重なり、腐る、黒と白
公園のベンチは、湿った秋の空気を吸い込んで冷え切っていた。悠人はその冷たさを、白いコットンスカートの薄い布越しに感じている。
かつて、この服装は彼にとっての「翼」だった。黒いオーバーサイズのパーカーで上半身の輪郭を消し、白いスカートで歩幅を縛る。
それは男という役割から降り、何者でもない自分として音楽に没入するための儀式だった。
だが、今の悠人にとって、この布地はただの「皮膚の延長」であり、剥がすことのできない枷に変わっていた。
彼――今は、美咲と呼ばれるはずだった女の肉体に閉じ込められた「何か」――は、膝の上に置かれたアコースティックギターの重みに耐えていた。
ギターの裏板が、不自然に膨らんだ胸部を圧迫する。
以前は肋骨の感触をダイレクトに伝えてくれた楽器が、今は脂肪のクッションに押し返され、安定しない。
「……っ」
弦を押さえる指先を見る。
かつての硬いタコが消え、白く細くなった指は、スチール弦の張力に負けて赤く腫れていた。
一曲歌い終えるたびに、喉の奥に焼け付くような違和感が残る。
女の細い声帯は、彼が理想とする掠れた低音を拒絶し、ただ空虚に震えるだけだ。
「いい歌ですね」
不意に声をかけられ、悠人は顔を上げた。
そこに立っていたのは、自分と同じ、黒いパーカーに白いスカートを纏った人物だった。
かつての自分が鏡の中に置き忘れてきたような姿。だが、その中身は「美咲」という名の女の精神を宿した、悠人の元の肉体だった。
美咲(悠人の肉体)は、ベンチの端に静かに腰を下ろした。
彼女の手には一冊の文庫本が握られている。
かつて悠人が誇っていた大きな手、節くれ立った指先が、繊細な紙をめくる。
その光景は、彼にとって耐え難いほどの「間違い」として網膜に焼き付いた。
「……本、読んでたんじゃないのか」
悠人は、自分のものだったはずの声で問いかける。
低く、よく通る、かつての自分の声。だがその声は今、目の前の男の形をした怪物から発せられている。
「読んでいました。でも、あなたのギターが、あまりに苦しそうに鳴るから」
美咲の声には、同情も慈しみもなかった。
ただ、事実を淡々と述べるだけの観察眼。
彼女もまた、この「入れ替わり」という不条理に、適応という名の狂気で応じようとしていた。
二人の間に流れる空気は、「運命の出会い」とは程遠い。
そこにあるのは、互いの肉体を奪い合った泥棒同士の、無言の境界線だ。
悠人は、自分の太腿に視線を落とした。
スカートの裾から伸びる脚は、細く、なだらかな曲線を描いている。
だがその内側では、絶えず「重さ」が主張していた。
立っているだけで腰にくる鈍い痛み、座れば腹部の肉が重なり合う不快感。
それは性的な魅力などではなく、ただ維持するためにコストがかかる「肉の塊」としての重圧だった。
「戻れないんだな、もう」
悠人が呟くと、美咲は本を閉じた。バサリという乾いた音が、静かな公園に響く。
「一ヶ月経ちました。体毛の生える周期も、血の巡る感覚も、この体が『私』であることを強要してくる」
美咲(悠人の肉体)は、パーカーの袖を捲り上げた。
そこには、悠人がかつてギターを弾くために鍛えた前腕の筋肉がある。
だが、その皮膚は今や、美咲が執拗に繰り返した洗浄のせいで赤く爛れていた。
彼女は、男の肉体から発せられる皮脂や臭いを、拒絶反応のように削ぎ落とそうとしている。
「君の体は、重い」
悠人は吐き捨てるように言った。
「胸が邪魔だ。歩くたびに揺れて、重心が狂う。ブラジャーという針金が肺を締め付けて、深く息を吸うことさえままならない。この体で歌を歌うのは、泥水を飲み込みながら叫ぶようなものだ」
「私の絶望を、あなたの言葉で汚さないで」
美咲の瞳が冷たく光る。
「その体は、私が二十八年かけて付き合ってきた現実です。あなたが『自由』だと思って着ていたスカートが、どれほど足元を冷やし、他人の視線を暴力に変えるか。あなたは今、その代償を支払っているだけ」
悠人は黙り込んだ。反論する言葉は、喉に絡みつく粘膜に邪魔されて出てこない。
かつて、二人は「同じ服装をしていること」に特別な絆を感じていた。
それは、自分たちが社会の枠組みから少しだけはみ出しているという、甘い共犯意識だった。
だが、肉体が完全に入れ替わり、その変化が「不可逆」であると突きつけられた今、同じ服装は地獄のユニフォームでしかなかった。
悠人は立ち上がろうとして、一瞬よろめいた。
重心の変化に、小脳がまだ追いついていない。
パーカーのポケットに手を突っ込むと、中で指が自分の腹部の肉に触れた。
柔らかく、弾力のある、自分のものではない肉。
「明日も、ここで歌うのか」
美咲の問いに、悠人は答えなかった。
ギターケースを閉じる金属音が、終わりを告げる鐘のように響く。
彼は知っていた。明日も、明後日も、この「重い肉」を抱えて生きていかなければならないことを。
そして、どれほど心を男のまま保とうとしても、この肉体が要求するホルモン、周期的な出血、そして周囲から向けられる「成熟した女性」としての期待が、ゆっくりと、確実に彼の精神を侵食し、作り変えていくであろうことを。
それは救いのない適応だ。心が肉体に屈服し、狂いながら形を整えていく過程。
悠人は黒いパーカーのフードを深く被り、顔を隠した。
白いスカートを翻して歩き出す彼の背中は、傍目には可憐な女性に見えるだろう。
だが、その一歩一歩は、泥濘に足を取られるような、絶望的な重さに満ちていた。
後ろを振り返ることはしなかった。そこには、自分の理想だったはずの「男の姿」をした女が、汚物を見るような目で自分を見送っているはずだからだ。
二人の間にある溝は、言葉を交わすごとに深まり、腐敗していく。
不可逆な時間は、ただ淡々と、彼らを「異物」へと仕立て上げていった。



コメント