だった。
シャワーを浴び、鏡の前に立つ。
水滴を弾く肌は、客観的に見れば、三十代を迎えつつある大人の女性の、それなりに成熟した美しさを持っているのだろう。
だが、私にとっては、これは監獄の壁そのものだった。
浅見の身体を奪い返す手段はない。
そして、美咲自身も、もうあの重苦しい「女の肉体」に戻りたいとは心底からは願っていないだろう。
お互いに傷を抱えたまま、歪な入れ物の中で擦り切れていくしかないのだ。
この身体で、この世界を最後まで生き抜くためには、もっと確実な、強力な「錨」が必要だった。
私を佐藤美咲として完全に世間に着地させ、中身の違和感をすべて覆い隠してくれるような、強固なカモフラージュが。
携帯電話の画面が、無機質な通知音とともに光った。
画面に表示されたスケジュールには、明日受ける予定の、会社の定期健康診断の文字があった。
私は深く息を吸い込み、浅い胸の上下を自覚しながら、ベッドのシーツに身体を沈めた。
明日もまた、私は佐藤美咲としての重い皮膚をまとって、あの男たちのいる戦場へ出なければならない。
そこには何の希望もなく、ただ不可逆な時間が、私を摩耗させるためだけに流れていた。



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