
着物女装による、洋服じゃ得られない淑やかさ
年の瀬が迫り、小料理屋「みさき」は独特の活気に包まれていた。
悠人(ゆうと)は、カウンターの奥で慣れた手つきでグラスを磨きながら、店の賑わいを肌で感じていた。
23歳。住み込みで働き始めて三年、女将の美咲の厳しい指導のもと、料理の基礎と店の切り盛りを学んでいる。
店主の美咲(みさき)は、悠人よりも一回り以上年上だが、その美貌と職人気質な腕前で、店を切り盛りしてきた。
彼女の作る料理はどれも本格的で、特に地元の落ち着いた客層から厚い支持を得ている。
「みさき」は古民家を改装した造りで、柔らかな木の温もりと、美咲が飾る季節の花が、師走の冷たい空気を忘れさせてくれる。
カウンター席には常連のサラリーマンが並び、奥の小上がりからは小規模な忘年会の笑い声が漏れてくる。
挿絵にあるように、店内は程よい喧騒に満ちていた。
「悠人。小上がりの田中さんに、燗酒をお願い」
美咲の声に、悠人は手早く酒を温め、湯気が立ち上る徳利を盆に乗せた。
「かしこまりました」
悠人の立ち居振る舞いは真面目で丁寧だ。
だが、今はまだ板場の美咲の手伝いや、接客係としての雑務が主で、客に料理の感想を聞かれても、緊張からか必要以上に愛想を振りまくことはできない。
その日の閉店後、二人で残った残務をこなしているとき、美咲が唐突に切り出した。
「ねぇ、悠人。年末のこの勢いを、もう少し活かしたいと思わない?」
「勢いですか。確かに、最近は連日予約でいっぱいですけど……」
美咲は悠人に残りのビールを注いでやりながら、微笑んだ。
「この師走の喧騒は、言ってみれば一種のお祭りよ。ただ料理が美味しいだけじゃなく、何か『特別』なサービスが欲しいの。お客様へのサプライズ、と言ってもいいわね」
悠人は首を傾げる。美咲の言う「サービス」とは何だろう。
美咲はカウンターに肘を突き、悠人の顔をじっと見つめた。
その瞳には、すでに悪戯染みた光が宿っている。
「私の考えた新しいサービスはね。明日から、アンタに和服を着て接客してもらうことよ」
悠人は目を丸くした。
「和服、ですか?美咲さんのように?」
「そう。私が着物で板場に立てば、アンタは着物で接客に立つ。そうすれば、店に格調が出るでしょう?お客様も、いつもと違う雰囲気に喜んでくれるはずよ」
悠人は、美咲の着物姿が店の雰囲気を引き締めていることを知っている。
自分が着物で接客に立てば、確かに店の魅力は増すかもしれない。
「いいですよ。美咲さんのアイデア、素敵だと思います。じゃあ、男物の着物、用意しておきますね」
悠人は特に深く考えず、快く承諾した。美咲の提案なら、きっと店のためになる。
その言葉を聞いた美咲は、心の中でひっそりと笑った。
(ふふ、男物ね。うちに男性用の着物なんてないわよ。でも、素直に引き受けてくれるなんて、やっぱりアンタは正直で可愛い。この子が、私の企みに気づいていないことが、面白くて仕方ないわ)
美咲の心の中では、既に「みさき」の新しい名物店員、「ユキ」の誕生が決定していた。
翌日の午前中、仕込みを始める悠人の前に、美咲は風呂敷に包まれた二つの包みを持ってきた。
一つは長襦袢などの下着類、もう一つが本命の着物だ。
「さあ、着付けをするから、早く着替えてしまいなさい」
美咲は慣れた手つきで風呂敷を広げる。
悠人は、その鮮やかな色柄に、思わず息を飲んだ。
広げられたのは、明るいピンクを基調に、橙色や朱色の華やかな花柄が散りばめられた小紋だった。
悠人は戸惑いを隠せない。
「あの、美咲さん……これ、男物じゃないですよね?」
男性用の着物といえば、もっと落ち着いた色合いの縞や無地を想像していた。
こんなに華やかで、柔らかな生地の着物は、どう見ても女性のものだ。
美咲は、心底不思議そうな顔をして首を傾げた。
「ええ、もちろん。私の母が着ていたものよ。だって、うちにはこれしかないもの」
「え…?」
悠人は言葉を失った。
まさか、美咲が男性用の着物を準備していないとは、思いもしなかった。
「てっきり、どこかで借りてくるか、美咲さんの男性客からお借りするかと…」
「借りるなんて面倒なことはしないわ。それに、アンタ、昨日『快く引き受ける』って言ったじゃない。アンタが『制服』として着るんだから、この着物は性別を超えた『みさきのサービス』になるのよ」
美咲は有無を言わせぬ調子で、悠人の背中を押した。
「それに、考えてみて。普通の男物が着たって、誰も驚かないわ。でも、アンタみたいな若くて綺麗な子が、こういう艶やかな着物を着たらどうなる?」
美咲は目を輝かせる。
「話題になる!お客様はきっと大喜びよ。うちの店は料理の味は本格派だけど、サービスは柔軟でいいの。さあ、立って。時間がないわよ」
強引な美咲の理屈と勢いに、悠人は完全に押し切られてしまう。
美咲の提案を安易に受け入れてしまった自分が悪い。
もう後には引けないという状況に追い込まれた。
「…わかりました。仕事、ですから」
悠人は諦めのため息をつき、着付けを美咲に委ねた。
女性用の着付けは、悠人にとって初めての体験だった。
長襦袢の袖を通し、胸元がしっかりと締め付けられる感覚。
美咲は、男性の体つきを女性らしく見せるため、細心の注意を払って補正のタオルを入れ、着物を整えていく。
美咲の手が肌に触れるたび、悠人の顔は赤くなったが、美咲はプロの着付け師のように真剣な表情で、一切動じない。
「姿勢を正して。衿はうなじが少し見えるくらい抜くのよ。この方が色気があるわ」
腰のところで布が折り上げられ、おはしょりが作られる。
そして、帯が締められる。美咲が選んだのは、着物によく合う、金の入った洒落袋帯だった。
「帯はしっかり締めないと、着物が着崩れるわよ。ちょっと苦しいくらいで我慢して」
美咲はさらに、奥から櫛と、挿絵にもあるような小さな赤い花の髪飾りを取り出した。
「髪もまとめるわよ。そして、これ。私の母のよ」
「ま、待ってください!さすがに、髪飾りと化粧は…」
悠人は慌てて化粧だけは拒否したが、美咲は悠人の茶色がかった髪を器用に結い上げ、髪飾りの花を挿した。
「化粧まではさせないわ。でも、髪が散っているとだらしなく見えるでしょう?さあ、鏡を見てごらんなさい」
悠人は言われるまま、店の角に立てかけられた鏡の前に立った。
鏡に映ったのは、いつもの作業着姿の自分ではない。
華やかな着物に包まれ、髪を上品にまとめた、まるで女将の娘のような、美しくもどこか初々しい女性がそこに立っていた。
端正な顔立ちと着物が相まって、まさか自分が男性だとは、誰も思わないだろう。
「……すごい」
悠人は、鏡の中の「自分」に見惚れてしまった。
これが、美咲の狙いだったのだ。
美咲は満足げに頷いた。
「いいわ。今日からアンタは「ユキ」よ。さあ、着慣れない着物で転ばないように。接客に立って」
こうして、小料理屋「みさき」に、秘密を抱えた新人店員「ユキ」が誕生した。

こんな着物で接客は流石にしないですね。
というかたすき掛けしないと袖が全てをなぎ倒してしまいます。
とはいえ着物で接客とかロマンがありますね。
帯で締められると結構苦しいです。
なお、着付けのプロは、締めすぎなくても型崩れしなくて良いです。
見様見真似じゃ着付けは出来ないですね。


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