同じ服は着られない
悠人が試着室のカーテンを開けると、鏡の中には見知らぬ中年女性が立っていた。
ピンクのドレスの胸元は重く垂れ、肩紐が皮膚に食い込み、息を吸うたびに腹部の布地が遅れて持ち上がった。
叫んだつもりだったが、喉から出たのは低く掠れた女の声だった。
数時間前まで、悠人は自分の足で商店街を歩いていた。
ピンクのパーカーの裾を風に揺らし、黒いミニスカートのポケットに片手を入れ、店先から流れる音楽に合わせて歩調を変えていた。
通りすがりの高校生が振り返り、買い物袋を提げた男が連れの女に何かを囁いた。
悠人は見られていることには気づいていたが、意味を考えないようにしていた。
他人の視線は、天気に似ていると思っていた。
降れば濡れるし、強ければ歩きにくいが、止ませることはできない。
そのたびに自分の服を着替えていては、外へ出ることすらできなくなる。
休日の商店街は、人と音で膨らんでいた。
カフェの前では店員が紙コップを配り、古いレコード店からは管楽器の乾いた音が漏れていた。
揚げ物の油と甘い焼き菓子の匂いが混じり、アーケードの天井近くにこもっていた。
悠人はスマートフォンを見て、待ち合わせ場所へ向かった。
里奈は洋菓子店の前に立っていた。
肩までの黒髪を耳にかけ、白いブラウスに紺色のロングスカートを合わせている。
通勤にも休日にも使えそうな服だった。
「こんにちは、悠人くん」
里奈は悠人の姿を上から下まで見てから、小さく笑った。
「今日もおしゃれだね」
「ありがとう。
里奈も似合ってるよ」
「またそうやって、すぐ褒める」
「似合ってるから言ってるだけ」
里奈は否定も肯定もせず、ブラウスの袖口を指でつまんだ。
洗濯を繰り返して少し柔らかくなった布だった。
二人は並んで歩き始めた。
里奈は事務職に就いて三年目で、平日は決まった色のブラウスと膝下丈のスカートを着ていた。
休日も似た形の服を選び、靴は黒か茶色だった。
本人は清潔であれば十分だと言っていたが、最近は鏡を見るたびに、自分が制服を脱げなくなったように感じるらしかった。
「服を買いたいって言ってたけど、何か欲しいものは決まってる?」
悠人が尋ねると、里奈は前方を見たまま首を振った。
「それがわからないの。今ある服が嫌いなわけじゃないんだけど、どれを着ても同じに見えて」
「同じ店で買ってる?」
「だいたい。失敗したくないから」
「失敗って、どうなること?」
里奈は少し考えた。
「似合わないって思われることかな」
「誰に?」
「誰にっていうか。会社の人とか、街ですれ違う人とか」
悠人は答えず、店頭のマネキンを見た。
黄色いシャツに緑のパンツを合わせ、首元に赤いスカーフを巻いていた。
目立つ配色だったが、マネキンには表情がないため、何を着せられても恥じることはなかった。
「僕は、里奈がいつも着てる服もいいと思うよ」
「でも、変わりたいとは思う」
「じゃあ、何か一着だけ試そう。買わなくてもいいから」
「一着で変われるかな」
「服を手に入れるだけなら、変わらないかもしれない。でも選んだり、迷ったりするのは、新しい自分を探す冒険みたいなものだよ」
里奈は悠人を見た。
悠人が冗談で言っているのか確かめるような目だった。
「悠人くんは、いつも冒険してるの?」
「毎回じゃないよ。今日はこれでいいって決めてるだけ」
最初に入った店では、里奈は淡い青色のワンピースを手に取った。
胸元に細い飾り紐があり、腰の位置が普段の服より高かった。
「これ、可愛いけど」
里奈は値札を見る前に、鏡へ服を当てた。
「私が着ると子どもっぽくならないかな」
「着てみないとわからない」
「悠人くんなら着る?」
「色違いがあれば」
里奈は試着室へ入り、数分後、カーテンの隙間から顔だけを出した。
「変じゃない?」
「全部見せてくれないとわからないよ」
里奈は渋々カーテンを開いた。
ワンピースは肩の位置が少し余っていたが、腰から下の線は落ち着いていた。
いつもの暗い色より、里奈の肌が明るく見えた。
「似合ってる」
悠人が言うと、里奈は鏡を見たまま首を傾げた。
「似合ってるって、どういう感じ?」
「知らない人に見えるわけじゃない。里奈が少し違って見える」
「それって変じゃない?」
「違うことと変なことは別だよ」
里奈は返事をせず、ワンピースの裾を持ち上げて離した。
布は膝の下へ静かに戻った。
その服を買うかどうかは後で決めることにし、二人はさらに数軒の店を回った。
悠人は店ごとに立ち止まり、素材を指で確かめた。
里奈は試着を勧められるたびにためらったが、最初よりは早くカーテンを開けるようになった。
昼を過ぎた頃、アーケードの端にある婦人服店の前で、悠人は足を止めた。
店頭にピンク色のドレスが吊られていた。
胸元には細かいラメが縫い込まれ、照明を受けるたびに鈍く光った。
鮮やかではあるが、少女向けというより、宴席や舞台衣装を意識した形だった。
「これ、好きそう」
里奈が言った。
「好き」
悠人は即答した。
「でもサイズないんじゃない?」
「見るだけ」
店内は明るく、棚と棚の間が広かった。
若者向けの店よりも通路に余裕があり、椅子がいくつか置かれていた。
客の多くは四十代以上に見えた。
悠人がドレスの袖を確かめていると、店員が近づいてきた。
四十代半ばほどの女性だった。
名札には美咲と書かれていた。
化粧は薄く、左手で伝票を持ちながら、右肩をわずかに下げていた。
「そちら、背中側で多少調整できます」
美咲は悠人の服装に視線を落としたが、驚いた様子は見せなかった。
「試着されますか」
「いいんですか」
「袖を通してみないと、わかりませんから」
その言い方は、悠人が里奈に言ったものと似ていた。
里奈は青いワンピースを取り置きしてもらうため、先ほどの店へ戻ることになった。
「すぐ戻るね」
「ゆっくりでいいよ」
悠人は美咲からドレスを受け取り、奥の試着室へ案内された。
試着室は二つ並んでいた。
片方の床には小さな台があり、壁には全身鏡が取り付けられている。
「何かあれば、お声がけください」
美咲はそう言って、隣の試着室へ入った。
カーテンの向こうから、ハンガーが金属棒に当たる音がした。
悠人はパーカーを脱ぎ、ミニスカートのファスナーを下ろした。
試着室の空気は少し暑く、脱いだ服が腕にまとわりついた。
ドレスは見た目より重かった。
ラメの縫い込まれた上半身には硬さがあり、腕を通すと脇の下に布が集まった。
背中の留め具には手が届いたが、完全には閉まらなかった。
鏡に映った姿は不格好だった。
肩幅に対して胸元が余り、腰の切り替え位置も合っていない。
それでも色だけは、悠人が期待したとおりだった。
悠人は鏡の前で半歩下がった。
その瞬間、店内の照明が消えた。
非常灯も点かなかった。
暗闇の中で、悠人は壁へ手を伸ばした。
足元の台につま先が当たり、身体が前へ傾いた。
隣の試着室から、何か重いものが倒れる音がした。
悠人は鏡に肩をぶつけた。
鏡面が揺れ、背後の壁が低く鳴った。
数秒後、照明が戻った。
悠人は床に片膝をついていた。
最初に感じたのは、膝の痛みだった。
骨の一点が打たれた痛みではなく、関節の奥から遅れて広がる鈍い熱だった。
立とうとして床に手をつくと、腕にうまく力が入らなかった。
上半身が前へ引かれ、胸の下に重さが集まっている。
何かが違うと思った。
だが、何が違うのかを考える前に、悠人は鏡を見た。
そこにいたのは美咲だった。
美咲の顔が、悠人と同じように目を見開いていた。
頬には年齢による緩みがあり、目元の化粧が汗でわずかに滲んでいた。
悠人は口を開いた。
「何、これ」
聞こえた声に、自分の声の成分は一つもなかった。
両手で喉に触れると、指先の感覚まで違っていた。
指は以前より細いが、関節が硬く、爪の縁に乾燥した皮膚が引っかかった。
ドレスはさきほどまで余っていたはずなのに、今は胸元と腰回りを埋めていた。
肩紐は食い込み、胸の重みが布越しに下へ引いた。
腹部を締める切り替え部分が、呼吸のたびに皮膚へ押し戻されていた。
悠人は背中の留め具へ手を回そうとした。
右肩に痛みが走り、途中で腕が止まった。
「嘘だ」
立ち上がるために鏡の縁をつかんだ。
腰が伸びきるまで時間がかかり、姿勢を整えると、今度は膝が震えた。
鏡の中の美咲も同じ動きをしていた。
悠人は目を閉じた。
これは混乱だと思った。
暗闇で転び、頭を打ったせいで、美咲の姿を自分だと誤認している。
自分の身体を思い出そうとした。
肩の軽さ、脚の長さ、パーカーの柔らかさ。
胸には何もなく、腰はまっすぐで、立つために順番を考える必要もない。
ゆっくり目を開けた。
鏡の中の女は消えていなかった。
隣の試着室から、カーテンを引く音がした。
「すみません」
悠人の声が聞こえた。
悠人は振り返った。
ピンクのパーカーと黒いミニスカートを着た自分が、隣の試着室から出てきた。
自分の顔が青ざめ、自分の手が震えながらパーカーの裾を握っていた。
「あなた」
悠人の身体は、美咲の話し方で言った。
「私の顔をしています」
悠人は返事をしなかった。
できなかった。
目の前に自分の身体があることより、その身体が自分を見て怯えていることのほうが異様だった。
「美咲さんですか」
ようやく悠人が尋ねると、自分の顔が小さく頷いた。
「たぶん」
美咲は両腕を身体の前で抱えた。
ミニスカートの丈を気にするように膝を寄せていた。
「これは、どういうことですか」
「僕に聞かれてもわからない」
「僕」
美咲はその言葉を繰り返し、悠人の顔を見た。
「あなたが悠人さん」
「そうです」
「じゃあ、私は」
美咲は鏡を見た。
悠人の身体が鏡の中に映っている。
二人はしばらく、鏡と互いの顔を交互に見た。
店内では客の話し声が続いていた。
停電は短く、外では何も起きていないようだった。
悠人はカーテンを閉めた。
立っているだけで腰が重くなり、壁にもたれた。
「救急車を呼びましょう」
悠人が言うと、美咲はすぐに首を振った。
「何て説明するんですか」
「そのままです」
「信じてもらえると思いますか」
「でも」
「私たちが互いの個人情報を知っていても、事前に相談したと思われます。精神科へ回されるかもしれません」
美咲の言葉は早かった。
怯えているというより、失敗した場合に起こることを先に数えていた。
「私は仕事があります。母のこともあります。変な記録が残ったら困ります」
「僕だって困ります」
悠人は強く言ったつもりだったが、美咲の声では語尾が掠れた。
美咲は黙った。
悠人は鏡の中の顔を見た。
自分が怒ると、美咲の眉間に皺が寄った。
その皺が以前からあったものなのか、今できたものなのかはわからなかった。
店員が外から声をかけた。
「美咲さん、大丈夫ですか」
美咲が悠人を見た。
悠人は返事をしなければならないと理解した。
「大丈夫です」
口にした瞬間、外の店員は安心したように答えた。
「よかった。照明が落ちたから、びっくりしましたよね」
悠人は返事をしなかった。
美咲が小声で言った。
「今夜、閉店後にもう一度ここで会いましょう」
「それまでどうするんですか」
「入れ替わったことがわからないようにします」
「無理です」
「無理でも、今ここで説明するよりはましです」
美咲は悠人の身体で、悠人のパーカーを着ていた。
袖口を気にして何度も引っ張っている。
悠人は自分の服を見た。
自分が選び、自分の金で買い、自分の身体に合わせて着ていたものだった。
今は他人が着ている。
悠人がドレスを脱ごうとすると、背中の留め具へ手が届かなかった。
肩をひねるたびに関節が痛み、胸の重さが左右へずれた。
布地が汗を吸い、脇の下へ貼りついた。
「外してもらえますか」
美咲は少し迷ってから、悠人の背後へ回った。
自分の手が、美咲の背中に触れた。
留め具が外れると、胸元の圧迫が緩んだ。
だが重さそのものは消えなかった。
ドレスを脱いだ後、悠人は美咲の制服を着た。
ブラウスのボタンを留めるだけで息が浅くなり、スカートの腰部分が腹へ沈んだ。
ピンクのパーカーとミニスカートは、美咲が着たままだった。
「その服」
悠人が言うと、美咲は自分の身体を見下ろした。
「今は、これしかありません」
正しいことだった。
悠人の服は美咲の身体には入らない。
美咲の服は悠人の身体には余る。
交換することはできなかった。
二人は店を出る前に、互いの住所と連絡先を書き直した。
美咲は悠人のスマートフォンを持ち、悠人は美咲の鞄を受け取った。
鞄は重かった。
財布、手帳、化粧品、薬、母親の診察券、折り畳み傘が入っていた。
肩にかけると、紐が同じ場所へ食い込んだ。
店の外へ出ると、里奈が戻ってきた。
青いワンピースの入った紙袋を持ち、悠人の身体を見つけて笑った。
「悠人くん、買ったよ」
美咲は答えられず、悠人を見た。
里奈も悠人の視線を追い、美咲の姿をした悠人に軽く会釈した。
「店員さんに勧めてもらったの?」
悠人は口を開いたが、里奈に自分だと告げる言葉が見つからなかった。
「似合うと思います」
美咲の声でそう言うと、里奈は嬉しそうに紙袋を抱え直した。
「ありがとうございます」
里奈は目の前にいる悠人へ礼を言った。
けれど、その目は悠人を見ていなかった。
その日の夕方、悠人は美咲の家へ向かう電車に乗った。
座席に腰を下ろすと、腰の奥に痛みが広がった。
鞄を膝へ置くと、胸と腹の間が圧迫され、呼吸が浅くなった。
窓には、美咲の顔が映っていた。
悠人は目を閉じ、自分の身体の輪郭を思い出そうとした。
だが電車が揺れるたび、胸の重さがわずかに遅れて動いた。
膝は内側へ寄せていないと、スカートの裾が開いた。
肩には鞄の紐の跡が残っていた。
目を閉じても、身体は消えなかった。
悠人のスマートフォンは、別の身体にある。
ピンクのパーカーも、ミニスカートも、同じ場所にある。
どちらも失われたわけではない。
ただ、悠人の手が届かないところへ移っただけだった。
電車は美咲の最寄り駅へ近づいていた。
次に降りるべき駅を、悠人は美咲の手帳で確かめた。
自分の家へ帰るための路線は、反対方向だった。



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