
「うーん、悠真くん、こっち向いてー!」
美鈴先輩の弾んだ声が、カフェの静けさに響いた。
彼女は、まるで獲物を捉えるハンターのように、スマホを俺の顔にぐいっと近づけてくる。
レンズに映し出されたのは、俺自身なのに、まるで知らない女の子だ。
つるりとした肌に、ぱっちりと開いた瞳。
長いストレートの黒髪ウィッグは、俺の肩までしなやかに垂れ下がっている。
「先輩、マジ勘弁してください……。俺、なんでこんな目に……」
俺は情けない声を出し、思わず顔を覆った。
だが、美鈴先輩はそんな俺の抵抗を軽やかにかわし、無邪気な笑顔で俺の頬をつん、とつついた。
「だって、すごく似合ってるんだもん!むしろ、こっちの方が本当の悠真くんじゃないかってくらい」
その言葉に、俺は思わず顔をしかめた。
心の中では「いやいや、どう考えても俺じゃないでしょ」と突っ込みを入れたくなる。
今日、美鈴先輩に呼び出されたのは、彼女が手伝っているという「コスプレ喫茶」の臨時スタッフとしてだった。
軽い気持ちで承諾した俺は、まさか自分が女装させられることになるとは夢にも思っていなかった。
「テーマは『男女逆転』。男の子は女装、女の子は男装なの!」
彼女は楽しそうに説明し、もうすでにTシャツにチノパンというボーイッシュなスタイルに着替えている。
隣には、美鈴先輩と同じ怪談研究会のメンバーもいる。
みんな、楽しそうに男装に興じている。
「だから悠真くんは、このイベントの目玉なの!ほら、悠真くんって中性的で童顔だから、絶対かわいいって」
美鈴先輩は俺の顔にファンデーションを塗り、アイラインを引いていく。
最初は抵抗していた俺もプロ顔負けの手際の良さにされるがままになってしまった。そして鏡を見て、息をのんだ。
そこに映っていたのは、まさしく美鈴先輩の言う「女の子」だった。
ウィッグが俺の顔の輪郭を柔らかく見せ、施されたメイクは、俺の無機質な顔に生命を吹き込んだかのようだった。
「やっぱ似合うじゃん!これ、写真撮っとかなきゃ!」
美鈴先輩は再びスマホを構え、俺の全身を撮り始めた。
その時の笑顔は、後から思えば、俺の悪夢の始まりを告げる合図だったのかもしれない。
店はアンティーク家具で統一されており、どこか懐かしく、それでいて不思議な雰囲気が漂っていた。
奥には、背の高い大きな姿見が置いてある。
木製の重厚なフレームに囲まれたそれは、店全体を映し出し、まるでこの部屋のもう一つの窓のようだった。
「開店準備、手伝ってくれてありがとうね」
声のした方を向くと、店長がそこに立っていた。
真っ白なシャツに黒いパンツを履いた、年齢不詳の穏やかな男性だ。
いつも笑顔で、どこか達観したような雰囲気を漂わせている。
「いえ、とんでもないです」
俺はぎこちなくお辞儀をした。
その時、店長はふと奥の鏡に目をやり、こう言った。
「その鏡には、その人の『本当の姿』が映ると言われているんですよ。悠真さん、もしかしたら、その姿の方が『本当の悠真さん』なのかもしれませんね」
店長の言葉は、冗談なのか本気なのか分からなかった。
だが、その言葉を聞いた瞬間、俺の背筋に冷たいものが走った。
鏡に映った俺は、にこやかに微笑んでいた。
美鈴先輩のスマホで撮られた写真と同じ、完璧な女の子の笑顔だ。
だが、俺は一瞬たりとも、その顔で笑った覚えがない。
俺は驚き、鏡の中の自分を凝視した。
鏡の中の俺は、さっきと同じように微笑んでいる。
そして、俺が瞬きをすると、鏡の中の俺は瞬きを返さなかった。
まるで、時間が止まったかのように、完璧な笑顔を浮かべて俺を見つめている。
「……気のせいか?」
俺は震える声で呟き、もう一度瞬きをした。
鏡の中の俺も、ようやく瞬きを返した。
ああ、疲れているのかもしれない。
俺はそう自分に言い聞かせ、鏡から視線を外した。
だが、心の中に生まれた小さな違和感は、消えることなく残り続けた。
開店と同時に、多くの客が押し寄せた。
皆、イベントのテーマを楽しんでいるようで、店の中は賑やかな声で溢れていた。
俺は、ウィッグとメイクでごまかした姿で、ぎこちなく接客に努めた。
「いらっしゃいませ!」
慣れない声で注文を取る。
客は皆、俺の女装姿を見て驚き、そして笑ってくれる。
最初は恥ずかしかったが、その反応に、少しずつこの状況を楽しんでいる自分に気づいた。
不思議と、この姿でいると、いつもより明るく振る舞えるような気がした。
ふと、店の奥にある鏡が目に入った。
接客の合間に、鏡の中の自分と目が合う。
鏡の中の俺は、先ほどと同じように微笑んでいる。
俺が客に頭を下げると、鏡の中の俺も同じように頭を下げる。
その時だ。
俺が客の注文を聞いている時、鏡の中の俺は、静かにこちらを見ていた。
そして、俺の口が言葉を紡ぎ始めるよりも早く、鏡の中の俺の口が、わずかに動いた。
「こっちに来て」
はっきりと、口パクでそう言った。
俺は思わず客への返事を止めて、鏡の方を向いた。
鏡の中の俺は、まだ微笑んでいる。
だが、その目元は、先ほどよりも一層冷たく、俺を見つめているように感じた。
「悠真くん、どうしたの?顔色悪いよ?」
隣でドリンクを作っていた美鈴先輩が、俺の様子に気づいて声をかけてきた。
「いえ、何でもないです……。ちょっと、疲れただけです」
俺はそう答えるのが精いっぱいだった。
だが、美鈴先輩は俺の言葉を信じず、鋭い視線で俺を見つめた。
そして、店内の客が少し減ったタイミングで、俺を店の隅に呼び寄せた。
「さっきから、鏡ばっかり見てたでしょ?」
美鈴先輩は真剣な表情で言った。
彼女の顔からは、いつものおどけた表情は消え、怪談研究会部長としての真剣な顔つきになっていた。
「このカフェに伝わる噂、知ってる?」
「噂?」
俺は首を傾げた。
「この店は昔から『もう一人の自分』を閉じ込める鏡があるって、言われてるの。鏡に映る自分は、その人の心の闇や、本当はなりたかった姿を映し出すんだって」
美鈴先輩は静かに語る。
俺は彼女の言葉に、心臓がドクリと音を立てるのを感じた。
「特に、女装とか男装とか、自分の性別を偽った姿に強く反応するって言われてるの。鏡の中の『もう一人の自分』は、その姿を依代(よりしろ)にして、現実世界に出てこようとするんだって」
その言葉は、まるで俺のためにある言葉のように感じられた。
俺は震える声で「まさか」と呟いた。
だが、美鈴先輩は俺の言葉を否定しなかった。
「この鏡に映った自分の姿を、一度でも否定したり、あるいは強く意識したりすると、鏡の中の自分は力を増すらしいの。だから、触っちゃダメ、見つめちゃダメだって、この店のオーナーがずっと言ってた」
俺の心は、恐怖と好奇心でぐちゃぐちゃになっていた。
俺は意を決して、あの鏡の前に立った。
鏡の中の俺は、静かにそこに立っている。
「本当に、もう一人の俺がいるのか?」
俺は鏡に向かって、問いかけた。
鏡の中の俺は、微笑んだまま何も答えなかった。
俺は手を伸ばし、鏡の表面に触れようとした。
その瞬間、鏡から冷気が吹き出し、俺の全身を包み込んだ。
心臓の鼓動が一瞬止まったように感じ、呼吸が苦しくなった。
「うっ…!」
俺は思わず鏡から手を離し、後ずさった。
冷気はすぐに消えたが、俺の心臓はまだドクドクと不規則な音を立てていた。
「悠真くん!?」
美鈴先輩が駆け寄ってきた。
「大丈夫!?だから触っちゃダメって言ったのに!」
美鈴先輩の声は、まるで遠くから聞こえてくるようだった。
俺は、もう一度鏡の中の自分を見た。
その瞳は、俺の恐怖を嘲笑うかのように、ただ静かに、そして楽しそうに輝いていた。

ノリの良い飲食店とかなら女装男装はありえますかね?
ても恐怖を煽るようなものはなかなか置いてませんね。
女装して働くつもりはないですが
受け入れてくれるならやってみたい気持ちもあります。
イメージイラストを追加してみました♪

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