立ち上がろうとした拍子に、慣れない12センチのヒールがぐらりと傾き、足首に鋭い痛みが走った。
太ももを重く覆うロングスカートの裾を捌ききれず、歩くたびに腰まで伸びた長い髪が、脂浮きしたうなじにまとわりついて息を詰まらせる。
慣れない股関節の角度に翻弄されながら右に曲がった高校生の悠人の視界に、かつて画面越しに恋い慕った30代の女性「美咲」の顔写真が飛び込んできた。
立ち上がろうとした拍子に、慣れない十二センチのヒールがぐらりと傾き、足首に鋭い痛みが走った。
太ももを重く覆うロングスカートの裾を捌ききれず、歩くたびに腰まで伸びた長い髪が、脂浮きしたうなじにまとわりついて息を詰まらせる。
慣れない股関節の角度に翻弄されながら右に曲がった高校生の悠人の視界に、かつて画面越しに恋い慕った三十代の女性「美咲」の顔写真が飛び込んできた。
つい一分前まで、自分が公園の古びたプラスチック製ベンチに座っていたはずだった。
黒い学ランの詰め襟が首元を締め付け、膝の上には使い古したスマートフォンの画面が淡い光を放っていた。
それが、高校二年歳の山田悠人の世界のすべてだった。
学校にも家にも居場所がなく、ただ放課後の無機質な時間を潰すためだけにアクセスしていたネットの匿名謎解きサイト『ミステリーキラー』。
その中で「レッドクイーン」と名乗る三十代の女性、美咲とのチャットだけが、彼のすり減った精神を辛うじて繋ぎ止める劇薬だった。落ち着いた低い声、子供をあやすような、それでいてどこか冷めた笑い方。
悠人は彼女に、母親とも恋人ともつかない、歪んだ執着を抱いていた。
だが、スマホの画面に弾けた運営からの非情な赤文字の通知が、その微睡みを一瞬で叩き割った。
『こんにちは。あなたは今、私たちのゲームに参加しています。あなたの後ろにはカメラがあります。あなたの顔は今、世界中に配信されています。すぐに立ち上がって、右に曲がってください。三十分以内に次の謎を解かなければ、あなたは死にます』
パニックに突き動かされるようにして、ベンチから腰を浮かせた。その瞬間のことだった。
世界が、ぐにゃりと歪んだ。
視界の高さが奇妙に狂った。いつもより目線が高い。
いや、高いのではない。つま先が極端に前傾しているのだ。
硬いアスファルトの感触が、なぜか足の裏の指の付け根だけに集中している。
バランスを崩し、思わずよろめいた拍子に、鋭い音が響いた。
コツン、と石を穿つような硬質な金属音。
それは、彼がこれまで一度も履いたことのない、細く尖ったハイヒールの足音だった。
「な……んだ、これ……っ」
自分の口から漏れた声に、悠人は激しい悪寒を覚えた。
いつも聞き慣れた、声変わりを終えたばかりの少年の、少し掠れた低い声ではない。
それは、酷く湿り気を帯びた、輪郭の太い、落ち着いた大人の女性の声だった。
まさか、と喉の奥が震える。
呼吸をするたびに、胸のあたりに猛烈な圧迫感と、奇妙な「質量」を感じた。
慌てて自分の身体を見下ろす。
そこには、見慣れた黒い詰襟の制服はなかった。
深いネイビーの、重苦しいウール混のロングスカートが、不自然に膨らんだ腰回りを厳重に包み込んでいる。
上半身には、とろみのあるベージュのブラウス。
だが、その胸元は悠人の記憶にある自分の平坦な胸とは似ても似つかないほどにせり出し、衣服の布地を限界まで押し広げていた。
皮膚の内側から、じっとりと湧き出すような不快な汗が伝うのを感じる。
それは十代の瑞々しい汗ではない。
もっと粘り気のある、皮脂の混じった、三十代の肉体が分泌する特有の、重い老廃物の匂いを孕んだ汗だった。
「嘘だ。なんで、どうして」
手を顔にやろうとして、さらに息が詰まった。
視界の端を、豊かな、しかしどこかパサついた黒髪の束が遮ったのだ。
背中の真ん中あたりまで伸びたその長い髪は、風が吹くたびに頬や首筋にまとわりつき、容赦なく視界を奪う。
邪魔だった。ただひたすらに、鬱陶しかった。
男の短い髪に慣れきっていた悠人にとって、頭部にこれだけの「重量物」がぶら下がっていること自体が、耐え難いストレスだった。
指先を恐る恐る顔に触れさせてみる。
指の腹が触れたのは、少年の滑らかな肌ではなかった。
ほんの少し毛穴が開き、ファンデーションという人工の泥によって塗り固められた、わずかに弛み始めた大人の皮膚の質感。
指先そのものも、男のそれよりは細いものの、節々が少し太く、現実的な生活の疲労を滲ませた皮膚の硬さを持っていた。
美少女化などという、ネットのファンタジーに転がっているような都合の良い変貌では断じてなかった。
そこに現出したのは、ただただ「年齢を重ねた、一人の成熟した女性の身体」という冷徹な現実だった。
胸の重みは、歩くたびに重力に従って不快に揺れ、それを支えるアンダーバストのワイヤーが、肋骨の肉に容赦なく食い込んでいる。
ブラジャーという衣服の構造自体が、悠人にとっては肉体を拘束する拷問器具に等しかった。
肩には、その二つの脂肪の塊を支えるためのストラップが文字通り「のしかかり」、慢性的な肩こりのような鈍い痛みがすでに始まっていた。
「走れない……」
悠人は本能的にそう悟った。
背後にあるという見えないカメラの視線から、そしてこの異常な状況から逃れようと足を踏み出そうとしたが、十二センチのヒールは無慈悲に彼の運動能力を奪っていた。
重心がどこにあるのか分からない。
一歩進むごとに、細いヒールがアスファルトの微痛な凹凸を拾い、足首が外側へぐらりと折れそうになる。
それを防ぐために、太ももの内側と、これまでに使ったことのない骨盤の筋肉に異常な緊張を強いられた。
歩くだけで、尋常ではない体力が削られていく。
ロングスカートは歩幅を制限し、足が前に出るのを物理的に阻む。
何より、精神が肉体の激変に追いついていなかった。
彼は、自分がかつてチャットで盲信していた「レッドクイーン」、つまり美咲のプロファイルに近い肉体に、自分がそっくり入れ替わってしまっていることに気づき始めていた。
この重さ、この皮膚の弛み、このまとわりつくような衣服の圧迫感。
これらはすべて、彼女が日々「大人の女性」として、社会の中で引きずり回していた肉体の呪縛そのものではないのか。
ハァ、ハァ、と浅い呼吸がブラウスの胸元を不規則に上下させる。
悠人は、脂浮きした手のひらでスマホを握りしめた。
スマホの画面には、相変わらずあの運営からの脅迫メッセージが残されている。
三十分。すでに数分が経過している。
逃げることはできない。この歩行を拒否するような靴とスカートでは、この公園から出ることすらままならない。
何より、運営が自分のすべてを見ているという恐怖が、ヒールに囚われた足を縛り付けていた。
「右に……曲がる……」
悠人は掠れた大人の声を絞り出し、慣れない股関節の動きに翻弄されながら、身体の向きを変えた。
一歩。コツン。二歩。コツン。
腰が不自然に左右に振れる。
男の歩き方では、この靴では一歩も進めない。
身体が強制的に、女性としての歩行のバランスを要求してくる。
その「狂った適応」のプロセス自体が、悠人の脳を激しく吐き気で満たした。
自分の意志とは無関係に、肉体が「大人の女」としての動きを強制してくるのだ。
右に曲がった先は、公園の植え込みに挟まれた、薄暗いコンクリートの通路だった。
その壁面に、一枚のA4サイズの紙が、雑にガムテープで貼り付けられていた。
悠人は息を切らせながら、ヒールの痛みに耐えてその紙の前まで進んだ。
長い髪がまた視界に割り込んできたため、それを苛立たしく手で払いのける。
その指先が、ファンデーションの油分で少し滑った。
紙に印刷されていたのは、一枚のカラー写真だった。
「あ……」
悠人の口から、言葉にならない呻きが漏れた。
そこに写っていたのは、紛れもなく、彼がよく知っている人物だった。
しかし、それは同時に、決定的な混乱を彼にもたらした。
写真の人物は、三十代前半ほどの、落ち着いた、整った顔立ちの女性だった。
少しウェーブのかかった髪に、柔らかな印象のブラウスを着ている。
悠人はその顔を知っていた。
いや、「レッドクイーン」として知っていたわけではない。
彼女は、悠人が毎日通学路で利用する駅の近くの、小綺麗な一軒家から出てくる女性だった。
名前は「里奈」。
表札にそう書かれていたのを、悠人は知っていた。
彼女には優しい夫がいて、まだ幼い子供が一人いる。
悠人は、閉塞感に満ちた自分の人生とは対極にある「幸せな大人の家庭」の象徴として、通学路で彼女を見かけるたびに、淡い憧れと、ある種の覗き見的な関心を抱いていたのだ。
だからこそ、『ミステリーキラー』のチャットで美咲(レッドクイーン)と話しているとき、美咲が語る「三十代の主婦としての退屈」や「家庭の息苦しさ」といった言葉を、悠人は勝手に脳内で、この「里奈」の姿と結びつけて再生していた。
悠人にとって、画面の向こうの美咲の「顔」は、現実世界の里奈であるべきだったし、そう確信していた。
だが、写真の下に印字された運営からのテキストは、その妄想の前提を冷酷に打ち砕くものだった。
『これはあなたの次の謎です。この女性の名前は何でしょうか? あなたはこの女性とチャットやビデオ通話をしていました。あなたなら、彼女のことをよく知っているはずです。三十分以内にこの女性の名前を答えなければ、あなたは死にます。そして、この女性も死にます。あなたはこの女性を救いたいですか? それとも、この女性を見捨てますか?』
「違う……」
悠人は壁に手を突いた。爪がコンクリートに当たり、カチリと嫌な音がする。
頭の中が急速に冷えていく。
いや、身体は逆に、更年期障害のような不快な熱さに支配され、背中を冷たい汗が流れ落ちていく。
運営は勘違いしているのか?
あるいは、自分を試しているのか?
写真に写っているのは「里奈」だ。悠人は彼女の本名を知っている。
だが、自分がチャットで何ヶ月も言葉を交わし、その低い声に救われていた「レッドクイーン」の本名が、本当にこの里奈なのだろうか。
悠人が恋していたのは、チャットの向こうの「美咲」という人格だ。
もし、運営が提示したこの写真の女性が「里奈」で、チャットの主がまったく別の女性だとしたら。
いや、もし運営の言う通り、レッドクイーンの正体が本当にこの里奈なのだとしたら、悠人は「里奈」と答えればいい。
だが、もしこれが巧妙な罠だったら?
制限時間は刻一刻と減っていく。
スマートフォンの画面右上、デジタル時計の数字が非情に書き換わっていく。
残り、二十一分。
「考えろ……考えろ、山田悠人……っ」
悠人は自分の頭を両手で抱え込んだ。
その拍子に、長い黒髪が大量に指に絡みつく。
男の時には感じたことのない、髪の毛という物質の圧倒的な量感。
それはまるで、自分がすでに元の自分ではなく、別の誰かの人生の檻に閉じ込められてしまったことの証明のようだった。
ブラジャーの帯が背中を締め付け、呼吸が浅くなるたびに肺が圧迫される。
大人の女性の身体は、思考することすら容易には許してくれないほど、肉体的なノイズに満ちていた。
足首の痛み、胸の重み、衣服の擦れる音。
そのノイズの嵐の中で、悠人は必死に、電子の海に残された「美咲」との対話の記憶を、一行ずつ解剖し始めた。



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