誰にも言えない願い【女装】

ここに掲載しているのは電子書籍版の冒頭サンプルです。 完成版はKindle/Kindle Unlimitedで配信中です。

地方都市の午後、佐伯浩平は教壇に立っていた。

三十一歳。高校の国語教師という肩書きは、彼の人生を形作る最も大きな要素だった。

生徒たちには優しく、時折見せる冗談で笑いを誘う。

同僚たちからは「真面目で信頼できる」と評され、その言葉は彼にとって何よりも重い「社会的証明」だった。

しかし、その「佐伯浩平」という像は、彼自身が懸命に作り上げた仮面でしかなかった。

教室の窓から差し込む夏の終わりの光が、彼の黒板に書かれた文字をぼんやりと照らす。

万葉集の一節を読み上げながら、浩平の意識は遠く離れた場所にあった。

彼の心の奥底には、誰にも話したことのない、話せるはずもない「願い」が深く沈んでいた。

それは、幼い頃からずっと彼を囚え続けている、甘く、そして罪悪感を伴う衝動――「女の子の服を着たい」という秘めた欲望だった。

「先生、ここってどういう意味ですか?」

生徒の一人が質問を投げかけ、浩平ははっと現実に引き戻される。

いつもの笑顔を貼り付け、丁寧に解説する。

「ああ、ここはだね…」言葉を紡ぎながらも、心の中では常に警鐘が鳴り響いていた。

「これは恥ずべきものだ」「誰にも知られてはならない」。

その声は、他ならぬ彼自身の内側から発せられていた。

彼は、自分が「正常」でいなければならないと、心の底から信じ込んでいた。

学生時代、この衝動が彼を苦しめるたびに、浩平はそれを無理やり心の奥底に押し込めてきた。

友人との会話でも、恋人との親密な時間でも、一度としてその話題に触れることはなかった。

触れてしまえば、全てが崩れ去るような気がしていた。

彼はいつも完璧な「男」を演じていた。

運動も得意で、成績も優秀。

非の打ち所のない「佐伯浩平」を演じることで、彼は自分の中の「異物」を隠し通そうとした。

しかし、偽りの日常は、時にふとしたきっかけでひび割れを見せる。

ある日の深夜、誰もいない自宅のリビングで、スマートフォンを何気なく操作していた浩平の指が、ある広告に止まった。

「女装カフェ Little Tiaras」

メルヘンチックなロゴの隣に、「体験撮影プラン:初心者歓迎」の文字が踊る。

彼の目は、そこに釘付けになった。

「女装カフェ…」

浩平はごくりと唾を飲み込んだ。

それは、これまで彼が意識的に避けてきた世界だった。

インターネットでたまたま見かけても、すぐにブラウザを閉じていた。

しかし、その夜は違った。

指が勝手に画面をタップし、ウェブサイトが開かれる。

そこには、きらびやかなドレスをまとった人々が、楽しそうに微笑む写真が並んでいた。

彼らは皆、彼と同じ「男」だったのだろうか。

それとも、彼とは違う「何か」なのだろうか。

心臓がどくどくと音を立てる。それは恐怖なのか、それとも期待なのか。

自分でも判別がつかなかった。

しかし、確かなのは、彼の心の奥底に押し込められていた「願い」が、まるで水面に顔を出すかのように、ひっそりと、しかし確実に息を吹き返し始めていたことだった。

ウェブサイトの隅に小さく書かれた「完全予約制」の文字が、彼の背中を強く押すような気がした。

翌週の土曜日、浩平は深呼吸を繰り返しながら、とあるビルの前で立ち尽くしていた。

スマートフォンの地図アプリには、「Little Tiaras」の文字が光っている。

指先が震える。

今すぐにでも引き返して、この場から逃げ出したい。

そんな衝動に駆られながらも、彼は一歩、また一歩と足を進めた。

エレベーターの扉が開き、目の前に現れたのは、淡いピンクと白を基調とした、まるでおとぎ話に出てくるような空間だった。

シャンデリアが天井から吊るされ、フリルやリボンで飾られた可愛らしい椅子が並んでいる。

予想以上にメルヘンな内装に、浩平は一瞬たじろいだ。

しかし、店内に流れる柔らかな音楽と、どこか心地よいアロマの香りが、彼の緊張を少しだけ和らげた。

「いらっしゃいませ!」

明るい声が聞こえ、振り返ると、一人の女性がにこやかに立っていた。

すらりとした体躯に、大きな瞳。

彼女の笑顔は、まるで春の陽だまりのように温かい。

「お姫様体験、予約されてましたよね?」

穏やかな声でそう問いかけられ、浩平は喉が詰まるような感覚に陥った。

逃げ出したい。頭の中で警鐘が鳴り響く。

しかし、彼女の瞳の奥に、少しだけ理解のような光を見た気がして、彼はなんとか頷いた。

「佐伯様でいらっしゃいますね。私が橘雪乃と申します。本日はよろしくお願いいたします」

彼女はそう言って、優雅に頭を下げた。

雪乃と名乗ったその女性は、浩平が抱いていた「女装カフェの店員」という漠然としたイメージとは全く違っていた。

もっと、こう、どこか怪しげな雰囲気があると思っていたのに。

彼女の自然で温かい対応に、浩平の心は少しずつ氷が解けるように緩んでいった。

ロッカールームへと案内され、雪乃は一枚のフリルのドレスを差し出した。

淡い水色の、肩にはレースがあしらわれた、まるで絵本から飛び出してきたようなドレスだった。

「サイズは大丈夫だと思いますが、何かあればお声がけくださいね」

そう言って、彼女はそっと扉を閉めた。

一人になったロッカールームで、浩平は震える手でドレスに触れた。

柔らかな生地が指先に触れる感触。

今まで着たことのない、肌触りの優しいフリル。

ボタンを外し、袖を通す。

初めての感触に、体の内側から奇妙な感覚が湧き上がってくる。

恥ずかしさ、そして、抑えきれない高揚感。

次に手渡されたのは、柔らかなウェーブのかかったウィッグだった。

鏡の前で、恐る恐る頭にかぶる。

そして、雪乃が持ってきたメイク道具がテーブルに並べられる。

「お顔に触らせていただきますね」

彼女の指先が、そっと浩平の肌に触れる。

筆が肌を滑るたびに、今まで見たことのない顔が鏡の中に現れていく。

ファンデーション、アイシャドウ、リップ。

一つ一つの工程が、彼の中で何かが変わっていくのを感じさせた。

そして、全ての準備が終わったとき、浩平は鏡の前に立った。

そこにいたのは、紛れもなく自分自身だった。

しかし、同時に、見知らぬ「誰か」でもあった。

長い髪、薄く色づけられた唇、柔らかな光を宿す瞳。

「そこにいたのは、見知らぬ――でも、心のどこかでずっと会いたかった自分」

浩平の心臓が、大きく脈打った。

鏡の中の「彼女」は、静かに微笑んでいるように見えた。

それは、彼が何十年も心の奥底に閉じ込めてきた、もう一人の自分だった。

鏡の中の「自分」と、現実の「自分」。

二つの姿が交錯する中で、浩平は撮影ブースへと足を踏み入れた。

カメラマンは無口な男性だったが、雪乃が隣で優しく声をかけてくれた。

「肩の力を抜いてくださいね」

最初の数枚は、やはりぎこちなかった。

硬直した表情、不自然な立ち姿。

まるで借り物の服を着ているような居心地の悪さが、全身を支配していた。

「佐伯さん、もう少しだけ、顎を引いてみましょうか」

カメラマンの声が響き、浩平は言われた通りに動く。

「そうそう、素敵ですよ」

雪乃の優しい声が、耳元で囁かれる。

その言葉が、まるで魔法のように彼の体を解き放っていく。

「すごく自然ですよ」

カメラマンが、シャッターを切るたびにそう呟く。

その一言が、浩平の胸に深く刺さった。

自然。この言葉ほど、今の彼が求めているものはなかったかもしれない。

彼は今まで、「男」であること、「教師」であること、全ての「仮面」を自然に演じようと必死だった。

しかし、今、このドレスを身にまとった自分が「自然だ」と言われた。

その衝撃は、彼の心を大きく揺さぶった。

ポージングを変えるたびに、雪乃が「指先はもっと柔らかく」「目線はもう少しだけ上を」と的確なアドバイスをくれた。

彼女の言葉は、まるで彼の内側から「本音」を引き出してくれるようだった。

最初は意識していた仕草も、時間が経つにつれて、まるで元から自分のものだったかのように馴染んでいく。

鏡の中の「彼女」が、少しずつ、しかし確実に、本来の自分になっていく感覚。

「笑顔、いいですね! そのままキープしてください」

カメラマンの声に、浩平は自然と笑みがこぼれた。

それは、公の場で見せる「佐伯浩平」の笑顔とは違う、心の底から湧き上がる、偽りのない笑顔だった。

ポーズをとることも、笑うことも、全てが“役割”ではなく本音でできていく。

この瞬間、彼の中で何かが決定的に変わった。

シャッター音が、心地よく響く。カシャ、カシャ、カシャ。

一枚一枚の写真が、彼の「本当の自分」を切り取っていく。

時間が経つのも忘れ、夢中でポーズをとり続けた。

もう、この時間が終わってほしくない。

ドレスを脱ぎたくない。

そんな想いが、彼の胸の中で強くなっていた。

撮影が終わり、ロッカールームでドレスを脱ぐ瞬間は、まるで夢から覚めるような寂しさに包まれた。

しかし、テーブルに置かれた数枚の写真を見て、浩平は息を呑んだ。

そこに写っていたのは、紛れもなく自分だった。

だが、そこに宿る表情は、彼が普段見せる「佐伯浩平」の顔とは全く違うものだった。

柔らかな眼差し、自然な微笑み。

それは、彼がずっと隠し続けてきた、もう一人の「自分」の姿だった。

「佐伯さん、今日はありがとうございました」

帰り際、雪乃がそっと声をかけてきた。

彼女は浩平の目を見て、優しく微笑んだ。

「また、会えたら嬉しいです」

その言葉は、彼の心に温かい火を灯した。

それは、ただの社交辞令ではなかった。

雪乃の瞳には、彼の心の奥底に触れるような、深い優しさが宿っていた。

浩平は、無言で頷くことしかできなかった。

彼の心は、希望と、そしてまだ見ぬ未来への期待で満たされていた。

フリルの衣装またはドレスを着て、物憂げな表情で鏡を見つめる男の娘のイラスト

女装してて知り合った友人って割と幅広いです。

中小企業の会社員、フリーターもいれば、

有名企業の社員、公務員、定年後の人もいましたね♪

楽しみに立場や年齢は関係ないんですよ♪

そんな私は底辺のサラリーシーフです!

現実に戻った浩平の日常は、以前と何ら変わらないように見えた。

朝は決まった時間に起き、学校へ向かう。

生徒たちを指導し、同僚と談笑する。

しかし、彼の心は、あの「Little Tiaras」での体験によって、大きく変容していた。

スマートフォンを開くたびに、撮影された数枚の写真が目に飛び込んでくる。

フリルのドレスをまとい、優しく微笑む「自分」。

そこに写る「彼女」は、まるで別人のように見えた。

だが、その表情は、普段の浩平がどんなに頑張っても出せない、生き生きとした輝きを放っていた。

写真を見るたびに、あのとき自分が「生きていた」という確かな感覚が蘇る。

偽りのない自分として、呼吸していたあの時間。

だが、現実の壁は厚かった。

彼は高校教師だ。

生徒たちから慕われ、同僚から信頼される「佐伯浩平」という役割を演じなければならない。

社会的な信頼、男であることの規範。それらが、彼の心に重くのしかかった。

「この写真は、誰にも見せてはいけない」

そう自分に言い聞かせるたびに、心の奥底で生まれた小さな希望の光が、かき消されそうになる。

ある日の放課後、職員室で中谷理人と向かい合って生徒の成績について話し合っている時だった。

中谷は浩平の親友であり、同僚でもあった。

「浩平、最近ちょっと元気ないな」

ふいに中谷が顔を上げて、心配そうに浩平の目を見た。

「え? そんなことないよ」

浩平は慌てて取り繕うとしたが、中谷の鋭い視線は、彼の内側を見透かすようだった。

「いや、なんか、ぼーっとしてることが多いっていうかさ。なんかあったのか?」

中谷はそれ以上深入りすることなく、しかし、優しく問いかけた。

浩平は、ごまかしの笑顔を浮かべることしかできなかった。

親友にさえ、この心の葛藤を打ち明けられない自分が、情けなかった。

その週末、浩平は再び「Little Tiaras」の扉を叩いていた。

前回のような緊張はない。

むしろ、そこへ向かう足取りは、どこか軽やかだった。

店内で彼を出迎えたのは、やはり雪乃だった。

「いらっしゃいませ、佐伯さん。お待ちしておりました」

彼女の変わらない笑顔に、浩平は安堵を覚えた。

今回は、特に撮影の予約はしていなかった。

ただ、誰かと話したかった。

自分の中のこの衝動を、誰かに分かち合いたかった。

雪乃は、そんな浩平の心の機微を察したのか、奥の席へと案内してくれた。

「何か、お話がありましたか?」

彼女は温かいハーブティーを差し出し、静かに浩平の言葉を待った。

浩平は、たどたどしいながらも、自分の抱えている「願い」について語り始めた。

幼少期からの違和感、隠し続けてきた苦悩、そして先日ここでの体験が彼にもたらした衝撃。

雪乃は、一言も挟まず、ただじっと耳を傾けてくれた。

浩平が話し終えると、雪乃はゆっくりと口を開いた。

「私も…実は、以前は男性として生きていました」

その言葉に、浩平は目を見開いた。

彼女の口から語られるのは、浩平と同じような苦しみ、そして、それを乗り越えて「自分」として生きることを選んだ過去だった。

「社会の目は、冷たいこともあります。でも、本当に大切なのは、自分の中のわたしを否定しないこと」

雪乃の瞳は、真っ直ぐに浩平を見つめていた。

その言葉は、彼の心の奥深くに、深く、深く染み込んでいった。

まるで、凍り付いていた心が、少しずつ溶けていくようだった。

彼女の言葉は、彼に、自分を肯定することの尊さを教えてくれた。

雪乃との会話は、浩平にとって大きな転機となった。

彼女の言葉が、彼の中にあった固い殻を破り始めたのだ。

「自分の中のわたしに、名前を付けてあげるのはどうですか?」

雪乃の提案に、浩平は戸惑った。

名前。それは、彼が「佐伯浩平」として生きてきた証であり、同時に彼を縛り付けてきたものでもあった。

しかし、自分の中にいる「もう一人の自分」に名前を与える。

それは、彼にとって、まさに「自己肯定」の第一歩となるように思えた。

浩平は、ゆっくりと目を閉じた。

どんな名前が良いだろう。

彼の心の中に、幼い頃からずっと存在していた、可愛らしい女の子のイメージ。

柔らかで、優しい響きの名前。

「…こはる」

口からこぼれたその音は、彼自身も驚くほど、しっくりと心に馴染んだ。

春の陽だまりのような、温かく優しい響き。

「『こはる』。素敵な名前ですね」

雪乃が微笑んだ。

その瞬間、浩平の中で何かが確実にはじまった。

「浩平」という名ではなく、心の中にだけいたもう一人の自分に「こはる」という名前を与えることで、彼は少しずつ変化していった。

これまで「演じる」ことしかできなかった「女装」が、「在る」ことに変わっていく感覚。

それは、まるで自分自身の本質が、少しずつ表に出てくるようだった。

雪乃は、浩平にメイクや仕草を丁寧に教えてくれた。

「アイラインは、もう少しだけ跳ね上げるように」「この角度だと、首が綺麗に見えますよ」

鏡の前に立つ「こはる」に、浩平は自然と笑えるようになっていった。

それは、以前の彼が見せることのできなかった、純粋な喜びの笑顔だった。

ある日、雪乃は思いがけない提案をした。

「もしよかったら、外に出てみませんか?」

浩平は息を呑んだ。「外で歩く」こと。

それは、彼にとって想像を絶する行為だった。

人々の視線、好奇の目、そして何よりも「バレるかもしれない」という恐怖。

「まだ、無理だよ…」

浩平は震える声でそう答えた。

「もちろん、無理強いはしません。でも、もし、こはるさんの心がそれを望むなら、いつでも私がそばにいますから」

雪乃は、彼の不安を理解しつつも、優しく背中を押した。

数日後、浩平は再び「Little Tiaras」にいた。

彼の心は、葛藤で揺れ動いていた。

しかし、雪乃が「こはる」の姿へと彼を変えていくたびに、恐怖よりも、外に出てみたいという好奇心が優ってくるのを感じた。

そして、その日、浩平は初めて「こはる」として店の外に出た。

雪乃が隣を歩いてくれている。

風が、柔らかなスカートの裾を揺らす。

行き交う人々の視線が気になる。

すれ違うたびに、心臓が大きく跳ねた。

しかし、雪乃がそっと彼の腕に触れてくれた。

その温かい感触が、彼の不安を和らげてくれた。

カフェに入り、向かい合って座る。周りの客は、彼らをただの女性二人組として見ている。

そのことに、浩平は不思議な安堵感を覚えた。

「大丈夫、こはるさん、とっても自然ですよ」

雪乃の言葉に、浩平は顔を上げた。

鏡の中の「こはる」が、確かにそこにいた。

そして、その「こはる」は、優しく微笑んでいた。

それは、彼が「浩平」として生きる日常では、決して見せることのできなかった、真の笑顔だった。

「こはる」として過ごす時間は、浩平にとってかけがえのないものとなっていた。

しかし、学校での「佐伯浩平」としての日常は、ますます多忙を極めていた。

文化祭の準備が本格化し、生徒たちは活気づき、教師たちも連日遅くまで学校に残っていた。

浩平は、生徒たちの相談に乗り、クラスの出し物の企画を手伝う。

その一つ一つが、彼にとって大切な「教師」としての役割だった。

しかし、心の中では常に「こはる」の存在が息づいている。

二つの顔を持つ生活は、充実感と同時に、どこか張り詰めた緊張感を彼に与えていた。

ある日の昼休み、職員室で中谷が楽しそうに話していた。

「今年の文化祭、何か目玉企画欲しいよな。そうだな…『女装コンテスト』とかどうだ?」

その言葉に、浩平の心臓が大きく跳ねた。

手が震え、持っていたペンを落としそうになる。

「女装…コンテスト?」

なんとか平静を装って問い返すのが精一杯だった。

「そうそう! 結構盛り上がると思うんだよな。先生たちも参加したりしてさ!」

中谷は無邪気に笑っている。

彼は、浩平の内心の動揺には全く気づいていないようだった。

その日以来、「女装コンテスト」という言葉が、浩平の耳に異常に響くようになった。

生徒たちが談笑している声も、廊下を歩く教師たちの会話も、全てがその言葉につながっているように思えた。

放課後、クラスの生徒たちが文化祭の準備をしている中、一人の男子生徒が浩平に話しかけてきた。

「先生ってさー、なんか、女装似合いそうっすよねー。肌白いし、顔小さいし」

生徒は悪気なく、ただ冗談を言っているだけだった。

しかし、その言葉が、浩平の神経を逆撫でする。

「ば、馬鹿なこと言うな」

思わず声を荒げてしまい、生徒は驚いたように目を丸くした。

「す、すみません…」

生徒が怯んだ様子を見て、浩平は我に返った。

なぜ、こんなにも動揺してしまったのか。

それは、「バレるかもしれない」という恐怖と、一方で「知ってほしい」という、抑えきれない願いが、彼の心の中で激しく交差しているからだった。

その夜、浩平は「Little Tiaras」へと向かった。

雪乃に、文化祭での出来事を打ち明ける。

「僕、どうしたらいいんでしょう。怖くて、でも、誰かに知ってほしい気持ちもあって…」

浩平の声は、震えていた。

雪乃は、静かに彼の話を聞き終えると、そっと浩平の手を握った。

「逃げてもいいんですよ、佐伯さん。自分を守ることも大切です」

彼女の言葉に、浩平は涙が滲んだ。

逃げてもいい。その言葉は、彼にとって何よりも優しい赦しのように聞こえた。

「でも、あなたがあなたでいられる場所も、必要だと思います」

雪乃は続けた。

「無理にみんなに受け入れてもらう必要はない。でも、佐伯さん自身が、佐伯さんの中の『こはる』を受け入れてあげてほしいんです。そうすれば、きっと道は開きます」

その言葉は、彼の背中を優しく、しかし確実に押してくれた。

雪乃の瞳には、揺るぎない信念の光が宿っていた。

浩平は、彼女の言葉に、勇気を与えられたような気がした。

文化祭は刻一刻と近づいていた。

浩平の心は、恐怖と願いの間で揺れ動いていた。

彼は、どちらの自分を選ぶべきなのか、まだ答えを見つけることができずにいた。

しかし、彼の中の「こはる」は、確かに生きている。

その存在が、彼に新たな選択肢を示唆しているように思えた。

文化祭当日。学校は生徒たちの熱気で包まれていた。

浩平は、「佐伯浩平」として、いつも通りに職務をこなしていた。

生徒たちの笑顔を見守り、模擬店の呼び込みの声に耳を傾ける。

廊下を歩くたびに、楽しそうに笑い合う生徒たちの声が響く。

賑やかで、活気に満ちた一日だった。

コンテストステージでは、軽音部の演奏やダンス部のパフォーマンスが繰り広げられ、会場は熱狂に包まれていた。

女装コンテストの企画は、結局見送られた。

そのことに、浩平は安堵すると同時に、どこか寂しさを感じていた。

あの場所で、「こはる」として立つことはできなかった。

文化祭が終わり、夜の帳が降りる頃、生徒たちは皆、家路についていた。

教師たちも片付けを終え、次々と学校を後にする。

浩平も職員室を出て、校舎の鍵を閉める。

しかし、彼は真っ直ぐに家には帰らなかった。

彼の足は、体育館へと向かっていた。

誰もいないはずの体育館は、ひっそりと静まり返っている。ステージの照明は全て落とされ、客席も暗闇に包まれている。

浩平は、体育館の隅にある更衣室へと入った。

制服を脱ぎ、ゆっくりとドレスに袖を通す。

ウィッグをつけ、メイクをする。

鏡の中に現れたのは、「佐伯浩平」ではない、もう一人の自分――「こはる」だった。

彼女は、静かに、しかし確かな存在感を持ってそこにいた。

浩平は、ステージへと足を踏み出した。

暗闇に包まれた客席を見渡す。誰もいない。

しかし、彼の心の中では、多くの観客が彼を見つめているような気がした。

ライトを浴びることのないステージで、浩平はゆっくりと、ダンスを踊るように体を動かし始めた。

優雅に、そして切なく。

それは、彼が今まで誰にも見せることのできなかった、心の奥底に秘めた願いの表現だった。

ふと、客席の奥に、人の気配を感じた。

浩平の体が硬直する。

まさか、誰かいるのか? 目を凝らすと、暗闇の中に、見慣れたシルエットが浮かび上がった。

「…中谷?」

浩平は、信じられない思いでその名を呟いた。

中谷は、何も言わずに、ただ静かに浩平を見つめていた。

そして、ゆっくりと、無言で拍手を送り始めた。

その拍手は、体育館の静寂の中に、優しく響き渡った。

浩平の瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。

それは、恐怖や恥ずかしさの涙ではない。

解放と、そして理解されたことへの安堵の涙だった。

「これが、ずっと言えなかった願いでした」

浩平は、震える声で小さく呟いた。

その声は、体育館の広い空間に吸い込まれるように消えていった。

中谷は、ステージへと歩み寄ってきた。

彼は浩平の目の前で立ち止まり、その目に真っ直ぐな視線を向けた。

「お前はお前だよ」

中谷の声は、優しく、そして力強かった。

「それ以上も、以下もない」

その言葉は、浩平の心に深く染み渡った。

彼が何十年も苦しんできた「自分」という存在を、中谷はただありのままに受け入れてくれた。

そこに、何の疑問も、何の否定もなかった。

数ヶ月後。

佐伯浩平は、相変わらず高校教師として、生徒たちに国語を教えていた。

彼の日常は、何も変わっていないように見えた。

しかし、彼の心の中は、以前とは比べ物にならないほど穏やかになっていた。

週末になると、浩平は時折「Little Tiaras」へと足を運んだ。

彼はそこで、「休日は店のスタッフ」として、時折こはるとして過ごしている。

彼はもう、自分を隠すことに必死ではなかった。

まだ誰かに積極的に打ち明けることはできない。

それでも、彼は少しずつ、誰かと分かち合える自分になっていくことを感じていた。

雪乃や、そしてあの日、彼の「願い」を受け止めてくれた中谷。

彼らの存在が、浩平の心を支えていた。

ある日の閉店後、浩平は「こはる」の姿で、店内の鏡の前に立っていた。

淡いピンクのドレスをまとい、柔らかな光を宿す瞳。鏡に映るドレス姿のこはるが、優しく微笑む。

その笑顔は、かつてないほどに、穏やかで、そして幸せそうだった。

コメント

  1. ココ(カタル) より:

    自分のやりたいこと、願望は叶えるべきと
    最近は特に思います。
    自分の人生だもん。

    • 古都礼奈 古都礼奈 より:

      全くその通りで、やることやったら後は好きなことしたいですね♪
      本出して、ブログ作って、次何しようか考え中ですw

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