重力の分配
玄関の戸が勢いよく開き、湿り気を帯びた五月の風が廊下に流れ込んだ。
「ただいまー」
悠人は靴を脱ぎ捨てるなり、自室へと駆け上がろうとする。
背後で、カチャリと金属が触れ合う音がした。
台所に立つ母、美咲の鳴らす、冷徹な合図だ。
「悠人。カバンを置きっぱなしにしないで。それから、お弁当箱」
「あとで出すって。今から遊びに行くから」
階段の途中で足を止めた悠人は、振り返りもせずに答える。
彼の背中には、若さゆえの根拠のない万能感が、ピンと張った制服の生地越しに透けて見えた。
筋肉はしなやかで、関節には一切の軋みがない。
世界は自分の意のままに動くと信じて疑わない、特権的な肉体の響きだ。
美咲はゆっくりと振り返った。
その顔には、怒りよりも深い、底なしの摩耗が張り付いている。
「毎日同じことを言わせないで。昨日も、一昨日も、あなたは『あとで』と言って、結局私が洗った。
カビの生えかけたプラスチックを洗うのが、どれだけ惨めな気持ちか、考えたことはある?」
「大げさだよ。たかが弁当箱だろ」
悠人は鼻で笑った。
彼にとって、家事は「魔法」のように自動で片付く現象に過ぎない。
汚れた服は籠に入れれば白くなり、空腹で食卓につけば熱い飯が出てくる。
そこに費やされる毛細血管が切れるような微細な労働を、彼は労働として認識すらしていない。
「たかが、ね」
美咲の声が、低く、湿った重みを帯びる。
「だったら、その『たかが』を自分自身の身体で証明しなさい」
「はあ? 何言って――」
言いかけた悠人の言葉は、視界の急激な「揺らぎ」によって遮断された。
平衡感覚が、腐った果実のように崩れていく。
胃の底がせり上がり、頭蓋骨の裏側を誰かに強く掻きむしられるような、不快な熱。
悠人は手すりを掴もうとしたが、感覚が狂っている。
伸ばしたはずの腕が、記憶にあるよりもずっと短く、そして「重い」。
どさりと、階段に膝をついた。
その衝撃が、今まで経験したことのない種類のものだった。
硬い骨が床に当たる衝撃を、たっぷりとついた皮下脂肪が、ぶよぶよとした緩慢な震動に変えて全身に伝える。
「……っ、あ?」
自分の口から漏れた声に、悠人は戦慄した。
低く、くぐもった少年の声ではない。
湿り気を帯びた、輪郭のぼやけた、聞き覚えのある「女の声」だ。
「……信じられない。本当にやったの?」
頭上から、聞き慣れた自分の声が降ってきた。
見上げると、そこには自分の制服を着た「自分」が立っていた。
しかし、その立ち姿には、悠人が持っていた粗野な力強さはない。
どこか冷めていて、重心を片足に乗せた、酷く落ち着いた佇まい。
美咲――悠人の身体に入った母――は、自分の新しい腕を眺め、握りこぶしを作ってその感触を確かめている。
「軽いわね。驚くほどに。どこにも痛いところがない身体なんて、二十年ぶりかしら」
悠人は、自身の異変を確かめようと、震える手で自分の身体を触った。
胸に手が触れる。
そこには、柔らかな、しかし逃れようのない質量があった。
衣服越しに伝わるその感触は、異物以外の何物でもない。
「何だこれ……重い、っ」
立ち上がろうとすると、腹の肉が重力に従って下がり、ズボンのベルトに覆いかぶさるのが分かった。
悠人が今まで着ていた制服のズボンは、今の彼の腰にはあまりに細すぎた。
ボタンが弾け飛び、ジッパーが悲鳴を上げている。
目の前に鏡があった。
そこに映っていたのは、少し猫背気味で、肌に艶を失い、生活の重みにじっと耐え忍んできた「中年女性」の姿だった。
イラストに描かれたような、穏やかな笑みを浮かべた母。
しかし、その微笑みの裏側にある、皮膚のたるみや、目の下に刻まれた色素沈着の生々しさに、悠人は息を呑んだ。
「一日くらいやってみろって言ったわよね」
美咲(悠人)は、玄関に脱ぎ捨てられた靴を、悠人の足で器用に揃えた。
「あなたの言う『たかが家事』、この身体でどれだけこなせるか、楽しみにしてるわ」
悠人は言葉を返そうとしたが、喉の奥が狭まったように感じて、上手く声が出ない。
ただ、立っているだけで疲れる。
自分の意思とは無関係に、重力が全身にまとわりついてくる。
若さという浮力を奪われた途端、世界はこれほどまでに、粘り気のある泥の底のようになるのか。
悠人は自分のふくよかな指を見つめ、指先がわずかに震えているのに気づいた。
それは恐怖からではなく、この身体が長年蓄積してきた、正体不明の「疲弊」が、細胞の一つ一つから染み出しているようだった。
「……冗談だろ。戻せよ、今すぐ」
「嫌よ。私は今、最高に気分がいいんだから」
悠人の身体を借りた美咲は、軽やかに玄関のドアを開けた。
「遊びに行ってくるわ。お弁当箱、早めに洗っておかないと、明日の朝大変なことになるわよ」
閉まったドアの音が、家の中に重く響いた。
悠人は一人、母の身体に閉じ込められたまま、静まり返った廊下で立ち尽くした。
足の裏に伝わる床の冷たさが、心臓まで這い上がってくる。
それは、彼が今まで決して知ることのなかった、「役割」という名の重圧の、最初の一滴だった。

弁当箱洗うとか、洗濯とか、夕食の献立とか
1日でもめんどいのに毎日とかやってられんw
まあ、夕食は毎回作れない生活リズムですが
弁当箱洗うとか、洗濯物を干すくらいなら割とやってる。。。
うん。結婚しても相手がやってくれるなんて期待はするな。
次回:5/12 21:00更新



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