
佐々木裕太、24歳。彼の日常は、あまりにも平凡だった。
朝、目覚まし時計が鳴る前に目を覚まし、食パン一枚とインスタントコーヒーで朝食を済ませる。
満員電車に揺られ、定時きっかりに会社に着く。
職場では、上司の指示に忠実に従い、同僚とは当たり障りのない会話を交わす。
彼はごく普通の、どこにでもいる会社員だった。
「佐々木、この資料、A社に送っておいてくれるか? 今日中にお願いする」
「はい、課長。承知いたしました」
課長の指示に、裕太はいつものようにハキハキと答える。
だが、彼の内心は、常にどこか上の空だった。
仕事中も、ふとした瞬間に頭をよぎるのは、昨夜の「あの時間」のことばかり。
午後6時。定時になると、裕太はきっちり退社する。
無駄な残業はしない主義だった。
と言うより、早く帰りたかった。自分の「楽園」へ。
「お疲れ様です、佐々木さん!」
背後から、明るい声が聞こえる。
後輩の佐藤亜美だ。
彼女はいつも流行のファッションに身を包み、オフィスに華やかな彩りを添えている。
今日の亜美は、淡いブルーのブラウスに、膝丈のフレアスカート。
軽やかな足取りで、彼女は裕太の隣を通り過ぎていく。
「お疲れ様、佐藤さん」
裕太は精一杯の笑顔で返したが、その表情はどこかぎこちない。
彼女のサラサラとした髪、指先の丁寧なネイル、そして何より、自分には絶対に真似のできない「女性らしさ」が、裕太の心にちくりと刺さる。
いや、刺さると言うよりは、むしろ深い憧れにも似た感情だった。
彼女のメイクやアクセサリー、身のこなしを無意識のうちに観察してしまう自分がいる。
それは、いつしか裕太にとって、自分の「秘密の趣味」のための貴重な情報源となっていた。
満員電車を乗り継ぎ、自宅マンションの最寄り駅に降り立つ頃には、もうすっかり日は暮れていた。
コンビニで夕食を済ませ、自宅の玄関の鍵を開ける。
カチャリ、と音がしてドアを開けると、そこは裕太にとって、唯一の聖域だった。
一人暮らしの1Kのアパート。広さはないが、そこは彼の自由な城だ。
リビングの電気をつけ、鞄をソファに放り投げる。
ネクタイを緩め、スーツを脱ぎ捨てる。
ワイシャツのボタンを外し、肌に触れる生地の感触を確かめる。
そして、クローゼットの奥に隠された、もう一つの世界への扉を開ける。
(今日も、誰にも会わなかったな)
心の中で呟きながら、裕太はクローゼットから段ボール箱を取り出した。
箱の中には、様々なものが詰め込まれている。
ウィッグ、メイクポーチ、女性物の洋服、下着……。
これらは、裕太がこの一人暮らしの部屋でしか見せることのできない、もう一人の彼の姿を形作るための道具たちだった。
裕太がこの秘密の趣味に目覚めたのは、社会人になって一人暮らしを始めてからだった。
しかし、その萌芽は、もっとずっと幼い頃からあったように思う。
小学校に上がる前、裕太には一つ年上の姉がいた。
姉のおもちゃのドレッサーには、カラフルなプラスチック製の口紅やアイシャドウが並び、キラキラとしたアクセサリーが置かれていた。
姉が友達と遊んでいる間、裕太はこっそりそのドレッサーの前に座り、鏡の中の自分に口紅を塗ってみたり、ネックレスを首にかけてみたりした。
その度に、胸の奥で、まだ幼い裕太には理解できない「高揚感」のようなものが広がったのを覚えている。
それは、男の子が持つおもちゃとは全く異なる、きらびやかで、どこか神秘的な世界だった。
中学生になり、テレビや雑誌で「可愛い」と称される女性タレントやモデルを見るたびに、裕太は漠然と「自分もこんな風になれたら」という思いを抱くようになった。
男性として、そんなことを思う自分に強い罪悪感を感じ、誰にも言えず、心の奥底に封じ込めていた。
大学に入学し、パソコンとインターネットが身近な存在になったことで、裕太の世界は大きく変わった。
深夜、誰にも見られない部屋で、こっそり「女装」というキーワードを検索した。
すると、そこには、自分と同じような衝動を抱える人々が存在することを知った。
彼らのブログや掲示板を読み漁り、自分だけではないという安心感と同時に、秘めていた欲望が膨らんでいくのを感じた。
「でも、自分には無理だ」
そう言い聞かせ、その衝動を抑え続けていた。
しかし、就職を機に実家を出て、一人暮らしを始めることになった時、裕太の心に、これまでになかった確かな「自由」が芽生えた。
誰にも邪魔されない、誰にも咎められない、自分だけの空間。
そこでなら、どんな自分になっても許されるのではないか。
その衝動に抗いきれず、裕太は初めて女性物の服をネット通販で購入した。
安価な化学繊維のウィッグと、ごくシンプルなワンピース。
それらが届いた日のことは、今でも鮮明に覚えている。
ドキドキと高鳴る胸。
まるで禁断の果実に手を伸ばすような感覚。
初めてウィッグを被り、ワンピースに袖を通した。
鏡に映ったのは、普段の自分とは全く違う「誰か」だった。
ぎこちないメイクで、どこか滑稽にも見えたかもしれない。
だが、その時の裕太は、これまでに感じたことのない強い衝撃を受けていた。
(これだ……これが、俺が求めていたものなんだ……!)
胸の奥が、熱いもので満たされる。
それは、興奮と、解放感と、そして得体の知れない喜びが混ざり合った、複雑な感情だった。
その日から、裕太の秘密の時間は始まったのだ。
裕太はベッドの端に座り、化粧水を顔に塗っていく。
会社での無表情な自分とは違う、期待に満ちた表情が、鏡の中に現れる。
ファンデーションを丁寧に塗り、眉毛をコンシーラーで隠す。
女性らしい眉の形をペンシルで描き、アイシャドウパレットから肌なじみの良いピンクベージュを選ぶ。
佐藤亜美が使っていた色に似ている、と最近買ったものだ。
「うん、悪くない」
鏡の中の「自分」に、裕太は満足げに頷く。
少しずつメイクの腕も上がってきた。
YouTubeのメイク動画を参考にしたり、女性誌を隅々まで読んだりして、日々研究を重ねてきた成果だ。
次に、クローゼットから丁寧に畳まれた衣装を取り出す。
今日は、最近手に入れたばかりのメイド服だ。
白と茶色のコントラストが可愛らしく、フリルがたっぷりとあしらわれている。
ふわり、と広がるスカートに袖を通す。
肌に触れる柔らかい生地の感触が、裕太の心を解き放っていく。
リボンのついたカチューシャを頭につけ、長い金髪のウィッグを被る。
鏡の中には、もう佐々木裕太はいなかった。
そこにいるのは、ネコ耳のついたメイド服を着た、可愛らしい「誰か」だった。
裕太は、このもう一人の自分に名前をつけていた。
「ユウコ……」
鏡の中のユウコが、にっこりと微笑む。
自分自身が生み出した幻想の存在。
だが、裕太にとって、ユウコは紛れもない現実だった。
ユウコは立ち上がり、くるりと一回転する。
スカートがふわりと広がり、フリルが揺れる。
鏡の前で様々なポーズを試す。
女性らしい手の仕草、首の傾げ方、目線の送り方。
会社で亜美がやっていた仕草を真似てみる。
それだけで、まるで魔法にかかったかのように、裕太の心は軽やかになる。
疲れた体は、メイド服に身を包んだ瞬間、嘘のように癒されていく。
会社でのストレス、人間関係の悩み、未来への漠然とした不安。
それら全てが、ユウコになることで、一時的にではあるが、消え去るのだ。
この部屋は、裕太にとって唯一の安息の地だった。
誰にも踏み込まれない、自分だけの秘密の楽園。
裕太は部屋に置かれたクッションを抱きしめ、床に膝をついて座り込む。
まるで、この可愛らしいメイド服が、自分の体の一部であるかのように。
鏡の中のユウコは、少し憂いを帯びた瞳で、しかし確かな存在感を持って、裕太を見つめ返していた。
(この秘密が、いつか誰かにバレたら……?)
ふと、そんな考えが脳裏をよぎる。ゾクリ、と背筋に冷たいものが走る。
この心地よい空間に、一瞬だけ不穏な影が差した。
だが、裕太はすぐにその思考を打ち消した。
大丈夫。この部屋は、完璧な密室だ。誰にもこの秘密を知られるはずがない。
「大丈夫……大丈夫だよ、ユウコ」
鏡の中の自分に、裕太はそっと語りかける。
その声は、普段の裕太の声よりも、少しだけ柔らかく、高くなっていた。
まるで、本当にユウコという少女がそこにいて、自分自身を励ましているかのように。
裕太は、その日も夜が更けるまで、ユウコとして過ごした。
女性向けの雑誌を読み、メイクの研究をし、鏡の中の自分と無言の対話をする。
この時間が、彼にとって、何よりも大切なものだった。
疲れて眠りにつく頃には、裕太は再び佐々木裕太に戻っていた。
だが、彼の心の中には、確かにユウコというもう一人の自分が息づいている。
翌朝、彼はまたごく普通の会社員として、満員電車に揺られるだろう。
しかし、その瞳の奥には、誰にも見せることのない、秘密の輝きが宿っているのだった。

服やクローゼットの中身はすぐに変えられますが
部屋の模様まではすぐは変えられないですね。。。
部屋の中で女装する分にはバレなくて良いです♪
荷物が届いたときにあせりますがw
ベランダでスカートの揺れとか楽しめますよ。夜なら多分。。。


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