
その日、小雨が降っていた。
大学の授業が終わり、鬱陶しい湿気に気が滅入って、いつもなら寄り道などしない僕、慎(しん)は、つい路地裏の古道具屋に足を踏み入れてしまった。
二十歳になっても、僕は相変わらずだ。
人付き合いは苦手で、ゼミのグループワークではいつも発言をためらい、自分の見た目にも自信が持てない。
身長は平均より少し高いけれど、猫背で、目線は常に地面に落ちている。
心の中では優しくありたいと願っているのに、それが口から出る時にはいつも遠慮という名のブレーキがかかり、本音を隠してしまう。
古道具屋の中は、湿気と埃と古い木の匂いが混ざり合っていた。
店主らしき人は見当たらず、僕はただ静かに、使い込まれたガラクタの間を縫って歩いた。
そして、店の奥、薄暗い一角に、その鏡は鎮座していた。
アンティークの、大きな姿見。
縁は複雑な蔦の模様で飾られ、深い茶色に変色している。
きっと長い時間を、誰かの日常を映しながら過ごしてきたのだろう。
僕は興味を引かれ、その鏡の前に立った。
自分の姿が映る。
疲れた顔、少し濡れた前髪、地味なパーカー。
ああ、いつもの僕だ。そう確認して、鏡から目を離そうとした瞬間、違和感が全身を駆け巡った。
もう一度、鏡を凝視する。
そこにいるのは、確かに僕の顔立ちをしていた。
しかし、髪は肩にかかるほどに伸び、肌はなめらかで、纏っているのは柔らかな生成りのワンピースだ。
何よりも、その表情が違っていた。
僕自身が鏡に映る自分を見るとき、決まって浮かべている不安や不満、遠慮の色が一切ない。
代わりにそこにあったのは、まるで春の日差しのような、穏やかで柔らかな微笑みだった。
「あなたが、わたし?」
突然、その鏡の中の彼女が、唇を動かした。
高すぎず、低すぎない、澄んだ声が、古道具屋の静寂を破った。
僕は息を飲んだ。心臓が胸郭を叩き、全身の血が一気に引いていくのを感じた。
「え……?」
僕は後ずさりしそうになったが、動けなかった。
彼女は、もう一人の自分なのに、あまりにも眩しく、そして美しかった。
それは、僕が心の奥底で抑圧してきた、素直さや、人に優しくありたいという願いが、そのまま具現化した姿に見えた。
「大丈夫よ。怖がらないで。わたしは、あなたよ」
彼女は、僕と同じ、いや、僕以上に心優しい目をしていた。
なぜか、僕はその言葉を信じることができた。
恐ろしい現象だというのに、僕の心は不思議なほど安らいでいた。
僕はまるで何かに引き寄せられるように、鏡に手を伸ばした。
冷たいガラスに指先が触れた、その瞬間。
世界は白一色に染まり、頭が割れるような眩しさに包まれた。
平衡感覚を失い、僕は意識を手放した。
目を覚ますと、僕は見知らぬ部屋のベッドにいた。
部屋の作りは、古道具屋で見つけた鏡の雰囲気に似て、どこか懐かしい。
頭はまだ混乱しているが、体が異常に軽いことに気づいた。
そして、鼻腔をくすぐる、今まで嗅いだことのない甘い香水の香り。
飛び起き、部屋に備え付けられていた姿見の前に立つ。
息が詰まった。
そこに立っているのは、あの古道具屋の鏡で見た、柔らかな微笑みを浮かべた少女の姿。
長い髪、華奢な肩、そして——高い、柔らかい声。
「ひゃっ……!」
思わず出た声に、さらにパニックになる。
これこそ、まさしく女の子の、僕の声ではありえない高い音域の声だった。
その時、壁に立てかけてあった、僕が古道具屋で買ったはずの鏡から、声がした。
「おはよう、慎。気持ちはどう?」
鏡の中には、見慣れた僕の姿、つまり元の僕が映っている。
彼は少し笑っていて、その表情はどこか晴れやかだ。
「な、なんだこれ……!僕はどうして……!?」
僕は慌てて自分の体を触った。
確かにもう一人の自分になっている。
体が女の子の形をしている。
鏡の中の僕(=元の慎)は、静かに言った。
「少しの間、入れ替わってみましょう」
「入れ替わるって……冗談じゃない!すぐに戻してくれ!」
「残念ながら、それはできないわ。少なくとも、わたしが納得するまでは」
鏡の中の慎は、そう言うと、わずかに顔を曇らせた。
「あなたは、いつも自分を閉じ込めていた。そのままだと、いつか壊れてしまう。だから、この姿になって、外に出てみて。わたしがずっと抑え込んでいた感情を、代わりに表現してごらんなさい」
「抑え込んでいた感情……?」
「そう。名前が必要ね。あなたは、わたしがそうであるように、真実で、穢れのない存在。真白(ましろ)と名乗って」
真白。
僕のもう一人の、女の子の自分。
鏡の中の慎は、少し戸惑いながらも、優しく微笑んでいる。
その笑顔は、僕が普段決して見せない、心からの解放を映しているようだった。
体は恐怖で震えていたけれど、鏡の慎の目が「大丈夫だ」と語りかけているように感じた。
僕は深く息を吸い込み、真白として、初めて外へ踏み出した。
アパートのドアを開け、階段を降りる。
外の空気は、湿気を含んでいたが、どこか清々しい。
僕は、この数日間、雨続きでどんよりとしていた景色を思い出す。
「風が、こんなに柔らかかったなんて……」
真白の体が、確かに風を柔らかく受け止めている。
いつもの僕なら、風はただの抵抗であり、早くその場を立ち去りたいという焦燥感にしかならなかったはずなのに。
スカートがふわりと揺れ、足取りが自然と軽くなる。
戸惑いながら歩いていると、聞き慣れた明るい声が背後から響いた。
「あれ?見ない顔だね。新入生?」
振り返ると、そこにいたのは、大学の友人で、僕が唯一気を許せる同級生の紗季(さき)だった。
太陽のように明るい笑顔で、彼女は僕(真白)の顔を覗き込んでいる。
「え、あ、その……」
「わっ、すごい美人!私、紗季っていうの。君は?まさか、このアパートに引っ越してきたとか?」
彼女のあまりに率直で人懐っこい態度に、僕はたじろいだ。
いつもの僕なら、すぐに目を逸らし、適当な言葉でその場を去ってしまうだろう。
しかし、今は違う。真白という器にいるからか、あるいは鏡の向こうの僕の視線を感じるからか、僕は臆病にならなかった。
「ま、真白、です……。最近、こちらに……」
即興で名乗った「真白」という響きは、思ったよりも自然に、僕の舌に馴染んだ。

異世界というか、平行世界の自分との交換。
パラレルワールドって観測出来ないんですかね?
ちょっと何かがずれてたことで
自分が男だったり女だったり、右利きだったり左利きだったり。
鏡というものに、そんな妄想を掻き立てられます。
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